「フジコ・ヘミング 〜あるピアニストの軌跡〜」を観る
NHKで「フジコ・ヘミング 〜あるピアニストの軌跡〜」という番組の再放送を見る。
老女にして現役ピアニストとして活躍する彼女の人生は波乱万丈。
演奏会の会場に立つ前に十字をきる彼女は、カトリックのクリスチャンだそうだ。
国籍の問題や病気によって何度も閉ざされる道。次第に彼女は「自分の人生にもう出番はない」、今残された人生は天国への通り道にすぎないと悟る。
お絵かきをしたり、生活のなかにささやかなこだわりを見出したり、入ったことのない店に入ったり、そうして日常のなかで肩ひじ張らず、自分らしく思い、感じ、試みること、それはみんな天国にもっていく宝物になる。このスピリチュアリティこそ、独り身の女性が(九匹の猫と一緒に)晩年をかくも豊かに生きる、秘訣なのだろう。
"運命はいつか必ずやってくる。
なにかを始めて、これで成功しようなんて思っているときは、ぜんぜん成功しない。
どうしてダメなんだって、ジタバタしながら思う。
それは自分の才能とは関係がない。
天に運命を支配されているのだと思う。
運命は誰にも公平。
必ずそうなるように決まっている。
人間の間で決められることではなく、天から運命を与えられている。
一匹の雀の命でさえ、神様に左右されているのだから。
運命は、自分の力ではどうすることもできない。
一生懸命こちらがやっても、扉は開かない。
だけど自分だけの力では開かない扉が、
ほかからのなんらかの力で「いま!」っていうときが、必ず来る。
そのいまのために、私たちは準備しておかないといけない。
チャンスを逃さないように。
そのときになって、ああ準備していればよかったなあ、って後悔するかもしれないわ。
それは突然、部屋に強盗が入ってくるのと同じ。
運命もいつやってくるかわからない。"
(阪急コミュニケーションズ (2001/6/11) 「フジ子・ヘミング 運命の力 」 まえがきより)
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靖国右翼、キリスト教を攻撃する
靖国崇拝の西村修平なる右翼とその子分がイグナチオ教会(わたしの母校上智大学に隣接している)に乱入しようとしたそうで、信者代表を吊るしあげている動画を嬉々としてネットにアップロードしている。
これはヒドイ。
カトリックが反靖国の主張をしているとして激情しているようであるが、ひたすら大義も何もないキリスト教憎しのいじめを繰り広げている。キリスト教の教義で揚げ足取りをして、信者という以外に何の落ち度もないはずの人間を徹底的に人格攻撃しているのは、クリスチャンでなくても不愉快極まりない。
しかしここには無学で傲慢な人間がキリスト教を攻撃する時の典型的なパターンがみてとれるので興味深い。
こういうタイプの人間は意見を違えるものを「非国民!嫌なら日本から出てけ」などと鬼の首でもとったかのように罵るが、どういう思想をもっていようと自由なのが現代日本社会のルールであり、手前勝手な思想を理由に公共の場で赤の他人に罵声を浴びせたり、街宣カーで大爆音を垂れ流したりするのは、わたしの愛する日本国の公共の秩序と平和を大いに乱すことであり、そんなことを嬉々としてする人間こそ、わたしは非国民と呼びたい。
こういう右翼や国粋主義者というのは、大抵が個人としては小心者というのが実際のようだ。彼らは劣等感を補うために「かつて偉大だった大日本帝国」および「臣民」とか「サムライ」とかいう幻想の暴力機関や権力を狂信し、日常の鬱屈した感情、不平や不満のはけ口を、彼らの言う「非国民」やら外国人に求めるわけだ。
いずれにしてもこの動画は一般市民への誹謗中傷を許可なく撮影し、実名まであげつらっているという点で公序良俗に反するし、肖像権のあからさまな侵害にあたるので、早急に削除されるべきだ。
※本記事は西村修平なる威力妨害的右翼活動家および類似の思想・信条を支持する人物・団体を批判するものです。死者追悼の社としての靖国神社を批判するものではありません。
また私は普段右翼や保守主義を敵視しているということはありません。歪んだ左翼思想よりは評価しています。しかしテロリズムは許せません。連中はこんなことをしていて「英霊」に顔向けできるとでも思っているのでしょうか。
現代社会というカルト
日本ではとかく、宗教というとカルト的な危うさを連想される。
宗教とカルトの違いは何か。それは確かに微妙なものがある。
日本の現行法では宗教とカルトの別はない。(欧米ではある)
宗教というのは結局みんな、目には見えないものを奉じる、妄想的で反社会的な行為であり、異常な精神状態に他ならない、というのが常識人の大体の本音ではないかと思う。それは過去から現在まで起きた数々の宗教による数々の言動や事件を見れば明らかだ、と説明されるだろう。
宗教とは知性、理性において未発達の人間のために作り出され、騙されやすい他人を操り、労せずして自らの優越性を他者に対して正当化する薄汚い手段である、と考える人は多いし、わたしはこの考え方を否定しない。しかしわたしの場合、この批判は“いわゆる宗教”にとどまらない。現代社会にも、自らを宗教と呼ばない事実上の宗教、多くのカルトが跋扈している。会社、ボランティア、マスメディア、サブ・カルチャー、あらゆるところに。
たとえば体育会系の部活などはカルトを定義するあらゆる要素を含んでいる。閉鎖的な集団行動、有無を言わせぬ上下関係、肉体的・精神的な犠牲や懲罰を当然のように課し、これを当然のように受け入れる精神状態、伝統と称する不合理な苦行や一気飲みなどの変性意識を伴う儀式的性格、そして目標を成し遂げたときに共有される排他的な集団的恍惚感、そんな活動の日常的繰り返しとメンバー間の閉鎖的人間関係により強固に形成されてゆく帰属心、依存心。
あるいはマスメディア。特定の歌手やアイドルたちを神々のごとく崇拝するファンたち。特定の文学や漫画・アニメや映画の世界に熱狂し、これを神話のごとく真剣に受け止め研究し、そのなかに人生の課題やその答えを求めてしまう人々。“流行”を追い求め、企業やメディア、権威の提示するあらゆるもの、人生観、人間観、ライフスタイル、道徳や価値観から星占いや血液型占いまでを、疑うことなく受け入れる人々(および疑いを感じながらも最終的に追従する人々)。それらを受け入れようとしない人たちを“流行おくれ”と蔑むことを当たり前のように考える、主体性のない無数の現代人たち。彼らはみな、自分たちがいかにその考えや行動を、他人の作り上げたものによって操作誘導されているかについて無自覚であるという点で、彼らの批判し蔑む古代や中世の人々となんら変わることはない。
現代社会はその成し遂げたはずの知的、理性的進歩を差し置いて、極度のパラノイアにあると言う外ない。
平和と自殺率の関係
<・自殺者数、過去最悪に迫るペースに警察庁のまとめによると、7月の全国の自殺者数は2753人で、前年同月を101人上回ったことがわかった。1月以降、すべての月で前年を上回っている。また、1月からの累計は1万9859人で、過去最悪だった03年に迫るペースとなっている。 >(日テレNEWS24 - 08月29日 02:34)
「平和」国家、日本は先進国でも最も自殺率が高い部類に入る。
この自殺率であるが、先の大戦で興味深いことが起きた。戦争が起こると、世界中で自殺率が激減したのだ。
わたしは思想家や運動家、教育者、政治家たちの言う「平和」を信じない。
なぜなら彼らが賛美し、推進・維持・強化しようとする「平和」の名の下に、多くの人々が抑圧され、排斥され、身も心も苦しめられているからだ。そしてそのことを誰も省みようとしない。彼らの賛美する「平和」の足下に潰され、身動きが取れなくなった人たちを省みるものはいない。
そこでは争いの根本原因を明らめようとも、改めようともされない。それでは決め付けの平和、押し付けの平和でしかない。
そんな彼らの「平和」はともすれば偽善者の平和、排他的で独りよがりな平和でしかない。
大体、「平和」を主張する人々の態度が平和的であること自体稀であることに疑問を抱かなければならない。
真の平和とは何か。その原点となる言葉から探ってみよう。
『ヨーロッパ統合とキリスト教』(坂本進、新評論、2004/12/10)参照。
・日本&韓国 平和、中国 和平
平和、講和、仲直り、和解、公平、バランス。「和」は人々が穀物を口にして飢えのない状態を表している。
・英語 Peace、フランス語paix、スペイン語paz、イタリア語pace
日本人がよく日本語の平和と同義に捉えるピースpeaceの由来はラテン語のpaxからくる。それは「平和」と同時に「協定」を意味し、協定を結び休戦、終戦することが平和であるとする、政治的色彩の濃い言葉でもある。
・ギリシャ語 eirene
戦争がない状態を意味する。アリストテレスが「われわれは平和に暮らせるように戦争をする」と語った思想的背景にも関係している。
・ドイツ語 Friede,Frieden
「平和」は「自由」「愛」があって始めて完全なものであるというような思想的態度が伺える。
・ロシア語 mir
「平和」と「世界」両方を意味する。平和は常に全体的でなければならず、世界は平和であるべきであるという態度が伺える。
・アラビア語 salam
日常の挨拶であり、平和、健康を意味する。
・インドーサンスクリット Shanti
主として霊的に満ち足りた心の平和、内面的安らぎ、苦痛や快楽に煩わされない心の平静をさす。「平安」「心の平和」の意味合いが強い。仏教でいう涅槃寂静はまさにShantiの最高段階である。
・旧約聖書ーヘブライ語 Shalom
積極的・全体的平和であり、意味内容豊富である。成就、完成、熟成、健全性、調和、繁栄、友情などを意味する。
こうしてみると、宗教的民族の「平和」の方が、より意味内容が成熟しているように思われる。
真の平和は突き詰めれば宗教に足を踏み入れるしかない。
そうでなければ、ホッブズの言う、人間の自然状態である「万人の万人に対する闘争」を受け入れる他ない。そして「平和」は政治的、法的に確保される、個人間の果てしなき利益闘争の場と成り下がる他ない。そしてやがては地位、富の格差の固定へと向かうことは、人類の歴史を振り返れば明らかだ。
そのとき「平和」は、いわゆる「負け組」にとって牢獄でしかなくなる。そのとき戦争は、牢獄が破られるかもしれない、一つの希望となる。それこそが、戦争が自殺率を下げるという事実の、皮肉な真相ではないだろうか。
今のローマ教皇ベネディクト16世が9月11日テロの跡地を訪問し、語った言葉を紹介したい。
「平和の神よ、この暴力の世界に平和をもたらしたまえ。すべての男女の心に平和を、地上のすべての国々に平和をもたらしたまえ。心と精神を憎悪で蝕まれた人々を愛の道に導きたまえ。」
気がつくのは、この短い言葉のなかで、世界、国家、そしてすべての個人の心の平和までが言及されていること。真の平和は常に全体的・包摂的でなければならない、そしてその本質とその果実は個々人の心に求められなければならない、ということによく気が配られている。
ほんとうに平和を訴えたいのなら、このぐらいのことは言えないといけないし、このぐらい宗教的でなければいけないと考える。


