The Journey : Somewhere Down the Road - 200608

読書レポート 『ウォールデン 森の生活』

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 アメリカの文学者ヘンリー.D.ソローは27歳のときウォールデンの森の奥に一人で移り住み、大自然の中で自給自足の生活を経験しました。  


 外界との接触が最小限であったそこでの生活の中で、彼は自然や人間、社会について、独自の研ぎ澄まされた観点から観察と思索にふけりました。   そこで執筆された著書には、若かったソローが、同じく若い人々に向けて送る啓発的なメッセージや思いが込められています。  ここでそのなかのいくつかを抜粋しつつ紹介します。 


 


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 このいくらか自由な国に暮らしながら、大多数の人は、軽薄な心の動きとつまらぬ誤解から、仲間同士の争いや、なんのためにもならぬ過酷な労働に呻吟しています。そのため大多数の人は、人生が生み出す最高の果実を手にできません。  


 人の手は、長く酷い労苦のために、硬く、鈍感になり、震えさえして、果実を摘もうにも摘めません。日々を高潔に生きるなど、望もうにも望めません。真に人間らしい良き関係を築こうにも、築けません。  分業の中にあって、わずかの知識をひけらかして生きる現代人が、人として成長するために必要な、「ものを知らない(そして知りたい)」という感覚をどうして持てるでしょう。私たちは互いに食物や衣服を与え合い、希望を語り合い、気力を回復する機会を作り、お互いに本当はどんな人間であるかを知っていくべきです。  


 人間が生み出す最も素晴らしい産物である人間性は、土が生み出す最高の産物である果物の、そのまた果皮に生じる白く繊細な粉と同じように、暖かく見守り、きめ細かく世話することによってのみ、生み出すことができます。  


(…)


 よく言われる人の神性とは、人の何を指すのでしょう?例として昼夜を問わず街道を市場へ向かう荷馬車の御者を取り上げましょう。どこが神のようで、不滅なのでしょうか?御者は一日中おどおどと身をすくめ、何かを恐れてでもいるかのようです。  人々は自分についての自分の考えの奴隷になり、囚われ人になっています。世が下した評価の奴隷です。世の評価が専制君主のように恐ろしいといっても、自分の評価に比べれば怖くはないでしょう。  人は自分をどう考えるかで、自分を方向づけ、自分の運命を決めているのです。


 (…)  


 人の巨大な集団が、静かな絶望のままに、その日その日を暮らしています。あきらめとは真の絶望にほかなりません。誰もが陥りながら意識していない絶望が、スポーツや芝居を鑑賞する人々の心の奥底に隠れています。そこに本当の遊び心は働いていません。本当の遊び心とは、仕事を成し遂げた後に生まれるものです。絶望に通じる事柄や考えには関わらない姿勢こそ、私たちが身に付けたほうがいい知恵です。  


 すくすくと育った敏感な人なら誰でも、太陽はいつも明快であることに気づいています。思い違いを正すのに遅すぎはしません。  何かを考えたり、試みたりするのに昔から採られているやり方、ドグマは、信じてよい根拠がない限り、信じてはいけません。多くの人が真実と言い、あるいは何も言わずに黙って認めているからといって、今日の真実が明日の虚偽かもしれません。


 年長者があなたにはできないと言うことでも、やってみればできるとわかったことがあるでしょう。たとえ賢人でも、人生の中で、当人だけでなく誰にでも役立つ絶対の価値を学べるかとなると疑問です。  年長者といえども、後輩が真に必要とする助言を与えることはできません。なぜなら、年とった人ですら経験は限られ、人それぞれの事情から、人生を惨めな失敗だったと思っているからです。


  物事を決まった型にはめ込む考え方は、限りなく変化に富み、歓びに満ちた人の暮らしを知り尽くした、と勘違いした結果です。けれど、あらかじめ人の可能性を推し量り、型にはめ込むことが、だれにできるでしょう。  人の可能性を過去の人が成し遂げたことを基準にして推し量ろうとしても、できるはずがありません。  なぜなら人が他人と全く同じことをしているというのは、実は全く無いと言っていいほど少ないからです。だからあなたの挑戦がたとえうまくいかなくても、気に病むことはありません。だれもあなたを咎めだてできる者はいないのですから。


  多くの人は、いつも社会の評価に誠実に生きるようにさせられています。変われるのに変わらず、自分の小さな暮らしを大切にし、それが唯一の生き方だと思い込んでいます。


  しかし本当は、一つの中心から無数の放射線を描くことができるように、人はそれぞれに様々な生き方を描けるのです。  人が生き方を変えるということは偉業であり、歓びあふれる奇跡ですが、それはいつでも、今の瞬間でも、起こり得る奇跡なのです。


 ― ヘンリー.D.ソロー 『ウォールデン 森の生活』


主体と行動についての小話

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 “It’s not who you are underneath but what you do that defines you.”


 (人が何者であるかは本性ではなく行動で決まる)  


最初にこの言葉を聞いた時私は違和感を覚えた。


 私が何者であるかが、私という主体の内奥を無視して、うわべだけの「行動」で決まるというのはいささか横暴ではないかと。  しかしそこでさらに考える。では「私」という主体は何か。  そしてそこに答えなど出ないことに気づく。  


 私が思い描く「私」など、所詮は陳腐な言葉でつづられた、過去の記録と不確かな記憶と、それに対応する「世間的」文脈への投影、および世間への(私をこう見て欲しいという)期待で塗り固められたフィクションに過ぎない。
 そこには私の内奥に秘められた本性なり、確固たる自生的主体なりが出る幕はない。そこに唯一観察されうる先天的「自我」と呼ばれるべきものは、間に合わせの地図の上で、都合良く引いた五線譜の上で、「私」という物語を埋め合わせよう、そして必死に「私」を外部に表出しようという本能にも似た衝動だけである。


 改めて気づくのは、一人間の主体は自らが不可避的に投げ込まれる、歴史(過去)や社会や身体的性質といったコンテクストから自由たり得ず、その思考は絶えず無意識下に処理されるそれらコンテクストの抑圧から自由たり得ない。
 実に我々は自分が何者であるか知らないし、考えたところで、「私」という間に合わせのフィクション以外に知ることはできないのだ。    


 思考する「私」という意識はあまりにも脆弱で、不実で卑しいものではないか。
 先人たちは祈り、瞑想、思索、修行といった様々な方法で、この混沌たる意識の昇華、より高次な意識への超克を試みてきた。
 これら神性や真理・哲理への求道者を駆り立てたものは何か?私のごとき矮小な者が察するにあまりあるものではあるが、その内に少なからず“世俗的人間への軽蔑”が潜んでいたことは彼らの言行から容易に直感できるのではないか。  


 その一極を司るであろうニーチェを例にとろう。
 彼は非主体的な人間を『畜群』と呼んだ。これは文字通り、均質的な世間の価値判断にブレインハックされ、みな同じような顔つきで同じように語ることしかできない、「自己意識」をもつことが出来ないという意味で動物と同じであるという趣旨だ。これは「意識が人間の存在を決定するのではなく、人間の社会的存在が意識を決定する」と言ったマルクスの唯物弁証法にも通じるところがある。  


 これほど過激に彼が指摘することとは、 “その時代、その地域、その社会(そしてマルクス的に言うとその階級)の価値判断に絶えず支配された偏狭な世界観でしか自分自身すら理解できない(これを『臆断の虜囚』という)ために、我々の思考は(世間的常識のようには)決して自由でなく、その点において我々は畜生への退化をきたしている。” ということである。  


 この“世俗的人間への軽蔑”こそが彼の唱える「超人」へ向かう超克の熱情となっている。  畜群への嫌悪感から自然に生じる、それらから離れたい、それらより上に行きたいというこの欲求を彼は『距離のパトス』と呼んだ。  しかし絶えず嫌悪感に苛まれるのはしんどいので(事実彼は最終的に狂死する)一端彼の話から離れることとする。  


 さて、どうやら少なくとも私のような馬の骨には内観によって得られる「私」など所詮絵に描いた餅、砂上の楼閣となってしまうようだ。その意味で例の台詞の前半は当を得ていると、今は思うことが出来る。


 この定理が現実的に意味するものは、「たとえどんなに根が良かろうと、まじめだろうと、忍耐強かろうと、優しかろうとも、それが身体的に劣っていたり選択を誤ったり結果を出せなかったりすればデクノ坊、悪人呼ばわりされても文句は言えない。その逆もまた真なり。」ということになろう。  


 これは大いなる不条理である。しかしそれこそが世の中の現実の姿なのだろうか。  
 人生は残酷で、世界は不条理なのだということが古今東西の逸話や伝承が常に伝えようとしたテーマであるように、我々は何時でも何処でも“カインとアベル”なのだ。  


 


 話を戻して台詞の後半部分を検証しよう。
 人間が行動によって定義されるという節を聞いてマルクスを思い出す。彼は先ほど述べた「意識が人間の存在を決定するのではなく、人間の社会的存在が意識を決定する」という定理によって普遍的人間性を否定し、間の本質は自己が行動したその成果、生産物によってしか定義することはできないとした。ここから労働のありがたさと階級闘争のすばらしさが説かれていくのだがそれはまた別の話である…。  

 確かに我々が何者であるかは、実質的には行動によってしか知ることも変えることもできないと言える。そこで自らその動機を問い詰めることは全く野暮なことではないだろうか。  

 この得体の知れない「私」を浮き彫りにさせる方法は行動であり、状況への体当たりに他ならない。  
 殻を突き破り、膜を突き破り、壁を突き破って突き進み、振り返ってその痕跡を確認して少しずつ「私」の輪郭を突き止めていくのではないだろうか



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