京都〜嵯峨野バカンス
先週末はオクスフォード短期留学の同窓生を交えた同窓会も兼ねて、嵯峨野の別荘で過ごしました。別荘ではみんなでまった〜り過ごし、日中は気が向いたときに気が向いたところにぶら〜り出かけて、あっという間に楽しい時が過ぎていきました。時は秋の行楽シーズン真っ只中、紅葉も盛りなら観光客も盛りでした。
特に清水寺の夜のライトアップは大変な盛況で、有名な清水の舞台には足の踏み場もないほど人が詰めかけて、そのうち舞台がひしゃげるんじゃないかと怖かったです。(;’д’)
生まれも育ちも京都の私ですが、各地から出てきてくれたみんなとまわる京都はまた一味違うようでした。やっぱり京都はいいところ。いざ参らんとすれば行くところはいくらでもあるし、どこも四季折々で何度いっても飽きない。
紅葉はまさに今が旬といった感じで、いたるところで燃えるように美しい風景を見ることができました。
林語堂 〜 秋
〜林語堂著作よりの抜粋〜私は春が好きである。しかし春はあまりにも幼すぎる。
夏もまた好きだが、尊大すぎる。
やはり私は何よりも秋が好きである。黄金色の木の葉、その柔和な色調と豊穣な色合いが、その感傷と死の兆しを湛えた気分が好きである。
秋の輝きが意味するのは、春の無邪気さでもなく、夏の尊大さでもなく、人生の限界を知り、足ることを知る初老の円熟と分別である。
「人生は限りあり」という認識と豊かな経験から様々な色彩の交響楽が奏でられるのである。
緑色は生命の力を代表し、橙色は充実を代表し、紫色は屈従と死を代表する。
月光がその上に降り注ぐとき、その顔には悲しさに満ちた蒼白な表情が浮かび上がる。
しかし夕照が絢爛たるその輝きをもってその顔を撫でるとき、歓喜に満ちた笑いがこぼれるのである。
初秋の涼風が山野を渡るとき、木の葉は楽しげに舞い上がり、地上に落ちていく。
しかし落ち葉の歌声が歓喜の歌なのか、暗然とした鎮魂の歌であるのか、誰にも聞き分けることは出来ない。なぜなら初秋の歌は平静で、分別があり、円熟の精神を持っており、憂鬱に対して微笑みかけ、興奮、鋭敏、冷静を賛美するからである。
こうした秋の精神を辛棄疾はその詞「醜奴児」の中で美しく表現している。
少年は愁いの滋味を職らずして
愛このんで層楼に登る
愛んで層楼に登りて
新詞を賦す為に強いて愁いを説けり
而して今愁いの滋味を職り尽くし
説かんと欲して環また休やむ
説かんと欲して環た休め
却って道いう 天涼しくして好個の秋なりと
愛このんで層楼に登る
愛んで層楼に登りて
新詞を賦す為に強いて愁いを説けり
而して今愁いの滋味を職り尽くし
説かんと欲して環また休やむ
説かんと欲して環た休め
却って道いう 天涼しくして好個の秋なりと
―林語堂 『中国=文化と思想』 講談社学術文庫
外尾悦郎氏講演会を聴講
秋も深まり寒さがつのってまいりました。今日は上智で外尾悦郎さんの講演会に出席。
言うまでもないかもしれないけど、サグラダ・ファミリアの建築家 aka ネスカフェ違いの分かる男(笑)です。
斜に構えたところのない誠実で毅然としたお人柄で、とてもいいお話が聞けました。
講演中度々「最大の報酬は成し遂げたということである」といったセネカの言を引用し、報酬目当てではなく、充実感を持てて愛情を注ぐことの出来る仕事をしなさいという言葉は、自分の信念に従って一心に生きてきた先生だからこそ言えるのでしょう。
またサグラダ・ファミリアで数多く見られる葉っぱと実のオブジェについての先生の解釈もおもしろい。即ちこれは言葉を表しているとおっしゃる。
うるわしい果実は自分で勝手にできるのではなく葉っぱが時間をかけて栄養をおくってくれて初めて完成するものであるように、人の心もさまざまな言の葉を蓄えてはじめて実を結ぶのだとおっしゃるのです。
そのほかにも様々な興味深い話をしてくださり、芸術家らしく、深い洞察力で人間を考えているのだなあと感心しました。
サグラダ・ファミリアの設計者ガウディという人も面白い人で、自分の師は誰かと訊かれたら、あれだと木を指差したそうな。
それだけに彼の設計は、木の枝のような自然の理にかなった支柱構造や果実の装飾といったような、実用をも兼ねた自然へのオマージュに溢れている。
是非一度この眼で見てみたいものです。
外尾悦郎 WIKIPEDIA
サグラダ・ファミリア WIKIPEDIA
スラートの喫茶店
インドのスラートの町に喫茶店があった。そこにいろんな土地からの旅行者や外国人たちが集まって、よくお喋りをするのだった。あるときにそこにペルシャ人の神学者がやってきた。彼は生涯神の本性の研究を続け、その方面の書物を読んだり書いたりしていた。あまり長いこと神について考えたり読んだりしているうちに、気が変になり、頭の中がすっかり混乱して、とうとう神を信ずることをやめてしまった。
そのことを知った皇帝は、彼をペルシャの国から追放した。
そのように生涯宇宙の第一原因は何か?などと考え続けて頭が混乱した哀れな神学者は、自分が理性を喪失してしまったことを悟らないで、もう世界を支配する最高理性者など存在しないと考えるようになった。
この神学者には、どこにへでもお供をするアフリカ人の奴隷がいた。神学者が喫茶店へ入ると、アフリカ人は戸口の外の庭の石の上に太陽にあぶられながら坐って、たかってくるハエを追い払っていた。神学者は喫茶店のなかのソファに横になって、アヘンを注文した。アヘンを飲み干して、それが彼の脳裏に作用し始めると、彼は奴隷に向かって言った。
「おいこら、汚らわしい奴隷め、きさま、どう思う?神様はいるのか、いないのか?一つ言ってみろ。」
「もちろんいますよ!」
「もちろんいますよ!」
奴隷はそう言って、すぐに帯の間から小さな木製の偶像を取り出した。
「ほら、これが神様です。この神様が、私がこの世に生まれて以来、私を守ってくださっているのです。この神様は私たちの国でみんなが礼拝する聖木の枝でできているのです。」
神学者と奴隷のあいだのその話を聞いていた喫茶店の人々はびっくりした。神学者の質問にも驚いたけれども、奴隷の答えにはもっと驚いたのである。
奴隷の言葉を聞いた一人のバラモンが彼に向かって言った。
「なんという阿呆だろう!神様が人間の帯のあいだにいるなんて、そんな馬鹿な話があるものか!神は唯一つ ― ブラーマだ。このブラーマは全世界よりも偉大なのだ。なぜなら彼が全世界を創造したのだから。このブラーマは唯一の偉大な神様であって、この神様のためにガンジス川のほとりにたくさんの神殿が建てられ、そのなかにひたすらその神に仕えるバラモン僧たちが祈りをささげているのだ。このバラモン僧たちだけが真実の神を知っている。二万年もの歳月が過ぎて、世界中にいろんな変化が生じたけれども、バラモン僧たちは相変わらず昔のままである。なぜなら、唯一の真実の神ブラーマが彼らを庇護しているからなのだ。」
バラモンはみんなを説得しようと思ってそう言った。ところが、そばにいたユダヤの両替商が彼に反駁した。
「いやいや、真実の神の神殿はインドにはない。…神はバラモンたちを庇護したりはなさらない!真実の神はバラモンたちの神ではなく、アブラハム、イサク、ヤコブの神である。真実の神は己の唯一の民イスラエルのみを庇護されるのだ。神は天地創造以来、絶えずわれわれイスラエル民族だけを愛してきたし、今も愛している。われわれの民族が現在地球上に離散しているといっても、それは単なる試練に過ぎず、神はその聖約どおり、いつかまた己の民族をエルサレムに集め、昔ながらのあの偉大なエルサレムの神殿を再建し、イスラエル民族を世界諸民族の支配者となされるのだ。」
ユダヤ人はそう言って泣きだした。そしてなおも言葉を続けようとしたが、そばにいたイタリア人が彼を遮った。
「あなたのおっしゃることは間違いです。」とイタリア人はユダヤ人に向かって言った。
「あなたの神は不公平を押しつけていられる。神がある一つの民族をほかの民族以上に愛されるはずはありません。その反対に、たとえ以前はイスラエル民族を庇護されたとしても、神がイスラエル民族に怒り、怒りのしるしにその民族としての独立を奪い、世界中に離散せしめたまいて以来、今や千八百年の歳月を閲し、そのためユダヤ教の信者は世界に広まらないばかりか、わずかにあちこちで気息奄々としているていたらくではないですか。
神はいかなる民族をもえこひいきはなさらず、救済を欲するすべての人々を、唯一のローマ・カトリック教会の懐のなかで救済なさるのです。ローマ・カトリック教会以外にはどこにも救いはありません。」
「あなたの神は不公平を押しつけていられる。神がある一つの民族をほかの民族以上に愛されるはずはありません。その反対に、たとえ以前はイスラエル民族を庇護されたとしても、神がイスラエル民族に怒り、怒りのしるしにその民族としての独立を奪い、世界中に離散せしめたまいて以来、今や千八百年の歳月を閲し、そのためユダヤ教の信者は世界に広まらないばかりか、わずかにあちこちで気息奄々としているていたらくではないですか。
神はいかなる民族をもえこひいきはなさらず、救済を欲するすべての人々を、唯一のローマ・カトリック教会の懐のなかで救済なさるのです。ローマ・カトリック教会以外にはどこにも救いはありません。」
そんなふうにイタリア人は言った。しかしそばにいたプロテスタントの牧師が、顔面蒼白になってカトリックの神父に反駁した。
「あなた方の信仰のなかだけに救いがあるだなんて、よくもそんなことが言えたものですね!はっきり言いますが、福音書の教えに従って、イエスの定めた掟を守って、精神と真実をもって神に仕えるものだけが救済されるのですぞ。」
そのとき、そばに坐ってえらそうな顔をしてパイプをくゆらしていた、スラートの税関に勤めているトルコ人が、二人のキリスト教徒に向かって言った。
「あなた方の信仰はほぼ六百年も前に、マホメットの真実の信仰に取って代わられたのです。そしてあなた方もご存知のように、マホメットの真実の信仰は、ヨーロッパでもアジアでも中国の開化された地域でも、ますます広がっています。あなた方もユダヤ人が神から見放されたこと、その証拠にユダヤ人たちがみんな蔑まれており、その信仰が全然広がらないことを認めておられるではありませんか。
どうか一つ、イスラム教の真実性を認めていただきたいものですね。だってイスラム教は現に隆盛を極めており、さらにますます広がりつつありますからね。神の最後の預言者、マホメットの教えを信ずる者だけが救われるのです。それもオマール派でなくてはいけないので、アリ派は駄目です。アリ派は間違っていますから。」
どうか一つ、イスラム教の真実性を認めていただきたいものですね。だってイスラム教は現に隆盛を極めており、さらにますます広がりつつありますからね。神の最後の預言者、マホメットの教えを信ずる者だけが救われるのです。それもオマール派でなくてはいけないので、アリ派は駄目です。アリ派は間違っていますから。」
その言葉を聞くと、アリ派に属するペルシャの神学者が反駁しようとした。しかしそのとき店内に居合わせたいろんな国のいろんな信仰の人たちのあいだで、いっせいに大論争が始まった。そこにはアビシニヤのキリスト教徒もおれば、インドのラマ僧もおり、イズマイル教徒も、拝火教徒もいた。
みんなが神の本性について、いかに神を拝すべきかについて言い争った。そしてみな、自分の国の人々だけが真の神を知り、いかに神を拝すべきかを知っている、と主張した。
まさに喧々囂々の論争風景だった。唯一人、孔子の教えを奉ずる中国人だけは、おとなしく喫茶店の片隅に坐ったまま、論争に参加しなかった。彼はお茶を飲みながらみんなの言葉に耳を傾けていたが、自分は何も言わなかった。
論争の最中に彼に気づいたトルコ人が、彼に向かって言った。
「なあ中国の方、一つ私に応援してくださいよ。黙っていないで、私に有利な証言を頼みますよ。私は今あなたの国にはいろんな信仰があることを知っています。あなたの国の商人たちが何度も私に、中国人たちはあらゆる信仰のなかでもイスラム教が一番優れていることを認めて、喜んで受け入れていると話しました。一つ私の言葉の証人になってください。そして真実の神とその預言者についてあなたの考えを話してください。」
「そうだそうだ、あなたの考えを話してください。」と他の人々も言った。
孔子の教えを奉ずる中国人は、眼を閉じてしばらく考えていたあと、眼を開き、着物の広い袖から両手を出して胸の上に組み、静かな落ち着いた声で話し出した。
私は世界一周のイギリス船で中国からスラートの町へやって来ました。途中、水の補給のためスマトラ島の東海岸に立ち寄りました。昼間私たちは船を出て、島民たちの村からほど近くの、海岸のヤシの木陰に坐りました。いろんな国から来た幾人かの人たちでした。
するとそこへ一人の盲人がやって来ました。
あとでわかったことですが、その人は、いったい太陽とは何かが知りたくて、あまりに長いあいだ一心不乱に太陽を眺めていたため、盲目になったのでした。その人は太陽の光を自分のものにしたいために、それが知りたかったのです。
彼はそのために躍起となり、あらゆる学問に没頭しました。どうしても太陽の光をどれだけか捕まえて、それをビンの中に詰め込みたかったのでした。
彼は一生懸命太陽を見つめつづけましたが、結局何も出来ず、ただ太陽の光に痛めつけられて目が見えなくなっただけでした。
そこで彼は自分に言ったのです。
「太陽の光は液体ではない。なぜならば、もし液体であれば、ビンに流し込むことができるはずだし、風が吹けば水のように波立つはずだから。太陽の光は火でもない。なぜなら、もし火ならば水の中に入ると消えるはずだから。光はまた目に見えるから霊でもなく、動かせないから固体でもない。
太陽の光が液体でも火でも霊でも固体でもないとすれば、結局太陽の光は無だということになる。」
太陽の光が液体でも火でも霊でも固体でもないとすれば、結局太陽の光は無だということになる。」
彼はそんなふうに考え、そしてまた相変わらず太陽を見つめつづけ、太陽のことを考え続けていたため、とうとう視力も理性も失ってしまったのです。
彼はすっかり盲目になった挙句、とうとう太陽なんかもともと存在しないと思い込んでしまいました。
その盲人と一緒に彼の奴隷もやって来ました。その奴隷は主人にヤシの木陰の坐らせ、ヤシの実を拾って行灯をつくりはじめました。彼はヤシの繊維から灯心を作り、ヤシの実から油を絞ってヤシの殻に入れ、灯心をそれに浸しました。
奴隷が行灯を作っているとき、盲人は溜息をつきながら彼に向かって言いました。
「なあおい、奴隷、俺はおまえに太陽なんかないと言ったが、そのとおりだろう?ほら、こんなに暗いじゃないか。だのにみんな太陽がどうだのこうだの…いったい太陽って何だね?」
「私には太陽ってなんだかよくわかりません。」と奴隷は言いました。
「私はそんなものに用がありません。でも光なら知っています。ほら今、行灯を作りました。これで照らすと明るいし、だんな様にも緒使えできるし、私の部屋のものも何でも探せます。」
こう言って奴隷はヤシの殻を手にとって見せました。
「ほら、これが私の太陽です。」
そのときそばに松葉杖を持ったびっこがいました。びっこは奴隷の話を聞くや笑い出しました。
「あなたはどうやら生まれつきの盲人ですね。」と彼は盲人に向かって言いました。
「太陽とは何かも知らないなんて。私がよく教えてあげよう。太陽というのは火の玉で、この玉は毎朝海から出てきて、毎晩私たちの住む島の山陰に沈むのです。私たちはみんなそれを見ているし、あなたも眼が見えればそれが分かるでしょう。」
と、こんどはそばにいた猟師がそれを聞いてびっこに向かって言いました。
「どうやらあなたは自分たちの住む島から出たことはないのですね。もしあならがびっこでなくて、ほうぼう航海に出たら、太陽がこの島の山陰に沈むのでなくて、朝、海から出たように、晩にも海に沈むことがわかるでしょう。私の言葉に間違いはありません。だって私は毎日それをこの眼で見ているのですから。」
こんどはそれを聞いていたインド人が言いました。
「なんという馬鹿馬鹿しいことをおっしゃるんですか。火の玉が海に沈んでも消えないなんて考えられるでしょうか?太陽は火の玉なんかではありません。太陽は神様です。デーワと呼ばれる神様です。この神様は戦車に乗ってスペルワという黄金の山の周囲を天かけるのです。
ときどきラグウとかケトウとかいう悪い大蛇がデーワに襲い掛かって飲み込んだりしますが、その時世の中が暗くなります。しかし私たちの国の神官たちがお祈りすると、神様はまた大蛇の腹から出ておいでになります。自分の住む島から全然出ることのないあなた方のような無知な人たちだけが、太陽は自分の島だけに照ると思っているのですよ。」
ときどきラグウとかケトウとかいう悪い大蛇がデーワに襲い掛かって飲み込んだりしますが、その時世の中が暗くなります。しかし私たちの国の神官たちがお祈りすると、神様はまた大蛇の腹から出ておいでになります。自分の住む島から全然出ることのないあなた方のような無知な人たちだけが、太陽は自分の島だけに照ると思っているのですよ。」
すると、そばにいたエジプトの船主が口を切った。
「いや、それは間違っています。太陽は神様ではなく、インドやインドの黄金の山の周囲を翔んだりもしません。私は船で黒海へも行ったし、アラビアの海岸も通ったしマダガスカルへもフィリピン諸島へも行きましたが、太陽はインドばかりではなく、どんなところでも照らしています。
太陽は一つの山の周囲をぐるぐる回ったりはしないで、日本の海岸から出てきます。ですからその国は『日本』、つまりその国の言葉で言えば『太陽の生まれる国』と呼ばれるのですが、その日本から出てきた太陽は、こんどははるかはるか西方のイギリス諸島の陰に沈むのです。私はそのことよく知っています。なぜかと言えば、自分でもいろいろたくさん見てきましたし、お祖父さんからもいろんなことを聞かされましたから。私のおじいさんは、海の果てまで航海したことがあるんですからね。」
太陽は一つの山の周囲をぐるぐる回ったりはしないで、日本の海岸から出てきます。ですからその国は『日本』、つまりその国の言葉で言えば『太陽の生まれる国』と呼ばれるのですが、その日本から出てきた太陽は、こんどははるかはるか西方のイギリス諸島の陰に沈むのです。私はそのことよく知っています。なぜかと言えば、自分でもいろいろたくさん見てきましたし、お祖父さんからもいろんなことを聞かされましたから。私のおじいさんは、海の果てまで航海したことがあるんですからね。」
エジプト人はなおも言葉を続けようとしたが、私たちの船のイギリス人のマドロス(水夫)が彼を遮りました。
「イギリスほどみんなが太陽の働きをよく知っている土地はほかにありませんよ」と彼は言いました。
「イギリスの私たちはみんなよく知っていますが、太陽はどこからも出ないし、どこへも沈まないのです。太陽は絶えず地球の周囲を回っています。私たちはそのことをよく知っています。なぜなら私たちはたった今地球を一周してきたばかりですが、どこででも太陽とぶつかったりしませんでした。どこへ行っても、ここと同じように、太陽は朝に姿を現し、晩に姿を隠すのです。」
イギリス人は棒を拾って砂の上に輪を描き、太陽が地球の周囲を運行する様子を説明し始めた。しかし彼はあまりうまく説明できなかったので、自分の船の舵手を指差して言いました。
「実はあの男が、その、私以上に学問があるので、もっとよく説明してくれるでしょう。」
舵手は賢い男で、黙ってみんなの話を聞いていて、尋ねられるまで何も言いませんでした。しかしそう言われて彼は、やおら口を開いたのでした。
「あなた方はお互いにお互いを騙し、また自分自身を騙していらっしゃる。太陽が地球の周囲を回っているのではなく、地球が太陽の周囲を回っており、さらに地球は二十四時間ごとにぐるりと一回転しながら、日本やフィリピン諸島や、私たちが今いるスマトラやアフリカやヨーロッパやアジアや、その他のいろんな土地を太陽のほうへ向けるのです。
太陽が輝くのは、一つの山のためでもなく、一つの島のためでも、一つの星のためでも、一つの海のためでも、さらには単に地球のためでもなく、地球と同じようなほかのいろんな星のためにも輝いているのです。
あなた方もみんな、自分の足の下ばかり見ないで空を仰ぎ、太陽が自分のためだけに、あるいは自分の国のためだけに輝くなどと考えるのをおやめになれば、そのことがよくおわかりになるでしょう。」
太陽が輝くのは、一つの山のためでもなく、一つの島のためでも、一つの星のためでも、一つの海のためでも、さらには単に地球のためでもなく、地球と同じようなほかのいろんな星のためにも輝いているのです。
あなた方もみんな、自分の足の下ばかり見ないで空を仰ぎ、太陽が自分のためだけに、あるいは自分の国のためだけに輝くなどと考えるのをおやめになれば、そのことがよくおわかりになるでしょう。」
世界中を何度も船で回って、何度も空を眺めた賢い舵手はそう言いました。
「そう、信仰問題での人々の迷誤と分裂とは、すべて我執から生ずるのです。」
と孔子の教えを奉ずる中国人は言葉を続けた。
「太陽の場合も神の場合も、道理は一つです。みんなが我執のために自分だけの神を、少なくとも自分の国だけの神を持ちたがるのです。すべての民族がそれぞれ自分らだけの神殿のなかに、全世界も包容できない神という存在を閉じ込めようとしているのです。
いったいいかなる神殿が、神自身が万人を一つの宗教、一つの信仰に合一させるためにお建てになった神殿と比較できるでしょうか?
およそ人間が作る神殿は、この神殿の、つまり神の世界のミニチュアとして作られているにすぎません。あらゆる神殿に聖水盤があり、アーチがあり、灯明があり、聖像があり、古文書があり、経典があり、献げ物があり、祭壇があり、司祭がいます。
しかしながら、いったいいかなる神殿に大洋のような聖水盤や、太陽や月や星のような灯明や、互いに愛し合い助け合う人間のような生きた聖像があるでしょう?
いったいどこに、神の手によって人々の幸福のために至るところに播かれた恩寵ほど、神の善性をわれわれに理解させる文書があるでしょう?
いったいどこに、われわれ一人一人の心に刻み込まれている経典ほどわかりやすい経典があるでしょう?
いったいどこに、愛情豊かな人間が己の隣人のために行う自己犠牲ほど尊い献げ物があるでしょう?
いったいどこに、神自身が献げ物をお受けになるところの、善良な人間のハートに比すべき祭壇があるでしょう?
われわれの神に対する理解度が高まれば高まるほど、われわれは神をよりよく知ることになる。そして神をよりよく知れば知るほど、より神に接近し、神の善性と仁慈と人々への愛とに倣うことになると思います。
それゆえ全世界を満たしている太陽の光を見た人でも、自分の偶像に閉じこもって光のほんの一部分だけを見る迷信深い人々を非難したり軽蔑すべきでないと思います。またすっかり盲目になって全然光を見ない不信者も軽蔑すべきでないと思います。」
いったいいかなる神殿が、神自身が万人を一つの宗教、一つの信仰に合一させるためにお建てになった神殿と比較できるでしょうか?
およそ人間が作る神殿は、この神殿の、つまり神の世界のミニチュアとして作られているにすぎません。あらゆる神殿に聖水盤があり、アーチがあり、灯明があり、聖像があり、古文書があり、経典があり、献げ物があり、祭壇があり、司祭がいます。
しかしながら、いったいいかなる神殿に大洋のような聖水盤や、太陽や月や星のような灯明や、互いに愛し合い助け合う人間のような生きた聖像があるでしょう?
いったいどこに、神の手によって人々の幸福のために至るところに播かれた恩寵ほど、神の善性をわれわれに理解させる文書があるでしょう?
いったいどこに、われわれ一人一人の心に刻み込まれている経典ほどわかりやすい経典があるでしょう?
いったいどこに、愛情豊かな人間が己の隣人のために行う自己犠牲ほど尊い献げ物があるでしょう?
いったいどこに、神自身が献げ物をお受けになるところの、善良な人間のハートに比すべき祭壇があるでしょう?
われわれの神に対する理解度が高まれば高まるほど、われわれは神をよりよく知ることになる。そして神をよりよく知れば知るほど、より神に接近し、神の善性と仁慈と人々への愛とに倣うことになると思います。
それゆえ全世界を満たしている太陽の光を見た人でも、自分の偶像に閉じこもって光のほんの一部分だけを見る迷信深い人々を非難したり軽蔑すべきでないと思います。またすっかり盲目になって全然光を見ない不信者も軽蔑すべきでないと思います。」
孔子の教えを奉ずる中国人がそう言うと、喫茶店に居合わせた人々はみんな黙ってしまい、もう誰の信仰がすぐれているかと論争しなくなった。
― ベルナルデン・ド・サン・ピエール
ことばと人
人はことばを使う生き物だ。ことばと人は切っても切れない関係のものであるということは自明のことであろう。
今こうして読んでいるあなたの脳裏にも、ことばは脈々とめぐっていることだろう。
ことばの進化の始原は外界の物事を認識し識別することにあるだろう。
聖書の創世記には以下のような挿話がある。
『 神である主は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形づくり、それにどんな名をつけるかを見るために、人(アダム)のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。 』 (創世記2:19 新改)
この話は、ことばをもって名づけるという行為が人間にのみ許された特権である、ということを象徴的に示している。
ことばはやがて人の心の血液となりて思考を構成する。
人の心は各々全く内に秘めたる不可視の宇宙にて、他の者の心の内がどのようにあるか存ぜぬが、私の経験で言えば、心はイメージのジャングル、情感の大海にして、ことばがそこに道を拓き礎を築き意思を導くものであるように感ぜられる。
もうひとつ聖書からの抜粋であるが、ヨハネの福音書は次のように始まる。
『 はじめに言(ことば)あり、言は神とともにあり、言は神なりき。
この言ははじめに神とともに在り、よろづの物これによりて成り、成りたる物に一つとしてこれによらで成りたるはなし。 』 (ヨハネ 1:1~3 文語)
ここまで大胆にことばの重大性を表現した話は他に滅多に聞くものではない。
日本でも昔ことばは言霊であり、人の魂から出る一言一語が世界に積極的に力を及ぼすと信じられてきた。まことにことばとは魂の力なのである。
仏教においても、この世の真理に至る智慧、八正道のひとつに正語、つまり正しいことばを使うことを定められている。
中村天風は、「その一言一語のことばすべてが、人生に積極的に影響する暗示となる」という宇宙真理を忘れず、努めて積極的なことばを使う習慣を作ることと、消極的ことばの厳禁を説いた。あわせて消極的な十の心を紹介しておこう。
一、怒ること。 二、悲しむこと。 三、恐れること。 四、憎むこと。 五、やきもちをやくこと、うらやむこと。 六、恨むこと。 七、悩むこと。 八、苦労すること。 九、煩悶すること。 十、迷うこと、混迷すること。
こうしたことはことばにしてはいけないし、考えないようにするべきである。
寄れば不平不満や人の悪口ばかりする人は、今の世の中驚くほど多い。
しかしことばは実に魂であり、人を癒しも傷つけもする。ことばは実在意識ならびに潜在意識をきれいにしたり、あるいは汚したりする、強い暗示感化力をもつ。そして自分自身と世界を積極的に変えていく力をもつものである。これは真理である。(英語で Watch your mouth! とは上手く言ったものである。)
そうと知れば、消極的なことばや思いには、知らぬ存ぜぬで通すに他は最早あるまい。
尊く、強く、正しく、清らかなることをのみ思い致し、行ない尽し、ことばに尽くして活きるが理想である。
そういうわけで、善いことばを知り用いることは、よい人格とよい人生に密接に結びついているわけであります。













