The Journey : Somewhere Down the Road - 200706

無名兵士の言葉 / A CREED FOR THOSE WHO HAVE SUFFERED


私は神に 大きなことを成し遂げるための 強さを求めたのに
謙遜を学ぶようにと 弱さを授かった

偉大なことができるようにと 健康を求めたのに
よりよきことをするようにと 病気を賜った

幸せになろうとして 富を求めたが
賢明であるようにと 貧困を授かった

世の人々の称賛を得ようと 成功を求めたのに
謙虚に神に頼むようにと 失敗を授かった

人生を楽しむために あらゆるものを求めたのに
あらゆるものを慈しむために 人生を賜った

求めたものは一つとして与えられなかったが
語られなかった祈りはすべて聞き届けられた
私は もっとも豊かに祝福された

−作者不明




ニューヨーク大学の壁に掲げられている、140年前の南北戦争時代、南部連邦軍のとある無名兵士の言葉です

「苦しみ悩んできた人々へ捧げる信条」と題されています。





A CREED FOR THOSE WHO HAVE SUFFERED

I asked God for strength, that I might achieve
I was made weak, that I might learn humbly to obey...

I asked for health, that I might do greater things
I was given infirmity, that I might do better things...

I asked for riches, that I might be happy
I was given poverty, that I might be wise

I asked for power, that I might have the praise of men
I was given weakness, that I might feel the need of God...

I asked for all things, that I might enjoy life
I was given life, that I might enjoy all things...

I got nothing I asked for-but
everything I had hoped for;
Almost despite myself,
my unspoken prayers were answered.
I am, among all men,
most richly blessed!

-Attributed to unknown confederate soldiers





p.s.
・↓この言葉を題材とした本が、加藤締三氏によって著されています。







リサイクルは幻想か? −地球環境議論のウソ

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○ ごみをリサイクルしたら資源・エネルギーの莫大な無駄遣い。

 リサイクル分別はごまかし?
  実はほとんどがまとめて燃やされてる。

 リサイクル議論に一番反対したのは環境団体。

○ リサイクル法案は利権にまみれた悪法?

○ 紙は使い捨てたほうが自然にいい?

○ お茶碗文化とペットボトル文化の違いとは?

○ 京都議定書は偽善者のたわごと?
  批准しなかったアメリカは正しかった?



 これらのうちどれか一つにでも興味を持ったら、以下のリンク先の話を聞いてみてください。

◆リサイクルは幻想か?
  −ゲスト 武田邦彦さん(名古屋大学教授、資源材料工学)
http://podcast.tbsradio.jp/xitalk/files/xitalk20070218.mp3

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村田製作所 サイエンス・サイトークより http://www.tbs.co.jp/radio/xitalk/

書籍レビュー『洗脳護身術』−心理戦時代の自己洗脳テクニックとは



今回は上の本『洗脳護身術』のレビューをし、多少内容の要約をしてまとめたいと思います。知的好奇心を刺激される面白い本なので、興味ある方是非読んでみてください。
下の方で解説する専門用語を前の方で使ってる箇所もありますが、読み進めて頂ければある程度理解して頂けると思います。

※当ブログは、ここに紹介した本書の内容の正当性を主張するものではありませんので、悪しからず。




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◆精神の自己管理力


    多くの人にはきっと変わりたい自分、人生の夢や理想というものがあるだろう。
    誰しも理想の自分になるためにいろいろなことを試みる。体を鍛えたり、知識を増やしたり、ファッションを洗練したり、人と会ったり、様々な催し物に参加したりする。
    そうした中で、精神的なベース、精神の内部構造は最も大切な要素の内のひとつだろう。なぜならどんなに外見が理想に近づいても、どんなに理想的なチャンスが訪れても、心理面でその理想的現実への適合性が形作れていなければ儚い白昼夢に終わり、逆に居心地の悪い思いをしたり、最悪ケツをけっ飛ばされて追い出されるのがオチだからだ。

    人間というものは突き詰めれば実に精神的存在だ。
    精神・心理的な、強さ・正確さ・豊かさは、様々な鍛錬・試練のなかで外部の影響から徐々に形成される部分も少なくない。
    しかしもし、自己実現の中核となる「精神」を自らの手中につなぎ止め、集中的に成長させ、自発的かつドラマチックに変質させる手法があったなら、それこそが若いうちに学ぶべきことではないだろうかと私なんかは思う。
    本書はそうした自分の「精神の自己管理法」について具体的方法論を交えながら数々の興味深い言及がなされていて、非常に刺激となるものだった。


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◆実例(!?)


    そうした精神の変質・適正化は実際に多くの第一線の人々に実践されている。いわゆる自己暗示とか、イメージトレーニングなどと呼ばれるものだ。本書の言にすれば自己洗脳の類だろう。

    上智大学の元教授で、内閣にまで登用された猪口邦子さんの講義をとっていたことがあったが、彼女は国際会議のような重要なイベントの前には鏡の前で飽きずにスピーチや自分の容姿のチェックをするという。それはもう、他人が見たらバカのようで恥ずかしくなるようなことでも、自分を磨くためには大切なことだ、そういうことをおっしゃっていたのを覚えている。
    とても気さくで堂々とした人で、他人の顔色に合わせていたのでは決してあんなようにはなれないだろうと思う。

    もう一つ卑近な例だが、私の高校の友人に一人おもしろいのがいて、高校在学中に自分はソニーやIBMにヘッドハントされたとか、スイスのオメガの時計工房に弟子入りしたことがあっておみやげに腕時計をもらっただの、とにかく冷静に考えるとありえないような突拍子もないことを言うんだけど、それをすごく堂々と言って、しかもそれなりに勉強してるもんだから人によってはすべてをコロッと真に受けたりなんかして、尊敬の眼差しを集めていた。
    彼自身そうした大それたことをさも現実のように言うことによって、自尊心を高め士気をあげていたのだろう。
    無論こうしたケースは下手をしたら虚言症という病気なので感心はしないが、自分の理想像に尋常でない臨場感をもたせて生きる彼の様子は、ともすればちょっとした大物の気風を漂わせるに足るものだった。自信なく卑屈に生きるよりは、よっぽど有意義な態度といえるだろう。
(ただ人をだますようなことはやめましょうね。はい。社会でそれをやると詐欺という犯罪になります。はい。



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◆精神世界の実在性


    本書の全体像として、まず人間は精神世界で人生の多くを生きているという前提がある。この精神世界の乗っ取り合いが洗脳であり、洗脳護身術であるとされる。


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    この世界には人間の肉体など物質的な現象とは別に、精神現象として触れることのできないメンタルな空間、つまり精神世界が存在すると、本書は述べる。
    そのような世界(内部表現上の仮想空間)に人間は、物理空間と何ら変わらない臨場感を感じられるように進化した。人間はその空間に、もう一人の自分というよりも、自分の身体の一部が広がっている感覚で存在することができる。
    そこで対峙する相手や環境を支配する戦い、心理戦争がわれわれの周りには絶えず発生しており、そこで用いられる戦法が、洗脳であったり、プロパガンダであったり、宗教であったりするのだ。

    そんなものばかげた話だと思う人は、たとえば数字の『1』を考えてもらいたい。
    『1』はこの世に存在し、言葉にしたり文字にしたりできる。しかしどこを探しても触ることはできない。『1』は物理的実在ではないが、その存在を確認して この社会や人間の意識は成り立っているのだから、それがばかげた妄想だとも言えないし、そんなの俺は信じねえと言っても、その人がまともに社会生活をおくれなくなるだけだ。
    『愛』というものを考えてもいいだろう。愛なんて存在しねえ。信じねえ。と言ったらその人にとって愛なんてないだろう。が、見たところ大抵の人は愛の存在を信じているし、多くの人は『愛』を実際に感じたことがあるようだ。
    似たような論理で『神』も同様に「存在する」と言える。それは触れたり見たりすることはできないが、信者共通の情報空間もしくは概念空間のどこかに実際に存在するのだ、と著者は説く。
    少なくとも精神世界において神に生かされ、また命を投げ出す人がいる。だから神は存在するとした方が、現実的なのだ。
もしその神が一人の狂人の妄想だとしたら教会もできないし、宗教もないのだから。

    少々乱暴な話に聞こえるが、誰しもすべて物理的能率的な概念でのみ生きているわけではないだろう。ある程度、何らかの共有された精神世界のなかで人生をおくるのも事実ではないだろうか。それこそ無意識に周りに合わせて生きていたのでは、自分で気づくことすらないだろうが。

    問題になるのはそれが他人に吹き込まれたものであるか、恐怖を利用して操作されているものであるか、あるいは自分で意図し選び取ったものなのかである。




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◆身の回りにある洗脳


    洗脳の実態について少し見てみよう。
    はっきり言って広義の洗脳はごくありふれている。

    たとえば親や学校や組織の教育も洗脳だ。
    それらは一般的に本人の利益のためとされるため、危険な意味での「洗脳」にはあたらない。
    だがこれらも結局人間のすることであり、人間は過ちを犯す生き物なので、親の教育が時に本人を惨めな方向に導いたり、無意味に縛ったり傷つけたりする。社会教育によっては国家や社会を誤った方向に導いてしまうので、決して絶対的に信用してよい保証はない。
(無論これらは通常絶対的な信用を要求する性質のものなので難しい問題なのだが…。)

    心霊スポットに行ったり、映画「呪怨」なんかを見たりすると怖いというのも、日本古来の「たたる霊」という洗脳概念を利用したものだ。
    このたたる霊がくせ者で、これがために日本には悪質なカルトやインチキな霊能者、占い師があふれかえっている。彼らのやり口についてまた後ほど述べるが、信心深くないと思っている人に限って、ふとした拍子につけこまれて金銭をふんだくられるケースが多いそうである。
    こうした悪意の洗脳者とは決して関わってはいけない。



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◆宗教と洗脳 − 精神の秘められた力


    洗脳というテーマで考えると、宗教というのは性質上洗脳が介在していることは否めない。しかし、それは洗脳であると同時に、「脱洗脳」をはかるものと言える。この辺本書の分析はキレている。
    宗教が内部表現の修養であるとする視点には大いに共感を抱いた。私が宗教に感心があるのも、歴史ある世界的な宗教には、人間の精神の力に関する深い観察、解釈の方法論が詰め込まれているからだ。

    本書では霊といった非物理的な実在はないものとしている。しかし、霊的体験なるものは実在し、それはひとえに、人間の内部表現に生体のホメオスタシスが反応するフィードバックによるものであり、一言で言えば人間の精神の力によるものであるとする。


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    たとえば映画の話ではあるが、『マトリックス』という映画では多くの人間が「マトリックス」というコンピューター内の、現実そっくりの電脳世界に住んでいる。彼らの脳にはプラグが差し込まれており、五感のすべてを電気信号によって享受しているので自分が仮想世界にいるという自覚がない。
    彼らにとって、その仮想世界での死が現実の死に直結する。マトリックス内での「死」という精神的な「情報」によって実際に血を吐いて死ぬのである。
    このように仮想現実(=内部表現)に強力な臨場感を抱くことで物理的現実にまで作用する現象が実際にもあり得ると筆者は言う。

    たとえば、強烈な信仰心を持つキリスト教徒に、イエスのように手に釘を打たれた痕=スティグマータ(聖痕)が現れ血を流したりする。日本でも狐憑きのような、肉体的な変化を伴う心霊体験などが実際に起きる。
    これらは実に精神的な情報が物理的変化を生じさせる例であり、これこそが脳が飛躍的に発達した人間に生来備わった、秘められた力の証拠なのだと著者は言う。

    たとえば神仏の愛や慈悲、奇跡を信じ、希望を捨てずにいたら本当に病気が治ったり危機を脱したり自己実現できたりする。こうした現 象は現実のものであり、決してバカにできたものではないのである。
    信仰に代表される強力な内部表現とホメオスタシス・フィードバックをこのようにプラスに使うことは素晴ら しいものであると著者は述べる。

    しかし世の中には多くの悪意の洗脳者がおり、古来の精神文化の名残や社会的価値観から引用したりねつ造されたネガティブの洗脳概念を利用して他人を脅し 操ろうとする人々がおり、彼らに洗脳された人間は自らの自由な判断能力を奪われると同時に、彼らに逆らったりすると、皮肉にも自らの精神の力(内部表現)によって本当に体がおかしくなったり不幸になったりする、あるいはそういう気になってしまうのだ。
    こうした危険な洗脳の魔の手から逃れるためにも、洗脳護身術がこれからの時代には重要であると本書は主張する。






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◆キーワード


    本書を読み解く上でキーワードとなるのは、変性意識・内部表現・ホメオスタシスである。他にもアンカーとトリガー、ラポールといった重要な概念があるが、それは実際にご自分で参照されるとよいでしょう。


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○変性意識

    人が洗脳される時の前提の状態がこの変性意識だ。
    すべての洗脳作業はこの状態下で行われるため、いかに速く、深い変性意識を形成させることができるかがキモである。

    変性意識とは、臨場感を感じているのが物理的現実世界ではなく精神活動による仮想世界=
内部表現にある状態である。
    たとえば映画やゲーム、読書に没頭したりしている状態は変性意識状態であり、他に外部から薬物や催眠などを用いて変性意識を生じさせる方法もある。

    映画などで生じる軽い変性意識は、もととなる体験が終って、外に出て少し活動すれば大抵自然と脱ける。
飲酒ももちろん変性意識であるが、不安定で低レベルな意識状態なので、他人にコントロールされる心配はあまりないが、自分のコントロールもできなくなるかもしれない(笑)。
    しかしこれがたとえば閉鎖的な管理下に置かれて長時間・反復した洗脳作業(内部表現の書き換え)を施されたり、強力な幻覚剤を盛られるなど、強度で集中的なものになると、四六時中変性意識下の暗示や条件付けに影響された状態になる。これを他人に対して悪用することを、本書では危険な意味での「洗脳」とする。

    変性意識は長時間の集中や運動、瞑想や儀式などによっても強度に形成されるものであり、そうした結果幻覚や超常的な現象を体験するのも変性意識下における精神情報(内部表現)の具現化によるものである。
    本書では霊や神秘的実在といったものはないものとするが、そうした体験は決して無価値なものではなく、
むしろそこから自己解放、自我の強化といったプラスの効果を引き出すことの計り知れない価値を説く。
    問題はいかに他人に利用されないようにするかである。


○内部表現

    脳内における、世界と自我の表現を意味する。
    視覚は物理的な外界を認識し、視覚野で神経が活性化しその結果が前頭葉に認識される情報状態である。
    この、視覚野から前頭葉までのすべての脳内の情報状態が内部表現であるとされる。
    内部表現には神経物理レベルの情報状態のみならず、概念や感情など、心理レベルでの表現も含まれる。それらを含めたすべての抽象度における世界のモデルが内部表現なのだ。それは外界の刺激に対応しながら常にリアルタイムにダイナミックに更新されている。

    内部表現は進化の度合いによって複雑化してきた。
    人間においては物理的現実世界以外の仮想世界をも外界モデルとして表象することが可能になった。これによって空間と時間のモデルを臨場感をもって認識することができるようになった。
    たとえば小説や映画などの物語を整合性をもって体感できたり、数字を用いた計算ができるようになったのも内部表現の出来事だ。同様に過去の思い出に浸ったり、未来を想定したり人生プランニングができるのも脳の進化の賜だ。


○ホメオスタシス

    恒常性維持機能と訳される。
    これは呼吸や心拍のように、生体が一定の状態を保ちながら安定的な状態を維持しようとする傾向である。
    たとえば走ると呼吸や心拍が速くなるし、走るのをやめると自然に、「1/fのゆらぎ」をもって一定の状態に戻ってくる。
    ホメオスタシスは呼吸や心拍のような秒単位のものから、生理周期のように月単位のもの、さらには年単位のものまであり、季節の変化など様々な外界の状態に適応しようとする。
    面白いことに、たとえば二人の人間が同じ空間で何日も生活していると自然と呼吸や心臓の鼓動、月経の周期が同期してくるという現象も見られる。

    人間は進化の結果として、ホメオスタシスの能力が物理空間から情報空間に拡張している。つまり仮想空間(=内部表現)にもホメオスタシスのフィードバック関係がもてるのだ。
    たとえば、きれいな人を見たりすると、ドキッと緊張して、現実に心臓の鼓動が速くなったり、気が弱い人だったら止まったりする(!?笑)。    さらにはその相手が現実に目の前にいなくても、想像(この場合妄想だろうか…)するだけで胸が高鳴ったりして生理的にも興奮してくる。
    たとえば、映画や小説で感動して圧倒されたり歓喜したり涙を流したりというのもまさに、物語への没頭によって生じた変性意識下で再生された内部表現が、生体のホメオスタシスフィードバックを刺激することによるものだろう。
    このように例をあげればきりがなく、人間活動の実に多様な範疇にわたって(変性意識=)内部表現=
ホメオスタシスフィードバック関係が成立することがわかるだろう。



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◆まとめ


    洗脳とはこのように、変性意識下で洗脳者が作り上げた仮想世界に臨場感をもたせ、自らのホメオスタシスの力でこの臨場感を強化させていき、固定化していく作業であると著者は言う。
    これをうまく利用すれば、たとえば明晰な頭脳を手に入れたり、ダイエットや禁煙に成功したり、ビジネスでも相手を圧倒することができ、恋愛でも意中の異性の興味を向けさせることができるようになるだろう、と著者。つまり自己実現にこれほど有効で必要不可欠なものはないということだ。

    某有名人たちが本番前に鏡の自分に語りかけるように、スポーツ選手がイメージトレーニングで成功体験を固定化して勝負に挑むように、自己洗脳の手法は人間の可能性を引き出す極めて有効な手段であることは確かである。
    本書はテーマがテーマなので洗脳という語で通されているのである種語弊のある、うさんくさいイメージがつきまとうが、それが意味するものはすなわち人間の生き方であり、価値観であり、世界観であり、人生のオリエンテーションであり…、誰しもが共通してもっている根源的な問題だろう。

    精神の創造的鍛錬によって自らの御者、自らのアーキテクト(設計者)となり、自分に条件付け、オリエンテーションを施すこと、それによって他人の操作を防御することは可能である。その場合本書であげられるような自己洗脳は、自身の能力やセルフイメージを高めるため、独立自尊に生きるために、非常に有意義な技術となるだろう。


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こころのクルミ / The walnut shell of your heart.

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「あなたはクルミを素手で割れますか?

 今日はクルミを簡単に割る方法をお教えしましょう。
 それは、そのクルミをただ土の中に入れて水を与えてやるのです。すると、何日もしないうちに、固いクルミの殻は簡単に割れて地上に芽が出てきます。
 どんなに固い殻でも、中から成長しようという気持ちがあれば簡単に割れるのです。

 あなたが被っている固い殻は他人が割ることはできません。
 しかし、あなたに成長しようという強い気持ちがあれば、自分の殻は簡単に破ることができるのです。」


最近感動したお話です。



"Can you crack a walnut shell with bear hands?
Today I teach you the easiest way to do that.
Just put it under the nourishing ground and water it.
Soon the shell will easily break itself and a fine sprout within will grow on the ground.
When there's a will to grow from inside, it easily breaks the own shell itself, no matter how hard it is.

The mind's hard shell you are hiding in will never be broken by others.
But if you had a strong feeling that you want to grow, it is so easy to break it by yourself."

The story that I was impressed...

宗教と生きる力 − あなたが死んではいけない理由

 


・キリスト教的生命力


 


生をあきらめる前に自分に問うてください。


「あなたは神を信じますか?」



信仰をもつ者を笑う人がいる。
しかし、冷静に客観的に眺めるなら、そういう人たちが人生を捧げている金や地位や、移ろいやすい他人の評価、物質的な快楽は儚くもろく、長い目でみれば何の価値もないものであることが見えてきます。


神を信じることは、この世と人間の限界を知る賢明な態度です。
神への信仰とは、少し大局的に眺めれば何の根拠も正当性もない人間の世界の様々な縛り、価値観、固定観念とそれによって生じる様々な憎しみや恐怖や争いの魔の手から自由になる、人間として本当に価値あるものであると思います。

ある人は信仰を逃避であるというかもしれません。しかしそう言う人たちこそ、自分たちが周りに築き上げた小さく偏狭な世界で臆病にもしがみつき、同質の群れの中に逃避し、自分たちと見た目や態度、考えが違う者や、自分たちの価値観の優越性を脅かす者に向かって、卑怯にも群れとなって石を投げつけるのです。
幸運にもこの国では信仰の自由が認められています。あなたが何を信じるかについて、こうした人たちに強制されるいわれもなければ、告げる必要もありません。

信じるものが救われるのか、救われたものが信じるのか。それは分かりません。


しかし、だまし合い傷つけ合ってばかりの人間が誰一人信じられなくなって、生をあきらめるか、神に信頼して生きるかとなったとき、わたしは間違いなく後者を選んでほしいと思います。


わたしは特に宗教団体に属しているわけでも、常日頃敬虔なわけではありませんが、神を信じて生きる生き方には限りない可能性と喜び、救いを見出します。

教会に行かなくても、宗教団体が苦手でも、聖書を読んだことなく知識がなくても、宇宙にあまねくおられる神がそんなこと気にするはずがありません。笑

だからこの言葉だけでも信じてみてください。

   『あなたは神に望まれてこの世に生きている。』


そしてこう考えてみてください。


「神は常にわたしと共にある。
 神はわたしの懺悔と祈りを聞き入れ、わたしの犯したこれまでのすべての罪と過ちを許してくださる。神に栄光あれ!


 神はわたしを導き、鍛えるために、時に試練をお与えになる。しかしわたしのすべてを知り、慈愛に満ちた神は、決してわたしが背負えない重荷はお与えにならない。


 わたしはこの苦難を神の導きとして喜んで耐える。


 わたしはこの苦難に臨む資格とちからを授けられたのだから。
 神に感謝!


 


 誰が何を言おうと、わたしは神に望まれて今生きている。たとえわたしがどうあろうと、どんな目に遭おうと、わたしを愛して止まない神はいつも見守ってくださる。


 すべては神のお計らいなのだから、何事も何者も恐れることなく、前に進もう。」




 15:17- 20

「あなた方もまだ理解していないのか。 
すべて口から入るものは,腹の中を通って,それから体の外に出て行くということが分からないのか。
だが,口から出て来るものは心から出て来るのであり,それがその人を汚す。
というのは,心の中から,悪い考え,殺人,姦淫かんいんいん行,盗み,偽りの証言,冒とくが出て来るからだ。
これらのものが人を汚すのだ。だが,洗っていない手で食事をすることが人を汚すことはない」


16:23 - 26

「わたしの後ろに下がれ,サタンよ! あなたはわたしのつまづきの石だ。あなたはの物事ではなく,人間の物事を考えているからだ」
それからイエスは弟子たちに言った,「だれでもわたしに付いて来たいと思うなら,その人は自分を否定し,自分の十字架を取り上げて,わたしに従いなさい。
自分の命を救おうと思う者はそれを失うことになり,わたしのために自分の命を失う者はそれを見いだすことになるからだ。
というのも,人が全世界を手に入れても,自分の命を失うなら,何の益になるだろうか。人は自分の命と引き換えにいったい何を支払うというのか。


18:2 - 4

イエスは幼子を自分のところに呼び寄せ,彼らの真ん中に座らせて
言った,「本当にはっきりとあなた方に告げる。立ち返って幼子たちのようにならなければ,あなた方は決して王国に入ることはないだろう。
だから,この幼子のように自分を低くする者,その者が王国で一番偉いのだ。」

18:12 - 14
「あなた方はどう思うか。ある人に百匹の羊がいて,そのうちの一匹が迷い出たなら,その人は九十九匹を残して山に行き,迷い出ているものを探さないだろうか。
もしそれを見つけたなら,本当にはっきりとあなた方に告げるが,迷い出なかった九十九匹のこと以上に,その一匹のことを喜ぶのだ。
このように,これら小さな者たちの一人が滅びることは,天におられるわたしののご意志ではない。






・仏教的生命力


 


仏教のもともとの教えでは、はっきり言って命を絶ってはならない直接的な理由はありません。宗教と言うよりは哲学であるとさえ言われるブッダの教えには、有神論体系のように、生を肯定する観点がある意味欠けていると言えます。


しかし、仏教では物事を客観的に冷静に考える態度を学ぶことができます。いわゆる悟りというものですね。仏教では誰もがブッダ=目覚めた者になれる資格と能力をもっていると説きます。


 


仏教で説かれるのは「苦しみからの解脱」です。


仏教によれば、生きること自体とそれに付随する行為や感情は、すべて因果律によって苦しみを生じます。そこで、そうした苦しみはすべて、突き詰めれば脳内の相対的な概念に過ぎないことを悟ります。


 


はっきり言うと、仏教的には苦しんでわざわざ生きる必要はありません。だから自ら命を絶つことも、ある意味己の生の限界を悟り、生への執着を捨てる賢明な行為かも知れません。


しかし大抵の自殺は苦しみのど真ん中で経験されるものです。苦しみにまみれたままでは、およそ涅槃の境地とは呼べません。よって(悟り以前に、正常な判断のできる状態でしたい人は当然いないわけだから)、自殺はなんとしても避けるべき行為です。
すべては因果律によって原因と結果が生じ、自殺という破壊的な行いをしたならそのとばっちりが周りの誰かや、もしかしたら輪廻転生したあなた自身に降りかかるのです。


本当に仏教的悟りを得たならば、もはや自分の感じる苦しみは幻影にすぎず、苦しみは存在する価値がなく、苦しみのために自ら命を絶つ必要も消えます。


苦しみを見切り、自分や他人に苦しみを生じさせる行いを慎み(八正道)、今こうしてただ生きているという、ささやかだが確かな快楽を心静かに、そして賢明に満喫することが、仏教的生き方のあるべき姿ではないかというのが私見です。


 


「一切皆苦。


色即是空、空即是色。


心無恕・G、無恕・G故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。


(心に妨げがなければ、恐れはない。誤った妄想を一切もたなければ、完全に開放された自由な境地でいることができる。)」


 


最後にブッダの教えで最も力強いと感じた言葉を紹介します。


 


「自燈明 法燈明」


自らを拠り所として、他人を拠り所とせず、法を拠り所として他を拠り所とせずにあれ。


己を頼りにして己の道を歩むべし。正しき法を頼りにして正しき方向に進むべし。


他人に頼らず、自分の経験と力で自らを救うべし。


正しい生き方の実践によって、自らを明かりとして前に進むべし…。


 


涅槃への道はただ独りで歩むもの。


誰しも正しい生き方で努力すれば、内面を向上させる能力をもっている。


心さえあれば善悪は見分けられ、体さえあれば、ブッダの教えを実践できる。


ままならぬ無情の世に苦悩していた凡人も、自在にして心静かなブッダとなり、己が心身の真の主人公となれ!

美術の日 : 大正シック展 etc.


今日は美術館巡りしてまいりました。
行ったところは近所の東京都庭園美術館と、上野の東京都美術館と東京都国立博物館です。



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大正シック展
    −東京都庭園美術館 〜7月1日

    ホノルル美術館所蔵の、明治・大正・昭和期の作品展となります。
    大正はおもしろい時代で、まだみんなふつうに着物を着ているんだけど、もうすでに車があって、レコードがあってビーチがあってと、まさに和洋折衷の世界です。
    美術においても日本画の要素とアール・デコの影響が織り混ざった、質素でいて華麗な作品が多いです。
    この展覧会の目玉はなんといっても中村大三郎の『婦女』でしょう。

    映画女優の入江たか子が日本文化の最先端の着物衣装と髪型でもって、西洋の長寝いすに優雅に寝そべる姿は可憐の一言に尽きます。


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中村大三郎 『婦女』 1930

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国立ロシア美術館展 −ロシア絵画の神髄
    −東京都美術館 〜7月8日

    帝政ロシア時代の美術作品展。
    写実的ヨーロッパ美術の神髄といった感じでした。
    不思議だったのは貧民を題材にした作品が多かったことです。
    きっとこれは、共産主義時代に多くの美術品が破壊されたが、こうした労働者階級を題材にした作品は優先的に保護された、その名残なのではないかと疑ってみたり…。
    下の絵は気に入ってパネルも買ったものですが、英題は「What a freedom!」でした。周りを激しい流水に囲まれて、これは大海原に立っているのでしょうか?…とにかく、ロシア文化の尊ぶ雄大さが表現できている作品だと思います。


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『なんという広がりだ!』 イリヤ・レーピン Ilya Repin 1903


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レオナルド・ダ・ヴィンチ − 天才の実像
    −東京都国立博物館 〜6月17日


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    ここでは本物の『受胎告知』を見ることができました。
    行ってみると、空港のように手荷物検査され、その先は劇場のようなホールで、だだっ広い中を仕切りに誘導されるままにヘアピンカーブで進むと、『受胎告知』がぽつりと置いてありました。
    やはりモノがモノだけに、扱いもすごいのだなあと感心です。

    館内ではダ・ヴィンチ作品の特集ビデオが放映されていて、『受胎告知』に関する興味深い事実を知りました。
    下のイメージを見て頂くと、実はこの絵はかなり不自然な構図になっていることがわかります。

    まずマリアの前の書見台が不自然に手前よりになっている。このために、マリアの右腕が異常に長く曲がった格好になっています。また、天使も前傾しすぎているように思われます。同様に背景のラインも微妙に傾斜がかかっています。
    これまでこうした不自然さは、初期のレオナルドの未熟さを示す者ものとされてきましたが、実は秘密があり、それはこの絵を右から斜めに眺めたときに分かります。

    どうでしょう?
    実はこの絵は右斜めから見て初めて正確な構図に収まるように計算されていて、そうすることによってマリアが手前に来て絵の主役となり、腕は自然な長さに戻り、傾斜していたラインもまっすぐに見えるようになるのです。そして天使も幾分しゃっきりと体を起こします。
    どうでしょう?うまくいきましたか?



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レオナルド・ダ・ヴィンチ 『受胎告知』 1472-1475





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庭園の記憶

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以上3点は庭園美術館にて

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国立博物館庭園




瞑想のススメ

「することがないとき、あなたは何をするかね?
することがないからといって、新聞を取って読み始めるだろう。
そうした単なるゴミを集めるより、何もせずただ座っている方がましだ。
何もしないでいるのは、ちっとも悪いことではない。」
- OSHO


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    瞑想と聞いて何を想像しますか?
    きっとなじみのない人なら、お寺でひたすら座禅を組む禅僧や、なにやら怪しい新興宗教の類を連想され、何かいかがわしくインチキくさいイメージをもたれるかもしれません。わたしもかつてそうでした。しかし最近は、仏教やヨガに造詣が深くなったのもあって、先入観なく瞑想の効能を評価できるようになりました。

    瞑想をすることで、日常の様々な不安や疑い、怒りといったネガティブな感情は消滅するか、緩和され、”今この場所にいる”ということに確信が生まれ、そこから未来への積極的な態度を培うことができるでしょう。
    また、瞑想の行を日々おこない精進すれば、日頃から自分の精神をコントロールできるようになり、こころと体に調和をもたらす結果、心身の健康が確保されるでしょう。
    女性の場合、なんと確実に美しくなります。そう、こころの美しさ、インナービューティーがあなたを内面から輝かせること間違いなし!笑



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    さて、瞑想といっても、実際にこころを平安に癒す効果を得るのには、大した知識や特定の教義はいりません。
    静かな場所でまわりを整理し、楽な服装に着替え、お好みで何か落ち着いた音楽をかけます。(瞑想のための、メディテーション音楽というジャンルもあります)。
    そして足を組んで背筋を自然に気持ちよく伸ばし、あごを適度に引いて首筋を伸ばし、気道を楽にしてお腹でゆっくりと呼吸するのです。

    気をつけたいのは、特に初心者が効果的で無理のない安定したポージングをするためには、尻を足に対して浮かせるためのクッションの使用が強く推奨されるということ。
    お寺では座禅を組むときに座蒲(ざふ)という専用の座布団を使っています。これは海外では常識となっていて、英語でもZafuと呼ばれるまでになっているのですが、当の日本ではなぜかあまり一般的に知られておらず、売っているところも少ないようです。(個人でする人が少ないからでしょうか…)専用のものでなくとも、枕などを代用することは可能です。

    下が座蒲の写真と、座布団と組み合わせた使用例です。
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    わたしが使っている
座蒲は以下の店で購入しました。参考までに。

泉屋 :http://www.rakuten.co.jp/izumiya-gr/index.html
    商品ページ http://www.rakuten.co.jp/izumiya-gr/687465/690729/




    さて、実際にやってみると、足を組むという行為をするだけで気持ちが落ち着き安定するのが分かります。このことから、体を制約し静止することが精神にも驚くほど影響があるということが分かります。それを発展させたのがヨガだと言えるでしょう。まさに先人の大いなる知恵ですね。

    足を組むといっても、いきなり両足を両ふとももにのせる本格的な座禅ポーズである結跏趺坐(けっかふざ=またの名を蓮花座)をしなければならないことはありません。これを書いてるわたしもできないし(T-T)、最近の人は足が長く体格がかっちりした西洋人体型になってきてるので、かなり無理しないとできない気がします。それでもしようと思うならまず半跏趺坐(片足だけを組む)でならした方がよいでしょう。

    そんなわけでわたしは普段は下のイメージのように、片足を反対のふくらはぎに楽に乗せるというやり方をしています。



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    あと気をつけたいのは、体を楽にしつつ、尾てい骨から頭の先までしっかりと立てるということです。猫背になったり後ろに傾かないように気をつけ、足の付け根から体を前後左右に倒したり戻したりして体の中心に合うよう調整するといいでしょう。

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    かたちができたら、くちびると歯をくっつけて口を結び、舌は上あごに密着させます。眼は気分によって閉じても開けててもよいですが、正統的には閉じるでもなく見張るでもなく、約一メートル前方に視線を落として自然に半眼となるようにします。
    そうして姿勢が整ったら、数回腹の中の空気を出し切るように、静かに深呼吸して瞑想に入ります。

    そこで何を考えるのか?瞑想の極意とは如何に?という質問は愚問であり、それを問いつめるとそれだけで何冊も本を書けるので、今回はご容赦ください。笑   
    宗教・宗派や信条の違い、瞑想の目的によっても様々な瞑想法・観想法があります。
    しかしひとまずの基本としましては、こころと体を静止しリラックスさせ、日常の不安やこころのわだかまりを捨ててすべての思慮分別を離れ、「今」「この場所」という時間と空間を満喫すること。それに尽きるというのが私見でございます☆



    以上は独断と偏見も入りつつ一般的な瞑想の要領をまとめてみたものですが、万人が抵抗なく実践できて、こころを癒すことのできる瞑想というからには、なによりリラックスしてこころを落ち着けることが第一です。なので決して小さな作法の正否を気にするようなものではないと思います。

    最後に、瞑想に興味をもたれたなら、仏教やヨガなどの基本的な理念・スピリチュアリティを勉強されることを強くおすすめします。それらの知識は瞑想に必ず生きてきます。
    あとは皆さんそれぞれが、自分に合った瞑想のあり方を見いだせることを祈るばかりです。

Shanti,shanti,shanti....



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このトピックについて最近おすすめの本:

心の治癒力―チベット仏教の叡智
濃厚な密教世界を擁するチベット仏教の観点から、いかに瞑想によって心の治癒力を目覚めさせ、心身を癒すかについて学べます。チベット仏教ニンマ派の高僧の転生化身として認定され、ハーヴァード大学客員教授でもある著者が万人に向けて著した、読み物としてもおもしろい、おすすめの一冊。




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 ・ディヤン・スートラ―瞑想の道
一世を風靡したインドの神秘家OSHO。確かに彼は完全な聖人ではなかったかもしれないし、その生涯の幕引きは波乱に富んでいた。しかしたとえそうであっても、彼の語る言葉はやはり今読んでも魅力に溢れ、真実の光を感じさせてくれるに足る納得のいくものだと思います。
わたしにとってこの本は、そんな彼を知った最初の一冊にして、上質な瞑想の手引き書です。様々な宗教的逸話を寛容に織り交ぜたその話の数々は、読み物としても大変楽しめる内容です。





OSHOの瞑想法について、こちらの日本語サイトも参考になります。
・OSHO メディテーション
http://www.osho.com/main.cfm?Area=Magazine&Sub1Menu
=OshoIntro&Sub2Menu=VisionIndex&Language=Japanese



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マンガ仏教入門
山水画のように優しく澄んだ画風が特徴の蔡志忠さんによる仏教入門。
ブッダの教えのエッセンスが大変よくまとまった本で、だれにでもおすすめします。

夢を生きるためのヒント


Live The Life You Always Dreamed About - Watch the best video clips here


I love myself.
I am graceful for what I have.
My true nature is happiness.
I recognize my strength and talents.
I have the power to create my life.

I am a spiritual being.

My dreams are my potential.

My dreams make this world a better place.

Today I live in my dreams.

I feel my passion in every moment.

Yes, I can do it.

I love myself.




わたしは自分を愛している。
わたしはすでに優雅で洗練されている。
わたしの本当の性質は『幸せ』。
わたしは自分の強さと才能を認識する。
わたしは自分の人生を創造する力を持っている。
わたしは精神的な存在。
わたしの夢は、すなわちわたしの潜在能力。
わたしの夢が叶えば、この世界はよりよくなる。
今日、わたしは自分の夢を生きる。
わたしはすべての瞬間に情熱を感じる。
そう、わたしはできる。
わたしは自分を愛している。



解説:
Watch this if you feel discouraged about something or simply
empower yourself to create the life you always dreamed about.
Use the power of your imagination and create prosperity and
abundance in your life.
何かに自信をなくしたり、夢の人生を実現する力がほしいときに見て、自分に言い聞かせてください。あなたの心の力で、人生の成功と豊かな生活を創造しましょう☆ By Manifesto

科学か宗教か − 人類と地球の未来

後記:
先日書いたこの記事、あとで自分で読み返すと、我ながらぶっ飛んだことを書いたなあと笑っちゃいました。
前もって言っておくと、ここに記すのはあくまで「極論」の試みです。
私の他のブログ記事でもそうなのですが、こうした極論をもって書いたようなことを常日頃金科玉条に、この私自身生きているわけではありません。そうだとしたらかなりの変人ですもんね。(笑)まあ変わり者なのには違いませんが(^-^;A

私が時に論拠のバランスを欠いた極論を書くのには、一つにはスタンスを意識して書いた方が意見の主張として効率よく、またどっちつかずの八方美人より面白いだろうこと。
もう一つには、世間一般の価値観におされているマイノリティの価値観・視点を極論をもって立て直す試みと、読み手の方々にそれをたたき台としてもらうことによって、逆説的に全体としてのバランスを構築しようという意図によるものです。

無論、ウソやでたらめなことを書くことはないように、極力気をつけていますので、今後ともどうぞよろしくお願いします。



・前書き
    先日、巷の自殺に対する一方的な非難や傲慢な言論への反証を著し、世の無分別で不毛な自殺バッシングの非を説きました。この現代のタブーともいえる話題に、mixiの日記ではかなりの反響があり、そのほとんどがありがたくも好意的なメッセージでした。
    このブログにも掲載しましたが、なかなか見返してみるとアグレッシブで扇情的な内容であり、ブログのテーマに合わないということで、勝手ながら現在ここでは非公開にさせていただきました。しかし内容を知りたいというリクエストには応えたいと思います。

    今日は、世に蔓延する偏狭な科学合理主義の功罪を指摘し、
そうした世相のなかで改めて”強く生きること”について「宗教」に学ぶことの意義と、その実践的な内容を探りたいと思います。
※ここに記すのは決して特定の宗教を賛美したり代表するものではなく、個人的な「科学/宗教観」の表明・提案となります




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■    独立個人として生きる力
       −宗教という知恵と生命力


  日本は見るに明らかな自殺大国です。
    それも、自分というものをもって世界をしっかり見ることもままならない高校生や中学生が多く自殺するような悲惨な現実があります。
  昨今は猟奇的な殺人事件も多く、実に虚無的で命を軽視した人たちが目立ちます。
    こうした異常事態は、この経済大国日本において、生命の価値が著しく貶められていることに原因があるでしょう。


    それと同時に、生きることの意義が、無惨なまでに軽薄で病的なまでに刹那的な価値観によって汚染され、若者をはじめとした多くの「物質に恵まれた人間」を自殺や他者の殺傷といった行為に走らせています。

    これからの世界に必要なのは、あたたかい宗教心によって強い生命力を備え、他者と自然への敬意をもち、心には他人に曲げられない芯の通った、精神的に自由で独立した個人であると考えます。




    以前も紹介したように、ここで意義が認められるとする宗教とは、凝り固まった偏狭な教義に振り回される可能性のある特定の「宗派」ではありません。しかしやはりそれは「宗教的」なものでなくてはなりません。

    見極めるポイントとして重要なのは、その信仰や信条がいかに世界や全人類の現実について、寛容で普遍的な理解を示し、そのなかであなたをいかに独立した人間として生かしてくれるか、です。それは特定の個人を絶対的に崇拝させるようなもの、人を脅し傷つけるようなものであってはなりません。



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◆科学に溺れる世界
    -生命を愚弄し、浪費する科学

    日本人は「宗教」をことのほか蔑視し、科学・合理主義とそれによって得られる物質・経済的なドグマを盲信します。そしてその隙間を狙うように商業的なスピリチュアリティやカルト的な宗派が蔓延しています。
    こうしたことが社会と人心を混乱させていることは明らかだと考えます。

    確かに
科学・合理主義的視野を尊重して、どんな場合でも冷静で知的な態度を忘れないことは、生きていく上で非常に重要なことです。しかしそれと宗教性を否定することとは、実際は何の関係もありません。
    宗教と知性は本来、何ら対立するものではありません。たとえば以前とても知的なハーヴァード大学医学部生と話をしましたが、彼はまじめなキリスト教徒で、教会で聞いて感動した話を熱心に語ってくれました。
    そもそも「科学=知的・客観的な真理」という社会に蔓延する信仰は、まったく論理性を欠いた意見であり、言うなれば現代の迷信です。真理も何も、科学とは突き詰めればほとんどが仮説でしかありません。それは過去の膨大な実験データや知識の集積から導き出された「妥当とされる見解」であり、それ以上のものではありません。

    科学はあくまで自然現象にまつわる普遍的な知識・技術であり、それは人間の生活にとって重要で価値あるものですが、それによって未だ知られざるものや記号化できないもの、目に見えざるものの一切を否定し、科学のみによって人間や他のあらゆる生を定義しようとする昨今の試みは、自然や人間性に対して著しい破壊と歪曲をもたらしてきました。

    科学は時に、理性的に考えればおかしいと思うような偏狭な説に固執して見せたり、
まともな知性や感性があれば容易に分かるような結果を得るために愚にもつかない実験を繰り返したりします。
    たとえば、どう考えても危険とわかるような物質や機械の安全性について「科学的証明」を得るためと称して、毎年何百万何千万もの無実で無力な動物たちを陰湿な環境で監禁拷問し、壮絶な苦痛を味あわせて虐殺しています。(参照HP

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    人間もこうした凶行から安全ではいられません。
    ナチスは「科学的に劣等人種」であるとしたユダヤ人や障害者を使って、被験者の生存をまったく考慮しない過激な人体実験を行っていました。こうしたデータは終戦後連合国にわたり、本音では「有意義な研究」として重宝されています。日本にほぼ同時に落とされた二発の原子爆弾も、その実態は「劣等人種」である日本人を用いた新型爆弾の人体実験であり、終戦後すぐさま研究チームが飛んできて、爆心地の様子、町の崩壊具合や放射能でぼろぼろになった人々といった「科学データ」を収集しました。

    かくして科学の名の下では、今までも、そしてこれからも多くの生命が傷つけられ殺されるのです。しかしそれを批判することは許されないこととされます。なぜならそれはすべて人類の「進歩」のためであり、皆がその「恩恵」を受けているとされるからです。
    こうしてみると、「科学」が人々に盲信と殉教(そしてすべての生命の犠牲)を要求する、極めて強圧的で無慈悲な「宗派」としての一面をもっていることがうかがえるでしょう。


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◆脳科学のバカの壁

    昨今、脳科学によって人間の精神活動のすべてを語ろうとする試みが盛んなようで、そういった類の本が書店に多く並んでいます。その流れで茂木健一郎氏なんかをテレビで何度も見かけます。
    彼らいわく、何をしたら脳にいいだとか、こうすれば何とかという物質が分泌され脳が活性化するだとか、アハッ体験がどうのと、いったい何を言いたいのかよく分からない内容ばかりです。
    脳内の分泌物や脳波といった物質的反応だけで、人間というものを語ろうとする。こうした錯乱したような、傲慢な態度は多くの科学者に見られます。

    人間は運動したり、旅行したり、いい出会いがあったり、いい映画を見たり、いい音楽を聴いたりして感動し、日々の驚きや発見があって育つものです。そうした経験によっていかなる精神的反応があるかは個人の成熟度や感性、心のあり方によるものであり、ここにおいて脳がどう反応するかはまったく重要ではありません。そんなこといちいち「科学的証明」されなくても結構です。
    だいたいにおいて、脳にいいから何かするというのはまともではない、まったく本末転倒な発想でしょう。こんな話を吹き込まれて育つこれからの子どもたちが心配です。

    「脳が脳が」と、それがあたかも機械のパーツのように同質的で無機質なもののように語ってはばからない彼らの態度は、まるでわけもわからず手にしたものを乱暴に振り回す幼児のようであり、人間という存在について何の哲学もなくただ目先の「発見」に執着する様子には末恐ろしいものを感じます。
    彼らはきっと、自分の感情さえ「科学的数値」で説明しないと理解できないまでに人間性を見失っているのでしょう。これもまた「科学教」のなせる業です。



・「科学的証明」の罠


    たとえば快活な音楽を聴くと頭がはっきりするし、静かな音楽を聴くと心が落ち着くし、好きな音楽を聴けば
気分がよくなる。そんなこと誰でも感覚として分かるでしょう。
    ところが世の科学者はやれ「アルファ波」だのがどのくらい検知されるから音楽は脳にいい、とか言って、科学を盲信する凡人はそれでなにか素晴らしい啓示でも下ったかのように一喜一憂する。
    こうした流れで有名な、モーツァルトが脳にいいという話もわたしからしたらまったくばかげているように感じます。ある実験で、被験者にベートーベンの第九とモーツァルトのアイネ・クライネ・ナハト・ムジークを聴かせて、後者のほうがアルファ波が出ていたからやっぱりモーツァルトは脳にいいんだとしました。
    しかし第九と
アイネ・クライネ・ナハト・ムジークを比べたら後者のほうが快活で刺激的であるということは凡人の感性でも分かるでしょう。対する第九にはベートーベンが託したある種真剣な物語があり、それはこの交響曲全編を通して聴いて初めて体験されるものです。だから大体両者はその性質においてまったく異なるものであり、ベートーベンが自分の苦心した曲をこんなおかしな実験で軽々しく引き合いに出されたと知ったならさぞ悲しむことでしょう。
    こんな不毛な実験でも「科学」というトッピングをするだけで人はありがたがって飛びつくのだから不思議なものです。

    一見客観的と謳う科学的実験・データも、目的しだいで自在にごまかしがきくのが特徴です。結局は依頼主=スポンサーに有利な結果をでっち上げてでも作り出すのが、職業科学者の悲しい定めなのです。
    これはたとえば、たばこは明らかに健康に害のあるものですが、セッティングや比較対象を変えたりすれば容易に「たばこは比較的無害」という結果を導くことができる、ということからも理解できるでしょう。
    上の実験でも、数あるモーツァルトの作品の一つだけを抜き出して行った結果で本当に正確に言える事は、「
アイネ・クライネ・ナハト・ムジークを好きな人が多い」ぐらいのはずなんですが、白服を着た人たちと複雑な電子機器類を見せ付けられるとコロっと信じちゃうのが現代人の悲しい性…。
    モーツァルトの音楽は素晴らしい。素晴らしい音楽を聴くと気分がよくなり頭が冴える。それだけで十分ではないでしょうかねえ…。


Eine Kleine Nachtmusik






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◆心の内容が人をつくる
    −己の心身の主人公であること


    以上を見れば、科学はあくまで事実・知識であり、科学の名の下でそれ以上のことを教化したがる科学者の言動はいってみれば妄言、戯言に過ぎないといえます。科学=知的という現代の迷信はまったく正当性を欠いたものです。
    知的と呼ばれるべきは「知恵ある者」であり、これまでそうした人々の多くは宗教に属していました。
    科学は「人としての知恵」に勝るものでは決してありません。

    どんなに脳科学者が偏狭な人間観を広めようが、人の心は決して脳内の刺激やホルモンバランスだけで語れるものではありません。心は薬や外科手術などの「科学的方法」で完全に治癒、コントロールできるものではなく、するべきではありません。

  『心の内容』こそ、人が生きる上で最も大切なものではないでしょうか。

    しかし残念なことに現代社会は、テレビや映画、音楽、マガジンやマンガ、ゲームといったメディアで大量生産される、見た目だけの浅はかな感動や他者の否定や嘲笑を主体とした下劣な価値観、性的・暴力的なだけのかっこよさで氾濫しています。

    ここで気をつけないとならないのは、今の社会やメディアには人間の心のあり方について何ら提案する資格はないということです。
  彼らは結局のところ、人々からいかに自分で考える力をうばい、社会や市場、企業や国家に従順でコントロールしやすい人間にするか、ということしか考えていません。


    そんななかで人間を全人的に成長させてくれるのは、人類の歴史と経験、自然の神秘や偉人たちの叡智によって培われるべき性質をもつ「宗教」だけであると、今になっては思わざるを得ません。
    そもそも人間の生命力は本来、実に宗教的なものです。
    人間は自然について何もコントロールできません。 人間の心身に組み込まれた、大いなる自然の摂理にただ生かされているというのが人間の真実の姿です。



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◆誰がために科学はあるか
    −差別する科学


    考えてみてください。今ほどの体系的な科学などなかった時代にも人は当たり前に生まれ、生きてきたし、科学がどれだけ進歩しても、人はやはり苦しみ、病み、老いてやがて死にます。
    確かに科学は人間の生活を便利にしてきたし、危険な重労働から人々を解放してきました。そしてこれからもより合理的・衛生的・迅速で便利な生活システムを築き上げていくでしょう。

    しかし、それだけでは人間は決して幸せにはなりません。
    だいたいそうした科学のもたらす最も甘い蜜は結局、一般庶民の手に渡ることはありません。ましてや貧しい人々に至っては、科学物質文明が編み出した非人道的なまでに機械的で過酷な労働環境、産業が排出する高分子のクズや有害な化学物質、電磁波にまみれた不自然な住環境で生きることを強いられます。



    貧富の差に裏付けされた階級社会は、その姿形を巧妙に隠して依然として存在し、富める者は便利で清潔でかっこいい科学物質文明の恩恵に預かり、それを褒め称え、勝ち誇ります。
    そしてその下で、社会の中核を担っているとされる(が実際はそうでない)多くの中産階級は、規模の経済で大量生産される娯楽商品や医療といった科学文明の恩恵にあず かり、いつの間にか科学と名の付くものを無批判に受け入れ崇拝し増長させることが、自分たちを幸せにし、救済してくれる「神」のような存在であるかのよう に錯覚します。

    他方でそうした中産階級の多くや貧しい人々は、産業社会の生み出す劣悪な生活・労働環境のなかで、身の回りに溢れる有害な化学物質や不完全な医療の弊害、住空間を襲う公害といった、科学の負の副産物に心と体を蝕まれ、過去には見られなかった悲惨さを体験しています。
    神の万人への愛や、人間の自尊自立の魂・精神の存在とその普遍的な価値を否定された彼らには、今や信じるべきものもなく、心の拠り所もなく、持たざる者=無価値な生命体として、ただ管理され処分されゆく運命にあります。

    人類が科学によって「進歩」してきたというのは「科学」という神話体系が作り上げた幻想です。
    生命を不完全に操作したり効率的に抹殺する手段を手にし、地球規模の迅速な移動・通信・流通を可能にする技術インフラを築き上げ、地球環境を激しく破壊した以外に、科学を手に入れた人間のありのままの姿は何一つ「進歩」していません。むしろ性や暴力といった動物的な快楽への依存、金がすべての競争社会における他者への異常な闘争心といった、精神的に「退化」したに等しい光景も稀ではありません。



★支配するのは科学か宗教か

    −生命の尊厳をかけた究極の選択

    われわれは気づかなければいけません。
    生命にとって真に大切なものは太古の昔からわれわれの中に備わっており、それはただ自分と
他のすべての命に対する尊敬と慈しみの感情によって、こころの中や大自然の秘密に耳を澄ませ、感じとることによって、そして祈りによって、瞑想によってのみ知ることができ、信じることによってのみそれらを価値あるものとして保ち成長することができるのです。
    こうした努力を完全に欠いた世界では、個々の命の尊厳、平和や幸せなど決して望むことはできないでしょう。


    支配するのは科学か宗教か。
    人類と、地球のすべての生命の尊厳と未来をかけた選択が今まさに問われているのです。



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ユーリ・ノルシュテイン作品集 『霧につつまれたハリネズミ 』『話の話』


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    詩的でどこか哀愁のあるアニメーションが特徴の、ロシアの映像作家、ユーリ・ノルシュテインの作品がネットでアップされていることを知りました。なんともすごい時代になったものです。
    ということで、ここに代表作二つを置かせてもらおうと思いますが、画質も良くはないので、是非みなさんも気に入ったらDVDを手に入れて観てください。



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『霧につつまれたハリネズミ 』


解説
小さなハリネズミがハンカチにつつんだジャムの壷をかかえ、仲良しのコグマの家へ向かう。その途中、野原の霧の中で 道に迷ったハリネズミがさまざまな不 思議に出会う・・・。いつしか観客もハリネズミと一緒に霧につつまれたような不思議な気持ちになる、一度見たら忘れられない作品。

<わたしの感想>
素直に見て楽しめる、素朴な作品です。最後のぽっちゃりクマさんがかわいい…。








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『話の話』

解説
つぶやくような子守歌。それに呼び出された狼の子。
狼の子はおぼえている。廃屋に大勢の人が平和に住んでいた時代、街灯の下で男女がタンゴを踊った時代、 男たちが戦場に奪い去られた時代・・。忘れ去られた時をこのアニメは詩として歌う。幻想的であり強烈なリアリティ。世界アニメ史上に残る名作。

<わたしの感想>
切なくて、寂しくて、それでいて、狂言まわしのオオカミ君はどこかユーモラス。
過ぎゆく人生の記憶、言葉では語れない哀愁が、美しくもおぼろげな音楽と共に綴られる。
難しいことは考えないで、ただ見てください。感じてください。


Part 1/3







Part 2/3








Part 3/3











宗教の本質を考える

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    先日ニーチェの「アンチクリスト」を超訳した、「キリスト教は邪教です!」(講談社)という本を読みました。内容はニーチェによるキリスト教への徹底的な批判となっており、「キリスト教徒は精神病だ!」云々と激しい口調で糾弾します。(皮肉なことに本当に精神病となり狂い死にしたのはニーチェの方だったのですが…)
    全編激しい口調ですが、読んでいると、イエスの人物像や仏教とキリスト教の相違なんかも的確にとらえていて、さすがだなと思える内容でした。

    が、当然のことながら、わたしはキリスト教が邪教だとは思いません。
    たしかにこの本の内容は、普遍的な宗教批判として大変参考になるものでしょうし、当時の閉塞した言論に風穴を通したことには計り知れない意義があったでしょう。100年以上前に書かれたものとしては驚くほどに踏み込んだ議論をしているし、100年以上たった今でもその言葉は風化することなく鋭い切れ味を見せています。
    ただしやはりニーチェ特有の毒があり、キリスト教に対する異常な闘争心やユダヤ人に対する激しい敵意には、ついて行けない悪趣味な感じを覚えました。

    ここでひとつ、以下で私の宗教観を洗っておこうと思います。





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・宗教のもつ普遍的な危険性

    日本では昨今、一神教に顕著な「宗教」というものは諸悪の根源と言われて久しいですが、わたしは必ずしもその意見に賛同しません。
    確かに世界では殉教という狂信に駆られたテロが横行し、また過去の歴史を見ても宗教というものは争いや虐殺などの暗い歴史の主役となってきました。そのことは、まさに今われわれ皆が学ばねばならないでしょう。

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    「そのとおり!キリスト教やイスラム教とかいった宗教は悪だ。あんなのやってる連中はバカだ。」と思った人はあまり分かってません。
    たとえ宗教がなくなっても、人は苦心してまた別のそれに代わるものを掲げて、そこに生きる意義を見出し、やがてあるものはそれによって自分を美化・正当化し、他者を憎み蔑み排撃するでしょう。

    そもそも、一神教という区切りについて言うと、昔の日本では寺が僧兵で武装したり勝手に関所つくったり、とやりたい放題したあげく体制と戦争したりしてました。ギ リシャ文明や全盛期のローマ帝国は多神教であったし、高度な哲学や数学、科学の土壌を育んでいたけど、侵略と戦争もたいそうお盛んでした。
    だいたい多神教文化は一神教よりも穏和だという嘘は、穢多・非人といった差別文化を根深くもち、国の内外で侵略戦争を繰り返していた日本や、未だ根強いカースト制を維持しているインドの歴史を知っていたら言えないはずでしょう。
    宗教が憎しみや争いを生む根源だというのも、宗教を否定した社会・共産主義が何をしてきたかを見れば言えたものではないはずです。

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    結局人間は、いつの世もそのときそのときに自分たちが最高の善だとするものを掲げ、それを強化するため、あるいはそれを守るために奮闘するのでしょう。
    しかし、世の汚い人たちは、自分の利益や地位・権利を得るための横暴で卑劣な行為を偽装するために、それら宗教を利用するのです。そういう人たちは日頃はその宗教の掲げる戒律やら美徳といったものに反することを平然とやっています。そのくせ他人にはそうした宗教の「縛り」を押し付けるのです。こういう人たちがのさばってしまうのは、言ってみれば宗教の負の側面です。
    また、宗教への妄信的態度や逃避的傾倒から醸成される、非信者や外部社会への被害妄想的な敵意・憎しみといった問題もあります。

まとめると、

1,宗教指導者や権力の私利私欲のために利用される危険性

2,他者や周りの社会、現実を度外視した、閉鎖的で偏狭な価値観に汚染される危険性

    宗教で気をつけなければならないのはこの二つであると考えます。





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・ドグマ(教義)のない者はいない
    −宗教の商業化、商業の宗教化

    さて、ここまで来て、自分は特に宗教やってないから大丈夫だという人もいるでしょうが、宗教然とした宗教をやっていることだけが問題だと思うのは、まったく盲目的な態度であると考えます。
    一挙手一投足すべて科学万能・合理主義でやってます!という人でなければ、人間いつでもどこでも何がしかを、たとえ無意識的にでも「信じる」ことで自分を保っているものです。

    社会を見回せば、あらゆるメディアをとおして実に様々なドグマ(教理)があふれかえっています。
    テレビや雑誌では有名人、スポーツ選手やアイドルの、姿や発言・行いが現代の人間の理想像であるかのように映し出される。勝ち組、負け犬、セレブ、ブランド、癒し系、スピリチュアリティなどなど、あらゆるターゲットの年齢層や社会層、性別に向けた多くの流行や物語やキーワードが生まれては消えていきます。人々がこうした流行に価値観や人生観を左右され、時に自ら責め苛まれるのは、これらが実に消費社会という母胎で生まれた消耗品の宗教として機能しているということではないでしょうか。


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    だからといってそれ自体は別段異常なことではありません。人はたとえ「宗教」という形でなくても、たとえ一時的であっても、たとえ無自覚であっても、自分にとって何らかの絶対的な価値を標榜して生きているはずです。知らず知らずのうちに、人によってはそれこそ人生さえ捧げるほどそれらを崇拝しているのです。

    しかし、そこで上にあげた危険性について考えてみてください。   
    あなたの信じるものは誰かの一方的な決めつけ・押し付けではないか。

    あなたの信じるものは、他人を疎外したり傷つけたりしていないか、と…。


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・OSHOの宗教論


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    インドの神秘家OSHOは、およそ人間のつくる国家が宗教なしではありえないということを言いました。無宗教の国家、それはもはや人間ではなく、単なるロボットの集団であると。

    「われわれが目指すべきなのは、「無宗教」の世界ではなく「無宗派」の世界である。
    世に無神論者はおれど、彼らは宗教にさほど害を与えてこなかった。最も宗教に害を与えてきたのは、他ならぬ宗教指導者たちである。
    彼らは宗教的人間であることよりも仏教徒であることを主張し、宗教的人間であることよりもキリスト教徒であることを主張し、イスラム教徒であることを主張する。
    彼らこそ(宗教の名の下に差別をし、他人を傷つけ、戦争をし、野蛮の限りを尽くし、)世の中から宗教を奪うのです。」

    OSHOは言います。
    「宗教には途方もない価値があるが、宗派には価値はない。
    健康な国家や社会の暮らしは宗教に根ざしていてこそ存在できる。
    宗教こそが、人類が唯一、真に必要とするものなのだから…。」




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・アインシュタインの宗教論


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    一方、科学者アインシュタインも物理学を研究する一方で、やがて宗教にも関心を示し宗教論も表しました。彼は、宗教には3段階あるとしました。(参照


★第1の段階は、原始的な「怖れの宗教」です。

    たたりを与える神を想像し、いけにえや供え物を供えて、機嫌をとるようなもので、日本では神道がこれにあたるでしょう。

第2の段階は、人格神を説く「論理的宗教」です。
    しかし科学の発達により、病気や遺伝など、種々の因果関係が明らかになるにつれ、神の意志が働く余地は全くないとの確信は深まる一方であると彼は考え、生前こうした人格的な神を否定していました。


   さらに、天動説や進化論など科学の領域に、独断的な神話を持ち込む人格神の概念が、宗教と科学の抗争を生んできた、と結論付けました。ここらへんは最近「The God Delusion」(神という妄想)などの無神論的な著作が多い、生物学者リチャード・ドーキンスさんがさらにプッシュしていますね。


★第3段階の宗教とは、神の概念のない「宇宙的宗教」です。

   アインシュタインは、因果律に立脚し、科学とはなんら矛盾しない仏教に多大な関心を寄せていました。

    これはニーチェにも共通していて、かれも「仏教はキリスト教の100倍は現実的である」としました。彼いわく、神や善悪という概念をあえて語らず、「問題は何か」「苦しみはどこからくるか」と冷静かつ客観的に考える、古代インドの成熟した哲学運動を受け継いだ仏教は、いい意味で歳をとった、善良で温和な、きわめて精神化された種の宗教であると言います。

    まあ彼にしたら、悪い現実ばかり目に付く、目の前のキリスト教よりも、隣の芝生(仏教)が青く見えたという事情もあるのでしょう。なにやら西洋には興味深いことに、厭世的な哲学者や反骨的なインテリは仏教に走るという伝統があるようです。笑 


    (このようにアインシュタインが宗教に段階付けしていたのはあまり関心しない態度ですが、人格的な神を否定し自分を神のように思っていたアインシュタインでさえ、宗教をある程度評価するに至ったことを紹介する意図で書きました。)

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    最後に、そんなアインシュタインが残した見事な名言を紹介しておきましょう。

「宗教なき科学は不具であり、
科学なき宗教は盲目である。」




P.S. 

    今回ずいぶんと批判嘲笑の矢面にたたされたキリスト教ですが、これも決して一枚岩ではなく、その体系・分派には様々に異なる魅力的な要素を見出すことができます。

    たとえばキリスト教は自然をないがしろにすると言われるが、アッシジのフランチェスコという、自然をこよなく愛し、動物に説教していたような大聖人がいます。彼に始まるフランチェスコ派修道会を筆頭に、中世キリスト教は精神的な盛り上がりを見せました。

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    また、完全に一神教で、頼れるのは聖書と己の神のみというプロテスタント系宗派もあれば、カトリックのように多くの天使や聖人がいて、彼らに対して祈ればそれぞれに固有の御利益が得られるという多神教的な要素が組み込まれたものもあります。
    他方で東方正教会は、修道院に出家して修行することを重んじる、ある意味大乗仏教的な要素をもったキリスト教であり、教義も西ヨーロッパのカトリック・プロテスタントとはかなり違うものをもっています。
    また、キリスト教は歴史に裏づけされた深遠な神学に代表される学問文化を擁しており、仏教と比べても見劣りしない知的な態度を垣間見ることもできるものです。
    キリスト教が邪教であったり未熟であったりするということはなく、むしろそういった凝り固まった宗派的な主張をすることこそが、偏狭で未熟なことではないかというのが私見です。


    ただ、先のイラク戦争のように、一部のキリスト教が戦争の正当化をしたりイスラム教がジハードを宣戦したりするという事態は極めて遺憾でした。


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   イエスの教えに戦争を肯定する余地はまったくありません。

    裁くなかれ。殺すなかれ。左の頬を打たれたなら右の頬をも差し出しなさい。こうしたことは聖書に何度も書いてあるのに、戦争に熱狂するキリスト教徒はいったい教会で何を聞かされ、読んでいるのかと不思議になります。

    ガンジーはかつて聖書を読んで感銘を受けたが、キリスト教徒の傲慢さを見て失望したと言っていたそうです。これはまさに言いえて妙でしょう。宗教が実践ではなく大義名分にすぎないとしたら、それは他者から見ればまったく不当なものでしょう。

    結局は、キリスト教に限らず、現代社会において宗教が、社会成員の精神修養という目的を失って単なる飾りや集金装置となってしまい、結果としてつまらない権力装置に成り下がってしまうという現象が、過去にもあったし現在においても蔓延しており、それがやがて社会全体の堕落に連動していくのではないかという不安を、多くの人が感じているのではないでしょうか…。
   


***

    いずれにしても、わたしには宗教を位づけする意図はまったくありません。キリスト教も仏教も、信仰は平等に価値あるものだと思っています。
    ただ、神は誰かに言い聞かされるものではなく、一人一人が体験するべきものであるという信念を持っています。誰か特定の人間しか交流することができない神、交流することが許されない神を盲信することは、ともすれば詐欺師の道具になるに等しいからです。
このことについてはまたおいおい書きます。

    とにかく、自称クリスチャン・ブッディスト・アニミストであるわたしが信仰を否定したり神仏を攻撃したりということは決してありませんので、誤解なきようお願いします☆

このテーマについてはまたおいおい書いていきたいと思います。


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読んでいただきありがとうございます☆








おまけ − Libera - Locus Iste (Sanctus III)







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