みたらし祭
先日まで京都にちょっと帰省していて、近所の下鴨神社でやってるみたらし祭に行ってきました。
京の夏の風物詩。昔とかわらないものを感じて、久々に郷土心くすぐられました。
みたらし祭(御手洗祭)とはなんぞやと言う方、おられるかもしれませんが、文字通り境内の神聖な水で、手と足を清めにいくわけです。
足つけ神事場に行ったらまず裸足になって、入り口で各自棒付きろうそく一本もらいます。
持ったまま聖なる池(?)にじゃぶじゃぶ入っていって中間にある火元でろうそくに火を灯します。
そしてそれをその先にあるろうそく台に供えます。
そのまま池を出ると、御神水で手を洗ってもらって、杯でごくり。
こうすることで、無病息災・延命長寿に、効くとか〜効かないとか〜。笑
池の水が思った以上にひんやり冷たくて、皆さん狼狽しておりました。
「神の水」はほんとにおいしかったです。
祭りの後にはもちろんみたらし団子を食ってしめました。
ごちそうさま〜。
未来と現在と過去のつなぎ方
時間は未来から過去に流れている。
こう言ったらみなさん驚くでしょう。
しかし古くはアビダルマ(上座部仏教)の仏教哲学者が主張し、現在最先端の現代分析哲学もそう主張するそうです。キリスト教においてカルヴァンの予定説なんかが言ってるのも同じように聞こえますね。
現在が、時間がたって過去になる。同じように、未来で時間がたったのが現在なんですね。
因果律は未来が因で現在が果ということ。
となると、面白いことになります。
未来をはっきりとイメージし、臨場感をもって、そう、それがあたかも過去に起こった出来事=事実であるかのように体感し続けることで未来を(そしてその結果である現在を)そのとおりに実現できる!ということになるのです!!
そうして実現されるべき夢の結果である現在が改善されれば、過去もそれに従わざるを得ない。
つまり、人はやろうと思えば未来も過去も自分でマネジメントできるようなのです!
似たような話で、偉人や天才は一様に、人生を遠近法で捉えているそうです。
つまり彼らには、自分の未来や目的、使命をあたかも自明のものであるかのように強く信じて、しっかり見据えて生きた、という共通点がある。
このケースにも、未来がこちらに向かってくるものという発想がかいま見えます。
自分の目指す未来さえはっきり見定めることができれば、後は現在の問題課題に柔軟に対処し軌道調整をしているだけで、夢は向こうから近づいてくるのですね。
この話、僕は実感として納得できるなと思います。
というのも、僕は高校の三年の夏までに自動車と自動二輪、自動大型二輪をすべて取得するというアホなことをしていたわけですが、自動二輪の試験コースには一本橋という障害があります。
これは文字通り平均台のような細い15メートルの台の上を低速で安定させながら、大型だと10秒間以上かけながら渡るというものです。
この時に、目先に注意をやってると右に左にと前輪が揺れてバランスがすぐに崩れてしまうものなのですが、顔を上げて平均台の先の先に焦点を合わせてどっしり構えていれば全く揺れず、何秒でも耐えられそうにすら思えるようでした。
目先のことしか見えていないか、到達したい地点の先にしっかり焦点が合っているか、この差は驚くほど違うものです。
そんなわけで皆さんも夢の未来に向かってがんばってくだされ〜
*
神の概念 −クエーカーの真義第三回
神の概念神に関する知識を持っていることと、神を知っていることとの間には大きな違いがある。初期のフレンド(クエーカー)の教えは「観念的」宗教に対抗する経験の宗教であった。それは人々に神に関する一教義を教えようとするのではなく、人々の胸奥の体験の中に神のあることを認めさせようとしたものであった。
聖書
聖書は、比類なき霊感の書であるというためでも、又不思議に何ら誤謬を混じえることなく保存されてきたためでもなく、偉大なる神の真相の発見、亜多は啓示の主要なる段階を記録するものであるが故に、唯一無二の、他と置き換えることのできない経典である。
聖書はただ泉を言明するものあって泉そのものではない。故に聖書はあらゆる真理と知識の根源、或いはさらに信仰と儀式を規定する適切な根本的法則と見なしてはならない。ただ聖書には誤謬がありとは言え、吾々は聖書がキリスト教のあらゆる本質的な問題に関して明瞭な証を充分とどめていることは否定することができない。故に、聖書をキリスト者間の論争を裁く唯一の適切なる外的審判者と見なし、従って聖書の証に反するがごとき教義はすべて虚偽なりとして排除して然るべきであろう。
フレンドは聖書を霊感によって書かれたものとして受け容れた。然し聖書を「神のことば」と呼ぼうとはしなかった。何となればフレンドにとって聖書は信仰と義務の究極の法則ではなかったからである。霊感を与え聖書を書かしめた聖霊は聖書以上のものであり、しかもそれは、これを求め、これに従う者には、今日でも霊感を与えるからである。聖書を書いた人々と同じ霊感を感じ得るときにのみ、吾々は聖書を真に理解し、聖書を利用し得るのである。クエーカーが、批判的研究法によって聖書に加えられた新しい見方によって、他のキリスト者の如く動かされなかったのは、恐らくここに原因があったのであろう。
科学的歴史的研究の進歩により、聖書の記述の部分的意義に関して個人的見解が如何ほど与えられようとも、聖書に対するフレンドの立場は根本的に動かされたことはない。
厳格な正統派の清教徒(プロテスタント)に従えば、聖霊はただ聖書の知識を通してのみ人間の中に正当に働くのであり、カトリック教徒に従えば、聖霊はただ聖礼典を通してのみ正当に働くというのである。しかるに初期のクエーカーにとっては、聖霊は聖書によって強められたる人間の内なる光を通して直接働くというのであった。
聖書の真の意味は、知力のみならず道徳的同情を以てこれを読む人によって最もよく了解された。聖書を了解しその教えを実行に移さんがためにこれを読んだ人々のこころのなかには、聖書の著作者に霊感を与えたると同じ聖霊が、依然として生きていたのである。
様々な立場と境遇にある人生そのものこそ、預言者を通し、又その極地としてキリストを通し、神の人間に語った手段であり、又行ける神の例が直接人間に話しかけた、又現に話しかけつつある手段であると思われる。吾々は聖書、預言者の伝統、教会の伝統、および森羅万象に見ゆる神の御業など、神の真相を示す様々なる外的の証を高く評価するけれども、キリストの光のみがかかるものを解き、生かし得るものと信ずる。
神の本質
内在と自在
吾々の神−宗教的神−は至る所に同じ程度存在しているのではない。然し大自然という神は至る所に同じ程度存在している。「牙も爪も餌食もて紅に染まれる自然」の中には吾々は神を発見することはできない。神はただ自然の連続の中に殺戮に抗し、絶対に殺戮を善なりとせざる人の現れる時にのみ見出されるのである。ただ理想が目に見えた時、現実の姿が本来あるべき姿を暗示した時、不完全なものが本来善なるものの閃きを与えて預言する時にのみ、吾々は神は真に示されたと言い得るのである。
クエーカーの信仰に於いては、神の宇宙的内在と神の倫理的責任とを混同することはない。クエーカーの信仰では、神は石ころにも人間にも同等に存在するとは思わない。現代の神の遍在論の多くに見られる誤謬は、人間の倫理的友愛における聖霊と人間の霊の結合を、神の宇宙的偏在に他ならぬものと見るところにある。
神は非倫理的なる物の中に倫理的に存在していよう筈はない。神は善人の中に宿ると同じ程度に悪人の中に宿ってはいない。神はただ、神をその本質的なる実相の中に宿し表現し得るものの中にのみ完全に存在し得るのである。
神を原理として、また人格として見る二つの理念は、吾々の外的および内的生活を正しく指導するためにその二つとも必要である。
一,世界の秩序、法則、および統一の原理としての神、即ち自然の法則を通して働く宇宙神。これは科学の示す神である。
二,一人格者、或いは意図全体が完全なる善である自意識を持てる実在者としての神。これは吾々が宗教的体験を通して知るに至る神である。
もし神が吾々の霊の父であるならば、神は必ずや宇宙全体に対し又個々人に対し或る意図−即ち愛と絶対不可分なる意図、即ちその愛の対象となっている一切のものの完全なる発達と究極の幸福をもたらそうとする意図−を持っているに違いない。もちろん、万一神が非人格者であり、愛でないとするならば、かかる考は問題にならなくなる。これは全くキリストの説けるが如き神の信仰に基づいているのである。
宗教の本質、少なくとも高い種類の宗教の本質は、此の世に神的な目的のあることを認め、その目的を自分自身のものにしようと努力することにあるように思われる。これはわれわれが如何ほど不完全であろうとも、少なくともその目的が如何なるものであるかにつき若干法海を持っている必要のあることを意味する。かりそめにも神の意図が人間に解ると思うのがそもそも不遜である、と考える人があるかもしれない。たしかに、吾々は吾々の人間的思量を以て神意を測る尺度とするが如きことのないように常に注意しなければならない。
神の信仰と帰依
恰も勇気というものが恐怖心からの脱却を意味しないのと同様に、信仰は全く疑問を懐くことがないことを意味するものではない。信仰は完全に知悉していない或るものを頼りにして行動しようとする決心を意味する。それは単に、或いは主として、所謂宗教に関連した問題ではない。実は吾々は友人関係、親子の関係、師弟の関係などあらゆる人間的関係に於いて−つまり始終、信仰によって生きているのである。
宇宙で知るスピリチュアル・ワンネス 〜 人間とは、霊魂とは、宗教とは、宇宙とは、神とは、一体何か −エド・ミッチェル
エドガー・ミッチェルはMITで航空宇宙工学を学んだインテリであり、宇宙飛行士時代には最も思索的で最もインテレクチャルな宇宙飛行士と言われていたという。彼は40歳の時にアポロ14号で月に行く。
彼はシカゴ在住の超能力者オロフ・ジョンソンと予め打ち合わせをして、月から地球へテレパシー実験をやってのけたことで有名だ。ESPカード(星形、波形、丸、四角、十字の五種類が各五枚ずつ)を持参し、打ち合わせた時間に毎日六分間ずつミッチェルが一枚ずつめくりながら念をこらして送信し、ジョンソンがこれを受信するという実験を六日間にわたっておこなった。出発前に地球でおこなったケープ・ケネディとシカゴ間での実験では50%が当たったという。(あてずっぽうなら20%なので統計的に極めて有意。)
結果、宇宙からでは出来不出来の差が大きかったらしいが、テレパシーの存在は証明するに足る成功をおさめたらしい。
月で「神の存在を知った」というジム・アーウィン同様、彼もまた月面上で自分が現実にESP能力を行使していることを発見した。アーウィンがそうであったように、彼も同行のクルー、シェパードとの間で、彼が何も言わないのに、彼が考えていることが直接わかったというのだ。
アーウィンの場合それは全く予期しないものであったのに比べて、ミッチェルはエスパー実験をしていたことからも分かるとおり以前から超能力に関心を寄せていた。それだけに、この月面上での自身の超能力体験は彼に決定的な衝撃と確信を与え、彼は帰還後の翌年NASAを辞めるとサンフランシスコでESP研究所を設立した。
前述したように彼は決してトンデモ科学の信奉者にみられるような奇妙奇天烈な人間ではなく、知的で落ち着いた、見るからに学者肌のインテリである。
実は海外では超能力研究は必ずしも眉唾ものとはとられず、軍機関などでも真剣に研究されているのである。そもそもにおいて、ロケットで宇宙飛行が可能であることを初めて理論的に立証し、宇宙ロケットの父と呼ばれているソ連のツィオルコフスキー自身も実はテレパシーの研究者であり、テレパシー事例を自分で収集検討し、これは疑いもなく自然に存在する現象であるからそれを超自然現象などと呼ぶ方が非科学的であると批判し、「やがて宇宙飛行の時代がくるころ、人間のテレパシー能力もなくてはならないものとして人類の全般的な進歩に役立つだろう」と予言しているのだ。
そんなわけで人類の宇宙進出と超能力研究とは不思議な因縁が存在すると言えるだろう。
では以下に、そのミッチェルへのインタビューを、先述の『宇宙からの帰還』より抜粋しよう。
彼の、独特でいて深い洞察に満ちた精神世界に対する理解は格別興味深い内容だったので、広範囲にわたって引き出させてもらう。
質問はインタビュアーである立花隆氏。
・ 人間精神の秘められた力とポテンシャル
スピリチュアル・ワンネスとは
スピリチュアル・ワンネスとは
私の設立した研究所は、人間が持っている精神能力を相対的に研究するための機関で、ESPもその研究の一環だが、ESPだけを研究しているわけではない。
私がこういう研究所をつくったのは、科学と技術はこれほど進歩したのに、それを活用する人間の叡智の方にはまるで進歩がないために、科学技術が人類の幸せのためというより、人類に災禍をもたらすような方向に利用されつつある現状を憂えたからだ。これは、人類の叡智の発達のために割かれているエネルギーが、科学技術の発達のために割かれているそれに比べてあまりに少なすぎることに原因がある。NASAをやめるときに、これからしばらくの間は、人間の精神能力の研究に身を捧げようと思ったわけだ。
>ESPも人間の叡智につながる重要な精神能力だと?
その通り。
ESPは潜在的には万人が持っている能力だ。ESPだけではなく、サイコ・キネシス(念力)、心霊医療、予言などといったいわゆる超能力も、人間の精神能力の一環だ。
超能力のプリミティブな形態のものは、誰でも日常生活で体験しているはずだ。何かが閃くように分かったとか、念じ続けていることが普通の確率以上で実現するとか、気の持ちようで病気が治ったとか、予感とか虫の知らせとか、こういうことは誰でも経験することだ。
超能力といわれるものは、こういう日常的な人間の精神能力が特別に発達したものといってよい。大部分の人は足し算引き算程度の算数しかできないが、高等数学をスラスラ解く大科学者も何人かはいる。バイオリンに弓をあてれば、誰でも音は出せるが、名演奏できる巨匠はほんの少ししかいない。それと同じように、そうした能力を通常の何十倍、何百倍と発達させた超能力者が何人かはいるわけだ。
いわゆる超能力というのは、結局、人間がその環境とコミュニケイトするときに、物質的コミュニケイションだけではなく、精神的コミュニケイションもするということ、環境に働きかけるときに、物質的に働きかけるだけではなく、精神的に働きかけることもできるということを意味している。
>誰でも潜在的に超能力を持っているとして、それを誰でも開発していくことができるのか?
基本的にはできる。しかし、あらゆる能力の開発と同じように努力と修練が必要だ。それに天分の問題もあるだろう。しかし、何より大切なのは、懐疑心を持たず確信してやることだ。できると信じなければできない。
例のユリ・ゲラーのスプーン曲げの実験がテレビを通じておこなわれたとき、テレビを見ていた子どもたちが同じことをやってのける例が続出して大騒ぎになるということが世界中で起きた。子どもたちは、自分にもできると素直に信じたからできたのだ。
(管理人注:本書の初版は1985年なので、ユリ・ゲラー本人のインチキ騒動は知らなかったものと思われる。)
>しかし、インチキも多い。
その通りだ。真面目な研究の最大の障害がそれだ。特に心霊医療などにはインチキが多い。超能力現象の報告は数千年以前からあるが、数千年前からホンモノとニセモノが入り交じっている。それが問題を複雑にしている。ただ、超能力現象を否定しようとする人々はインチキの例ばかりに目を向けるが、あらゆる科学的検査に耐えて、超能力現象と認定せざるを得ない現象が存在することもまた事実なのだ。
実は私自身はここ数年、超能力現象研究から離れている。超能力をテクニカルに求めることは誤りであることに気づいたからだ。
超能力はきわめてパワフルな能力だから、おもしろ半分にそれを扱うことは危険なのだ。それを熱心に探求するあまり、精神に異常をきたした人が昔から少なからずいる。
超能力を扱うには、まずそれにふさわしい精神の安定と感性の安定を得ることが必要だ。こころの中からあらゆる日常的世俗的雑念を払いのけ、さざ波一つない森の中の静かな沼の水面のように、心を静寂そのものに保ち、透明な安らぎを得なければならない。
精神を完全に浄化するのだ。精神を完全に浄化すれば、研ぎ澄まされた鋭敏な感受性を保ちながら、それが外界からいささかも乱されることがないという状態にはいることができる。仏教でいう、ニルヴァーナだ。そこまでいけば、人間が物質的存在ではなく精神的存在であることが自然に分かる。
人間は物質レベルでは個別的存在だが、精神レベルでは互いに結合されている。ESPの成立根拠はそこにある。さらに進めば。人間のみならず、世界の全てが精神的には一体であること(spiritual oneness)がわかるだろう。超能力現象は、このスピリチュアル・ワンネスの証明なのだ。スピリチュアル・ワンネスがあるから、スピリチュアルになりきった人間は、物理的手段によらず外界とコミュニケイトできる。
古代インドのウパニシャッドに、 “神は鉱物の中では眠り、植物の中では目覚め、動物の中では歩き、人間の中では思惟する。” とある。万物の中に神がいる。だから万物はスピリチュアルには一体なのだ。しかし、神の覚醒度は万物に於いて異なる。だから、万物の一体性はなかなか把握できない。眠れる神をも見ることができるだけスピリチュアルになることができた人間にしてはじめて、この一体性を把握できる。そして、充分にスピリチュアルに成り得た人間には、超能力が自ずと生まれる。
イエスのことばに “まず神の国を求めよ。そうすれば、すべてはそれにともなって与えられる。” とある。まず超能力を求めてはいけない。まず、神の国を求めるべきなのだ。超能力とは、より大きな精神世界の一部であると知るべきだ。
・ 既成宗教組織の限界と弊害
>あなたが神と言うときそれは何か。あなたの信じている神はキリスト教の神なのか。
いや、私はキリスト教の神を信じていない。キリスト教が教える人格神は存在しないと思っている。神というのは、この世界で、この宇宙で現に進行しつつある神的な(divine)プロセスを表現するために用いられていることばに過ぎない。
私は熱心なクリスチャンだった。私は南部バプティストのファンダメンタリスト(原理主義)だった。ファンダメンタリストの教義は、ご承知のように、科学が教えることより、聖書に書いてあることの方が全て正しいという立場だ。しかし、私は一方で科学者であり、技術者だった。だから、私の人生は四十年間にわたって、科学的真理と宗教的真理の対立を何とか解消できないかと悩み続けた人生だった。そのため、哲学や神学をずいぶん勉強したがダメだった。
結局、ある日、どちらの真理も、より高次のレベルの真理を、より低次のレベルで部分的にしかつかんでいないことから対立が生じているのだと考えれば、問題はすべて解消してしまうではないかということが分かって、悩みを脱することができた。
宗教の側には部分的真理という以上の問題がある。それは教団として組織化されることから生じた、真理の道の踏み外しだ。
すべての宗教は偉大なスピリチュアルな真理をつかんだ指導者の教えに始まる。しかし、信者はその教えの本質を充分に理解しない。
各宗教の教祖となったような人々は、イエスにしろブッダにしろ、モーゼにしろモハメッドにしても、あるいはゾロアスターや老子にしても、みな人間の自意識の束縛から脱して、この世界のスピリチュアル・ワンネスに触れた人々なのだ。だから、彼らは皆同時に超能力者でもあった。彼らは皆奇蹟を起こした。奇蹟というのは超能力現象の別の表現だ。
しかし、その教えを受けて追随した人々のほうは、自意識の束縛から逃れきれていないために、教えられた真理をそこまでの深みに於いて把握していない。だから指導者が世を去ると、信者集団はスピリチュアルな真理から人間的自意識の側に引き戻されてしまう。そして教団が組織され、教団全体としてますます最初の真理から離れていくことになる。
教団化された既成宗教はどれをとっても、いまや真のリアリティ、スピリチュアルなリアリティから離れてしまっている。私が言う宗教的真理とは、教団教義のことではない。
・ 宇宙で悟った、人間存在の真実の価値
>その気づきは宇宙体験からによるものか?
まさしくその通りだ。私は二つの真理、科学的真理と宗教的真理の相克をかかえたまま宇宙に行き、宇宙でほとんど一瞬のうちに、この長年悩み続けた問題の解決を得た。
それは宇宙から地球を見たときだ。正確に言えば、、月探索を終えて、月軌道を脱し、地球に向かって帰路について間もなくだった。それまでは休みなく働き続けており、落ち着いてものを考える暇がなかった。しかし、地球に向かう軌道に宇宙船を乗せてしまうと、これという作業もなくなり、時間的余裕ができた。月探検の任務を無事に果たし、予定通り宇宙船は地球に向かっているので精神的余裕もできた。落ち着いた気持ちで、窓から遙か彼方の地球を見た。
無数の星が暗黒の中で輝き、その中に我々の地球が浮かんでいた。地球は無限の宇宙の中では一つの斑点程度にしか見えなかった。しかしそれは美しすぎるほど美しい斑点だった。それを見ながら、いつも私の頭にあった、幾つかの疑問が浮かんできた。私という人間がここに存在しているのはなぜか。私の存在には意味があるのか。目的があるのか。人間は知的動物にすぎないのか。何かそれ以上のものなのか。宇宙は物質の偶然の集合に過ぎないのか。宇宙や人間は創造されたのか、それとも偶然の結果として生成されたのか。それとも、何らかのマスタープランに従ってすべては動いているのか。こういったような疑問だ。
いつも、そういった疑問が頭に浮かぶたびに、ああでもないこうでもないと考え続けるのだが、その時は違った。疑問と同時に、その答えが瞬間的に浮かんできた。問いと答えと二段階のプロセスがあったというより、すべてが一瞬のうちだったといった方がよいだろう。それは不思議な体験だった。宗教学でいう神秘体験とはこういうことかと思った。心理学でいうピーク体験だ。詩的に表現すれば、神の顔にこの手で触れたという感じだ。とにかく、瞬間的に真理を把握したという思いだった。
世界は有意味である、私も宇宙の偶然の産物ではあり得ない。すべての存在がそれぞれにその役割を担っている、ある神的プランがある。そのプランは生命の進化である。生命は目的を持って進化しつつある。
個別的生命は全体の部分である。個別的生命が部分を成している全体がある。すべては一体である。一体である全体は、完璧であり、秩序づけられており、調和しており、愛に満ちている。この全体の中で、人間は神と一体だ。自分は神と一体だ。自分は神の目論見に参与している。宇宙は創造的進化の過程にある。この一瞬一瞬が宇宙の新しい創造なのだ。進化は創造の継続である。神の思惟が、そのプロセスを動かしていく。人間の意識はその神の思惟の一部としてある。その意味に於いて、人間の一瞬一瞬の意識の動きが、宇宙を創造しつつあるといえる。
こういうことが一瞬にして分かり、私はたとえようもない幸福感に満たされた。それは至福の瞬間だった。神との一体感を味わっていた。
…こうした認識は一瞬にして生まれた。瞬間的だった。真理を瞬間的に獲得すると共に歓喜が打ち寄せてきた。その感動で自分の存在の基底が揺さぶられるような思いだった。
より正確に言えば、今ことばであれこれ説明しているように、論理的に真理を把握したわけではない。ことばでは表現できないが、とにかくわかった、 真理がわかったという喜びに包まれていた。いま自分は神と一体であるという、一体感が如実にあった。それからしばらくして、今度はたとえようもないほど位 絶望感に襲われた。感動が収まって、思いが現実の人間の姿に及んだとき、神とスピリチュアルには一体であるべき人間が、現実にはあまりにあさましい存在の あり方をしていることを思い起こさずにはいられなかったからだ。
現実の人間はエゴのかたまりであり、さまざまのあさましい欲望、憎しみ、恐怖などにとらわれて生きている。自分のスピリチュアルな本質などはすっかり忘れ て生きている。そして、総体としての人類は、まるで狂った豚の群れが暴走して崖の上から海に飛び込んでいくところであるかのように行動している。自分たち が集団自殺しつつあるということにすら気づかないほど愚かなのだ。
人間というものに絶望せずにはいられない。私の気分はどんどん落ち込んでいった。ところが、またしばらくすると、先ほどの神との一体感がよみがえってき て、感動的な喜びに包まれる。するとまたしばらくして絶望感に打ちひしがれる。こうして無上の喜びと、底知れぬ絶望感と、極端から極端へ心が揺れ動き続け た。それが三十時間にもわたって続いたのだ。その後は、地球への帰還の準備で忙しくなり、忙しさに取り紛れて、そういうことは考えなくなった。
しかし、地球に戻ってから、この体験を反芻し、哲学書、思想書、宗教書などを読みふけるようになった。もともと哲学、神学に興味をもって読んではいたが、 やはりそれまではキリスト教の立場からのものが中心だった。しかし今度は心をもっと広く開いて、あらゆる宗教、あらゆる思想に偏見なく接するようになっ た。
私が持ったあの神との一体感が特定宗教の神との一体感であって、その神だけが真実の神であり、他の宗教の神は虚妄であるとは思えなかった。
・ 宇宙のスピリチュアルな真理と
霊的存在としての人間
霊的存在としての人間
>その神とは詰まるところ何か?神的プロセスとは?
神とは宇宙霊魂、或いは、宇宙精神(cosmic spirit)であるといってよい。宇宙知性(cosmic intelligence)といってもよい。
それは一つの大いなる思惟である。その思惟に従って進行しているプロセスがこの世界である。人間の意識はその思惟の一つのスペクトラムに過ぎない。
宇宙の本質は、物質ではなく霊的知性なのだ。この本質が神だ。
>ではこの肉体をもった個別的人間存在とは何か?死ぬとどうなるのか?
人間とは、自意識を持ったエゴと、普遍的霊的存在の結合体だ。前者に意識がとらわれていると、人間はちょっと上等にできた動物に過ぎず、本質的には肉と骨で構成されている物質ということになろう。人間はあらゆる意味で有限であり、宇宙に対しては無意味な存在となろう。
しかし、エゴに閉じこめられていた自意識が開かれ、後者の存在を認識すれば、人間には無限のポテンシャルがあるということが分かる。人間は限界があると思っているから限界があるのであり、与えられた環境に従属せざるを得ないと思っているから従属しているのである。スピリチュアルな本質を認識すれば、無限のポテンシャルを現実化し、あらゆる環境与件を乗り越えていくことができる。
人が死ぬとき、前者は疑いもなく死ぬ。消滅する。人間的エゴは死ぬのだ。しかし、後者は残り、そのもともとの出所である普遍的スピリットと合体する。神と一体になるのだ。後者にとっては、肉体は一時的な住み処であったに過ぎない。人間の本質は後者であるから、人間は不滅なのだ。キリスト教が人が死んでから永遠の命に入るというのも、仏教で、死して涅槃に入るというのも、このことを意味しているのだろう。だから、私は死を全く恐れていない。
・ 既成宗教的ドグマの限界と、世界宗教の質的同一性
〜 原初的神秘体験、宇宙的精神の普遍性
〜 原初的神秘体験、宇宙的精神の普遍性
>宇宙体験をキリスト教の神で説明する者が多いがどうか?
ジム・アーウィン(エドと同様の神秘体験の後、キリスト教の神こそ真実の神として伝道者となった宇宙飛行士)の体験は私の体験と質的には非常に近いものだったと思う。
彼はその体験を伝統的キリスト教の枠組みの中で表現している。それが彼にとっては最上の表現方法だったのだろう。
しかし、キリスト教の枠組みは狭い。あまりにも狭い。
あらゆる既成宗教の枠組みは狭い。硬化している。既成宗教の枠組みの中で語ろうとすると、その宗教の伝統の重みにからめとられてしまう。伝統による人間の意識の束縛は大きすぎるほど大きい。
宗教はすべて、この宇宙のスピリチュアルな本質との一体感を持った人間が、それぞれにそれを表現することによって生まれたものだ。その原初的体験は本質的には同じものだと思う。しかしそれを表現する段階になると、その時代、地域、文化の限定を受けてしまう。しかし、あらゆる真の宗教体験が本質的には同じだということは、その体験の記述自体をよく読んでいくとわかる。
宗教だけに限定する必要はなく、哲学にしても同じだ。真にスピリチュアルな体験の上にうちたてられた哲学は、やはり質的に同じものなのだ。
>その質的同一性とは何か?
人間的エゴから離脱すると、この世界が全く違って見えてくるということだろう。エゴの目からは見えない知覚の向こうにあるスピリチュアルな世界が見えてくる。自分がこれまで真理だと思っていたことが、より大きな真理の一部でしかないことがわかってくる。この意識の変革、視点の転換がすべてのカギであることを、あらゆる宗教が語っている。
イエスが『悔い改めよ』『生まれ変われ』というとき、意味しているのはそれなのだ。『悔い改め』とは、『メタノイア』という。それは何か悪いことをしてそれを反省すれば天国に行けるという意味ではなく、世界を全くちがった視点から見れば神的世界がすでにここにあるということなのだ。ヒンズーのソマティというのも、仏教のニルヴァーナ(涅槃)も、あるいは神秘思想でいう照明体験もすべて同じことなのだ。
>それではあなたが宇宙体験から得たものも、宇宙体験であった必然はなかったと?
そう。どんな神秘体験にも引き金となるものがある。私の場合は、たまたまそれが宇宙から地球を見るという体験だったということだ。同じ体験を別の人は高い山に上って地上を見たときに得られるかも知れない。
私が山の高さではなく、何万マイルもの高みに登らなければ、その体験が得られなかったのは、たぶん、私の精神が被っていた殻が固すぎたからだろう。
>宇宙体験は関係ないと?
こういうことは言える。即ち、神秘的宗教体験に特徴的なのは、そこにいつも宇宙感覚(cosmic sense)があるということだ。だから、宇宙はその体験を持つためには最良の場所なのだ。歴史上偉大な精神的先覚者たちは、この地上にいてコスミック・センスを持つことができた。これは凡人にはなかなかできるものではない。しかし、宇宙では凡人でもコスミック・センスを持つことができる。何しろそこは宇宙だからだ。
宇宙空間に出れば、虚無は真の暗闇として、存在は光として即物的に認識できる。存在と無、生命と死、無限と有限、宇宙の秩序と調和といった抽象概念が抽象的にではなく即物的に理解できる。歴史上の賢者たちが精神的知的修練を経てやっと獲得できた感覚を、我々は宇宙空間に出るという行為を通して容易に獲得できたのだ。
・ 神的プランとは
>あなたの言う壮大な神的プラン、目的をもって進行しつつある進化はどこに向かっているのか?
進化の方向ははっきりしている。人間の意識がスピリチュアルに、より拡大する方向にだ。つまり、イエスとか、ブッダとか、モハメッドとか、早くからこの進化の方向を人類に指し示していた先導者なのだ。どんな進化でも、種全体が大きく変わる前から、進化の先取りをして示す個体があるのと同じことだ。
つまり、未来の人類は誰でも、イエスやブッダのように高度にスピリチュアルな人間になる。そして、この宇宙をより正しく、つまり、よりスピリチュアルに理解するようになる。
>あなたの進化論は、ティヤール・ド・シャルダンのそれに非常に近いように思われる。
その通りだ。ティヤールから私は大きく影響を受けている。
>しかしティヤールは進化のたどり着く究極点であるオメガ点にキリストを置いた。そこはあなたとちがう。
その通り。ティヤールはキリスト教の枠組みの中にいた。私も進化の方向は、神との同一性に無限に近づいていく方向にあると思っているが、私の考える神は、キリスト教の神ではない。
ちなみに、ユングからも影響を受けた。人間が集団的無意識を共有しているという彼の考えは正しいと思う。しかし、その集団的無意識の根拠は人間が原始時代から蓄積した、経験の集積に求められるべきではなく、エゴから離れた意識の面においては、すべての人間がそれぞれに神に連なっているのだということに、求められるべきだろうと思う。
>その神が、精神であり、知性であり、思惟であるというとき、そのイメージがもう一つつかみにくい。
それはそうだろうと思う。(…中略…)
より深い認識に進むと、プリミティブな認識では有効であったイメージが有効ではなくなる。神についても同じことだ。
プリミティブな認識にはそのイメージがあっただろうが、より高次の認識ではイメージが成り立たなくなる。面白いのは、物質的理論をあくまで追求していったアインシュタインが晩年になって、宇宙は機械仕掛けの物質というよりは、むしろ一種の思惟のごときものではないかと考えるに至ったことだ。物質に対するより深い認識を求めていく内に物質観がどんどん変貌し、ついにそこまで至ったわけだ。
>あなたの神がそうしたものであるとすると、宇宙のはじめはどうだったのか。人格神でないなら創造神でもなかったろう。人格神の存在を支持する人々の根拠は、「はじめ」の問題にある。はじめは誰かがこの宇宙を創造したに違いないと考える。
「はじめ」はわからないというほかない。誰にもわからないだろう。神秘体験によって神との一体感を得た人にすら、ほんとのところ、「はじめ」はわからないだろう。
或いは、「はじめ」というのは、そもそもなかったのかもしれない。「はじめ」があるはずだというのは、誤れる前提かもしれない。
この問題は時間の概念と関係がある。時間が、古典的なニュートン的世界像にあるような、絶対的なものであるなら、「はじめ」を考えなければならないかもしれないが、いまでは、時間というものがかつて考えられていた以上に、相対的で、フレキシブルであることがわかっている。
私はまだその答えを得ていないが、時間の解釈によって、「はじめ」の問題は解消するのではないかと思っている。
*
それはそうだろうと思う。(…中略…)
より深い認識に進むと、プリミティブな認識では有効であったイメージが有効ではなくなる。神についても同じことだ。
プリミティブな認識にはそのイメージがあっただろうが、より高次の認識ではイメージが成り立たなくなる。面白いのは、物質的理論をあくまで追求していったアインシュタインが晩年になって、宇宙は機械仕掛けの物質というよりは、むしろ一種の思惟のごときものではないかと考えるに至ったことだ。物質に対するより深い認識を求めていく内に物質観がどんどん変貌し、ついにそこまで至ったわけだ。
・ 『はじめ』の問題
>あなたの神がそうしたものであるとすると、宇宙のはじめはどうだったのか。人格神でないなら創造神でもなかったろう。人格神の存在を支持する人々の根拠は、「はじめ」の問題にある。はじめは誰かがこの宇宙を創造したに違いないと考える。
「はじめ」はわからないというほかない。誰にもわからないだろう。神秘体験によって神との一体感を得た人にすら、ほんとのところ、「はじめ」はわからないだろう。
或いは、「はじめ」というのは、そもそもなかったのかもしれない。「はじめ」があるはずだというのは、誤れる前提かもしれない。
この問題は時間の概念と関係がある。時間が、古典的なニュートン的世界像にあるような、絶対的なものであるなら、「はじめ」を考えなければならないかもしれないが、いまでは、時間というものがかつて考えられていた以上に、相対的で、フレキシブルであることがわかっている。
私はまだその答えを得ていないが、時間の解釈によって、「はじめ」の問題は解消するのではないかと思っている。
*
ある宇宙飛行士の回心 − チャーリー・デューク
チャーリー・デュークは、アポロ11号が人類として初めて月に着陸したときにはヒューストンで通信を担当していて、「こちらヒューストン」とやっていたのも彼である。
後に彼自身もアポロ16号の月着陸船パイロットとしてデカルト高原に着陸する。そこで三日間にわたる月探検をおこなった。
同様に月に行ったジム・アーウィンは、そこにまさに「神がいた」と言い、始終「神の導き」を感じていたという。
しかし彼の場合ここでの体験はある種「空しさ」の体験であった。その後彼は一層、無神論的で即物的なテクノロジー信仰を強め、商売の成功で富と名誉を獲得する。しかしそんな彼には、ある思いがけない転機が待っていた。
以下は立花隆著『宇宙からの帰還』に収録された彼の独白である。
私は、教会には通っていたが、神は信じていなかった。イエスが神の子であるなどとは思ってもいなかった。私の宗教観は、それは社会生活上、社交の一環としては必要だがそれ以上のものではないというものだった。
個人としての私には宗教は何の必要もない。宗教で人間は変わらない、と思っていた。だから私の宇宙体験に精神的な要素は全くなかった。そもそもそう言う期待は皆無だったし、現実にもなかった。
宇宙体験は純粋にテクニカルな体験だったといってよい。精神的インパクトがあったとは言えないこともないが、それはむしろ宗教的なものとは逆の向きに働い ていた。つまり宇宙体験はテクノロジーに対する信頼感を一層深めたということだ。人間はどんな問題に対しても、テクノロジーによって対応し、解決していく ことができるというテクノロジーに対する信仰だ。
私はクリスチャンというよりヒューマニストだった。ことばの真の意味でのヒューマニスト、つまり人間中心主義者だ。人間には神は必要ではない。人間が神になればよいということだ。
たしかに宇宙で、地球が宇宙船だという認識は持ったし、人類の未来について新しいヴィジョンを持ったということはある。しかし、あくまでそれはテクノロジ スト、ヒューマニストとしての立場からだった。地球という星の信じがたいほどの美しさ、月世界の完璧な静寂さ、全き不毛さといったものに感動もしたが、そ れはあくまで感覚的なもので、スピリチュアルなものではなかった。地球と人間社会への帰属感は強められたが、神への帰属感は生まれもしなかった。
75年12月に私はNASAをやめた。75年のアポロ・ソユーズ計画以後スペース・シャトルまで宇宙飛行計画は何もなかった。宇宙飛行をしたくて宇宙飛行 士になったのに、今度はいつ飛べるのかわからなかった。宇宙を飛べないう宇宙飛行士なんて 意味がない。その欲求不満からやめたのだ。私だけではない。こ の前後、多くの宇宙飛行士が同じ理由から引退した。今度は金儲けで成功しようと思った。百万長者になること、社会的な成功者になることをめざした。
人間が頼れるものは自分でしかない。人は誰でも自分の力で生きるのだ。よく働き、才覚と能力さえあれば、人はこの世で成功できるし、どんな問題が起きてもそれに対応していけるというのが私の信念だった。
私はテキサス州のサンアントニオでビ−ル販売業をはじめて大成功した。面白いように儲かった。元宇宙飛行士という肩書きが、ビジネス・コネクションを作る のに非常に役立ったことが、成功の一因だったろう。四十歳そこそこで、私は世の人が望むあらゆる名声と富を手にしていた。
しかし、その一方で、金が儲かれば儲かるほど、私の心は空虚になっていった。こころのなかに大きな穴が空いている感じだった。生きることが空しかった。宇 宙飛行士時代の充実した日々が懐かしかった。宇宙を飛ぶのだという大目標に向かって私は人生の六年間の全てを捧げきった。私の心身の能力のすべてをその目 標実現のために傾け尽くした。毎日毎日が新しいチャレンジで、面白くて仕方なかった。あれほど刺激的で人を興奮させる仕事も少ないだろう。しかし、いまや それだけ自分をのめり込ませてくれる大目標はなかった。
富や名声の獲得は人生の目的喪失を補ってくれないのだ。そしてこのころ同時に、私の家庭はある事情で崩壊しかかっていた。私たち夫婦は離婚を真剣に考えて いた。それが原因だったのか、妻が急に宗教的になっていった。そしてある日、妻に引きずられるようにして聖書研究会に連れて行かれた。そして、生まれて初 めて聖書を真面目に読まされた。それまで教会には行っていたが、真面目に聖書なんて読んだことはなかったのだ。
聖書を読むうちに、何か目の前にかかっていたヴェールが少しずつ取り除かれていくような気がした。二千年も前に書かれたことばが、これほど人の心を動かす とは思ってもみなかった。そして、人間が神になろうとするのは根本的な誤りだと思うに至った。人間は神に背き続けてきたということが分かった。神という存 在は受け入れることができた。しかし、イエスを神の子として受け入れることがなかなか難しかった。神を受け入れてもイエスを受け入れるのでなければクリス チャンではないわけだ。
イエスは自分が神の子であると言った。もしそれが嘘なら、彼は歴史上最大の嘘つきだといってよいだろう。では彼は本当のことをいったのか。しかし、神の子 があり、その子が人間として地上に降りてくるとは信じがたかった。イエスとは何者なのか。神の子なのか。天才的嘘つきなのか。私はこの問題で悩み抜いた。 どちらをとるべきなのか、人生最大の選択を迫られていると思った。もしイエスが本当に神の子であるなら、私は彼に従わなければならない。
そして1978年4月、運命的な日がきた。ハイウェイを車で走っているとき、突然、イエスが神の子であり、神であるということがわかったのだ。超自然的認 識が啓示として突然に訪れた。それまで自分からは遠い客観的な存在でしかなかったイエスが、突然に、身近な具体的なリアルな人間存在として認識できたの だ。それとともに、私の全身、全精神が安らぎと喜びに満たされた。
私は車を止めてすぐに感謝の祈りを捧げた。
同時に、それまでそれなりに認識し受け入れていたつもりでいた神の存在がそれまでとはちがって見えてきた。遠くにあった神が、すぐかたわらにある神になった。
その夜からすべてが変わった。世界観が根本から変わった。たとえばこの宇宙の創成にしても、私はビッグ・バン仮説を信じていたが、聖書のいうとおり、神がその手で想像したものにちがいないと思うようになった。
生命は物質進化の過程で偶然に生まれた物質のある特別の組み合わせであると思っていたし、その存在は無目的であると思っていたが、それ以来、生命は神の手 によって目的をもって創造されたものであり、その目的とはあらゆる生命が神に仕えることだと考えるようになった。
それまでの私の人生は、全て何かを「得る」ことを目的にしてきたが、それ以来、何かを人に「与える」ことが目的となった。それとともに私の人生は精神的に満たされ、家庭内の問題も氷解した。今私は、アーウィンのように、世界中に伝道旅行を続けている。
私の回心は、宇宙体験を直接のきっかけとするものではない。宇宙体験それ自体は何ももたらさなかった。しかし、宇宙体験以後の空虚さがそれをもたらしたのだから、宇宙体験は間接的なきっかけとなったとはいえるだろう。
私は月をこの足で歩いてきた人間として、月を人間が歩いたことより、イエスがこの地上を歩いたことの方が、人類にとってはるかに意味があることだということがよくわかったのだ。
−Charlie Duke
宇宙からの帰還
立花隆の『宇宙からの帰還』(中公文庫)を読みました。
この本は、アメリカのアポロ計画にたずさわった宇宙飛行士たちのバイオグラフと彼ら自身へのインタビュー記録からなっていますが、各々の宇宙体験を通した人間存在についての深い洞察が語られ、知識としても精神探求の書としても実に意義深い一冊であると思いました。
そこに語られるのは「宇宙とは、地球とは、神とは、人類とは、人間の精神とは−何か」という深遠なテーマに関する、文字通り宇宙的体験から醸成された、彼らなりの確固とした「答え」です。
ここで今後、こうした宇宙体験についての私の所感とまとめを著し、彼らのインタビュー内容の興味深い部分をブログ上に引用していきたいと思います。
興味を持たれましたら是非購読してください。
非常に読み甲斐のある一冊です。
・ 宇宙体験のもたらす精神的啓蒙
宇宙を体験するということ。それはいまだ極々限られた人にしか許されない。
興味深いことに、宇宙を実際に体験した人間の多くは、何らかのスピリチュアルな感得、人生観や価値観の大転換を経験している。
地球の信じられないほどの美しさ、それを取り巻く宇宙空間の身震いするほどの虚空と静寂…。
無限の死の世界にたった一つ、時に生き生きと、時に力強く、時に寂しげに、弱々しく輝く生命の星、地球。
それを彼らは自分の目で見て実感するのだ。厳然と己を取り巻く現実として。
そこにある感動は、写真などでは決して伝わらないという。
彼らは帰還後、ある者は強烈に信仰に目覚め、ある者は環境保護運動に目覚め、ある者は反戦家となり(彼らは一般に軍人であった)、ある者は宗教家となり、ある者は神秘家となり、ある者は超能力研究家となったりしている。一つ確かなのは、「宇宙に行って無神論者になったものはいない。」ということだ。
そして着目したいのは、彼ら宇宙飛行士がもとよりそのような神秘的思想をもっていたわけではなく、むしろ逆に、昼に夜に科学の最先端理論を一流の専門家によってみっちり享受される環境で猛勉強・猛特訓を重ね、テクノロジーを何より第一としてきた、いわば完全に理工畑の人間だったと言うことだ。
とは言ってもみんながみんな宇宙に行くと悟りを開いたように変わるかというとそうでもないようで、実際に強いインスピレーションを抱いた人々にはある程度共通した条件があるようだ。
まず第一に、地球外へ飛んだ人々であったこと。彼らに言わせると、地球周回軌道にのって落ちるだけの体験と、軌道を外れて実際に宇宙空間に飛び出すのとでは、車で地面を走るのと飛行機で空を飛ぶのとぐらい違うらしい。
第二に、彼らの多くは月に到達した人々であったこと。これには月面を体験することに合わせて、地球へ帰還する途上で、(技術的な行程をほとんどすませているので)地球や宇宙空間を眺めて思索する時間が得られたことが大きく影響していると思われる。彼らの内の一人は、「宇宙に行ったが何も感じないということは普通ではあり得ない。そういう人々は、始終何らかの作業を求められてそのことに必死であったためまったく精神的余裕がなかったのだろう。」という。
第三に、EVA(船外活動)を経験したこと。そこで彼らは、宇宙服の外には無限の虚空と沈黙が広がり、ただ地球だけが生き生きと輝いているのを目の当たりにするのだ。
・ 宇宙で開花する精神能力とは
彼らの多くが一様に言う、ある興味深い報告がある。
それは、宇宙に出ると頭の働きがものすごくよくなったように感じると言うことだ。ある宇宙船ではクルーの全員がそれを感じたという。
頭の中が明晰そのものといった感じになり、精神応力が拡充した感じになる。感じだけでなく、宇宙船の操作にしても、地上での訓練の何倍も効率的にやることができた。何を考えても、すぐにピンとくる。それはあたかもクレアー・ヴォアイヤンス(透視能力。ESP能力の一つ。)のようであったという。
アポロ11号のジム・アーウィンやアポロ14号のエド・ミッチェルは共に月面探索をしていて特にそれを実感し、同行していたクルーが何を考えているかまで知ることができたという。後に前者は宗教家(キリスト教宣教師)となり、後者はESP(超能力)研究に没頭し、自ら研究所を設立した。
エド曰く、たとえばモーセやイエスやブッダも、こうした宇宙的精神(および超能力)を会得した、偉大な指導者だったのだろうとしている。その上で、これまではごく限られた人間しか得られなかったこうした精神能力も、宇宙体験を通して凡人でも獲得できる時代が来るだろうとしている。
日本のあるアニメ作品では、人類が宇宙に植民している未来世界に於いて、宇宙で生まれ宇宙で育ったものの中から、ニュータイプという、直感力に極めて秀でて透視やテレパシー能力をもった人間が出現して来るという設定があったが、まさに同じようなことが、宇宙に進出した人類には起こるのではないだろうか。
思うに人間の精神活動とそれに関連する脳や体の活動も少なからず重力などの縛りを受けているはずである。それが無重力空間において解放されたなら、精神能力においても何らかの変化があって然るべきといえるだろう。
・ 宇宙立国の必要性
現在宇宙有人飛行は遅々として進まず、もっぱら地球周回軌道上でのスペースラブやスペースシャトルに重点が置かれている。しかし宇宙飛行や有人月面探査において得られる科学的知識はもちろんのこと、同時に多くの宇宙飛行士に感得された精神的革命を鑑みたとき、より多くの、より多様な人間を宇宙空間へ飛ばすことには計り知れない意義があるというべきである。
戦争や政治にばかり金をつぎ込んでいる場合ではない。人類は地球を離れることを学ぶべきだ。人間社会の愚かな争いや憎しみを離れ、地球がたった一つであり、すべてであることを改めて知るべきだ。
そう考えるとき、平和を(少なくとも建前上)モットーにしてきた日本がこれまで宇宙飛行という、人類にとって真に価値ある、人類平和への切り札を省みることがなかったのは、まったく恥ずべきことだ。戦争反対反対というばかりでは、ただの話の通じない狐憑きだ。価値の否定を主たる信条とする人間は結局何の益ももたらさない。
日本は宇宙立国を目指すべきだ。
宇宙進出には、人類にとって、地球の生命にとって、途方もない価値があるのだから。
*
戦争や政治にばかり金をつぎ込んでいる場合ではない。人類は地球を離れることを学ぶべきだ。人間社会の愚かな争いや憎しみを離れ、地球がたった一つであり、すべてであることを改めて知るべきだ。
そう考えるとき、平和を(少なくとも建前上)モットーにしてきた日本がこれまで宇宙飛行という、人類にとって真に価値ある、人類平和への切り札を省みることがなかったのは、まったく恥ずべきことだ。戦争反対反対というばかりでは、ただの話の通じない狐憑きだ。価値の否定を主たる信条とする人間は結局何の益ももたらさない。
日本は宇宙立国を目指すべきだ。
宇宙進出には、人類にとって、地球の生命にとって、途方もない価値があるのだから。
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祈りの勧め − クエーカーの真義 第二回
・ 祈りの勧め
精神的健康のためには祈りは必要であるが故に、吾々は全ての人に次のことを熱心に勧めなければならない。即ち、毎日人知れず神に侍る機会を得、我が身を低く懺悔し謙譲ならしめる、かの貴き、しかもしばしば穏やかにして容易に無視される己が霊の動きを優しく育めと。
勧告。日常生活の繁忙の最中にあっても霊魂の静けさを知るように努めよ。日々の生活の中に、祈りの充分な意味と、天に在す父と交る歓びとを知る静かなところを作れ。常に独り静かに聖書その他精神的に有益な書物を読め。
吾々は祈りを此の世の一つの力として信じている。従って吾々は明瞭な結果を期待して祈る必要がある。恐れることなく神に頼もうではないか。信じて、いささかも疑うことなく頼もうではないか。答えがなくとも、祈りは、恰も愛が報いられなくとも無駄ではないように、決して無駄になることはない。
・ クエーカー流 祈りの意義と作法
フレンド(クエーカー)が当初から絶えず念頭に置いてきたことは、宗教に於いては真実こそ最高の価値を有するものであるということであったために、吾々は形式を恐れてきた。祈りの形式もその例に漏れない。
神に対する信仰が自分のものでなかったならば、祈りが自分自身にとって本物であろう筈はない。
祈りに多くの言葉は必要ではない。祈りはむしろ内的態度の問題であり、やるべき仕事を捧げ、その仕事に対する我欲を捨てることである。祈りは吾々が仕事に当たって常に虚心坦懐であり、思想と意志を強靱に保つ助けとなるものである。
思想が頭を練るように、祈りは霊を鍛錬する。何かを祈ることは、恰も明瞭に思考することが吾々の頭脳の力を用いることを意味するように、そのことに就いて吾々の霊の力を働かせることを意味する。如何なる問題にもせよ、これを最もよく解き、又如何なる仕事にもせよ、これを最もよく実行するためには、思考と祈りと二つながら必要である。
祈りは「常に一切を神の御旨に照らすこと」と言われているが、祈りはかかるものなるが故に吾々を没我的生活に導くのである。祈りは吾々を普遍的霊に導くものである。普遍的霊に於いてこそ吾々は、全世界の神の御業を、神のしもべによって営まれる一つの大なる全体として眺め、自分自身の成功よりも他人の成功を念ずるに至るのである。
・ 沈黙の価値
形式的な言葉による祈りは、機械的に不真面目になる畏れがある。一方で沈黙の一刻は霊的なる世界の短さを吾々に思わせる。沈黙は外界生活の繁劇の最中にあっても吾々の想念を制止し、心を誘って深き祈りに赴かしめ、それによって吾々の食事は聖餐と化するのである。
沈黙は斯かる交りをなし、霊感と導きを受けるのに最も相応しい準備の一つである。
けれどももちろん沈黙そのものに何の魔力も入っていない。それはただ単なる空虚であり得、言葉や雑音の聞こえないだけのものであるかも知れない。それは居眠りの機会であったり、一つの死んだ形式であるかも知れない。
然し沈黙は力の籠もった休止、生気に満ちた静寂、創造的静粛、神と相互に相交る現実の一瞬であり得るのである。
「故に、神の光と恵みによって内に動かされるまで沈黙を守り、神的なる事柄に関しては自我的思量に頼りては行動せず。」
出典: 「クエーカーの真義」 シドニー・ルーカス
相対主義の専制 〜 人類の真の寛容、真の自由とは − 宗教の本質を考える 第三回
ここ数十年、如何に多くのドクトリンの風が、
イデオロギーの潮流、様々な思想や考え方が
あらわれたことでしょうか。
キリスト者の小さな船は、
しばしばこういった波に翻弄され、
ある極端から別の極端へと振り回されました。
マルクス主義から自由主義、放任主義にまでも。
共産主義から極端な個人主義、
無神論から曖昧な宗教的神秘主義、
排外主義から混合主義といった具合に…。
私たちは相対主義の専制的支配に向かっています。
それは何も確かなものを認めず、
その最高の目標は、自らのエゴ、自らの願望です。
イデオロギーの潮流、様々な思想や考え方が
あらわれたことでしょうか。
キリスト者の小さな船は、
しばしばこういった波に翻弄され、
ある極端から別の極端へと振り回されました。
マルクス主義から自由主義、放任主義にまでも。
共産主義から極端な個人主義、
無神論から曖昧な宗教的神秘主義、
排外主義から混合主義といった具合に…。
私たちは相対主義の専制的支配に向かっています。
それは何も確かなものを認めず、
その最高の目標は、自らのエゴ、自らの願望です。
- 教皇ベネディクト十六世
<所感>
“私たちの身の回りには相対主義があふれかえっている。
今や世界は「相対主義の独裁」の時代に入ろうとしている。”
私はこの話に大いに共感を覚えました。
今や世界は「相対主義の独裁」の時代に入ろうとしている。”
私はこの話に大いに共感を覚えました。
現在の社会には、「絶対の善も絶対の悪もない。だから何でもありでいいし、何を考えても、何を言っても、何をしてもいい。」とか、「何かが正しいというのは心が狭いことだ。お堅いこと言わずに周りのノリに合わせて、その時だけ、自分たちだけ楽しければそれでいい。」といった考えが蔓延っています。
その結果は愚かで身勝手な多数派の専制と暴走、権力や権威による無制限なドグマの乱立と、それによる社会の反目と混乱であり、あらゆる道徳文化や信念の嘲笑と否定、そして刹那的で虚無的な快楽主義や、邪悪と残酷の横行ではないでしょうか。
一見寛容さと自由を謳う現代の相対主義は、皮肉にも不寛容さと閉塞感を生み、強者の傲慢と横暴に拍車をかけています。
なぜならそれは、個人のエゴと欲望の最大限の肯定を目的とするからです。
人間にはやはりしっかりした信仰があり、宗教心がなければいけないように感じます。
今の人間は、宗教に「ハマる」と形容し、ここぞとばかりに重箱の隅々まで突いて批判し、嘲笑します。かくいう私も同じで、これまで「宗教は逃避である」としか考えていませんでした。
しかし自分や他人の人生に接し体験する中で、結局それは逆であると思うようになりました。
即ち、宗教なしでは、「何が本当に正しいか」、を知って生きることはできません。そんな生き方が「まっとう」な生き方でしょうか。
目に見えて自分の利益になること以外何も正しいと信じず、他人にも信じさせず、その代わり何の精神的価値も守らず、何の精神的義務も負わないとする、そっちの方がよっぽど「逃避」的ではないでしょうか。
何でも相対的にばかり考えていたら、本当にすべてバカらしい。生きてるのもバカらしい。
人間というのは何かに価値を見出して、価値を生きるからこそ、実り多き人生をおくれるのかもしれない。
何かの価値を守って、価値に守られて生きるからこそ、力強い人生をおくれるのかもしれない。
*
内なる光 クエーカーの信条
キリスト教の諸宗派の中でも異彩をはなち、それでいてキリスト教信仰の中核を実践し、常に少数派でありながら多大な影響力をもつ宗派がある。それがキリスト友会(フレンズ)、またの名をクエーカーと呼ぶ。
彼らは平和主義、非暴力、誠実、平等、質素を掲げ実践し、たとえ戦時中であろうと、難民、ならず者国家であろうと、敗戦国の人々に対してであろうと常に分け隔てなく接した。そして1947年にはアメリカの友会奉仕団がノーベル平和賞をとるまでにいたった。
彼らは日本にも実は多大な影響を与えている。
たとえば新渡戸稲造は真摯なクエーカ教徒であったし、戦後日本の皇太子の家庭教師として選ばれたヴァイニング婦人もそうだ。(彼女の人柄と信仰心のために皇室はキリスト教贔屓になったとか…?)
わたしは彼らの、形式主義を廃して個人の内側からの信仰を重んずる、純粋で真摯な教えに非常に共感を抱いた。そこで彼らに学び、キリスト信仰のあり方を見出していきたいと思う。
ブログにおいては、同じく信仰を模索する方々に少しでも参考になればと考え、その感ずるところのある文章などを、断片的にでも抜粋し、残していきたいと思う。
しばらくは、現在読み進めている『クエーカーの真義』(シドニー・ルーカス編、日本基督友会刊)を主な出典とする。なお、個人に読みやすいよう、集会や礼拝に関する記述はひとまず割愛する。
・ 創始者フォックスの語る理念 抜粋
世にクエーカーと呼ばれる者が、宗教の大本として打ち立てたものは、神はキリストを通してあらゆる人々に、それぞれの義務を知り、義務を果たすことのできる道を教えた、ということ、およびこの道に従って生活する者は神の子であり、これに背いて生活する者は、たとえいかなる名誉を帯び、いかなる宗教的宣誓をしようとも、神の子ではないということである。
今、主なる神は目に見えざる力によって、『人はことごとくキリストの聖なる光によって照らされる』とわたしに告げ給うた。しかして私はキリストの光が万人を通して輝くのを見た。
光を信ずる者は奈落の底よりいのちの光に入って光の子となった。しかし光を嫌い、信ぜざる者は、キリスト者の宣誓をなせるにもかかわらず、奈落の底に突き落とされた。
神は今自ら教え、全世界の人々が訓練されている慣例的宗教から人々を救わんとしている。
神はあなた方の一人一人に、それぞれの力量に応じて神霊の一部を授けている。あなた方は皆あなた方自身の中に神の一部を持っているのだ。
あなた方に罪と悪と欺きとを示し、嘘偽が罪であり、窃盗、泥酔、浮上が罪であることを教えるもの、それがあなた方の内なる神の一部なのだ。故に与えらあれた神の一部を重んじ、それを持っている間に時を大切にしなければならない。
あなた方の師はあなた方の中にあるのだ。外に求めてはならない。師は、あなた方が寝ていても起きていても、あらゆる罪悪、邪悪の機会をさけるよう教えるであろう。
私の使命は、人々が我が身そのものが神とキリストとの神殿となることを知るよう、人々に自由を説き、人間の手により成った、神の住まないこれら外形的な教会から人々を遠ざけ、あらゆる迷信的儀式を捨てしめ、年貢と高禄を喰み給料のため説教をするあらゆる雇いの牧師の手から人々を救うことである。
それ故、人々が自由なる師キリストを知るに至らんがため、私は人々が上述のあらゆる形骸を離れんことを勧め、人々をそれぞれの内なる霊と神の恩寵と、胸奥のイエスの光とに向かわしめた。それは人々に救いを与え、聖書を示さんがためであった。
<所感>
これは実に誠意と勇気に溢れた宣言のようである。
信仰とは、人の作ったに過ぎない団体の権威や飾りによるのではなく、個々人の心の内に秘めたもの、内なる光(神の一部)と聖なる教えとによって初めて真実となるのだ。
内なる光、神の一部が万人に生得的に備わっているということを前面に押し出すのは、あたかも仏教の一切衆生悉有仏性を思い起こさせる。
その上で彼は、真実の信仰は内なる光から
どれだけ教会の権威にあずかっていようと、どれだけキリスト教徒の格好をしていようと何の価値もないと言っている。
無論ここで教会の必要性がまったく否定されたわけではない。しかしそれらは日に月に新たな啓示を与えられる人間の霊に真理として訴える限りに於いてのみ権威となるのである。
つまり自らの内なる光を無批判的個人主義に委ねずに、過去および現在の社会全体の良心や古来の最高の思想・教訓と比較し照らし合わせることで、自己の解釈を抑制し、批判し、修正することこそが真の教会とよばれるものの役目なのである。それは単なる社会的権威でも建物でもなく、あらゆる時代のあらゆる真理の探究者を友とすることを意味する。
・ 内なる光とは
内なる光とは、決して単なる主義ではない。 それは人間の中にあって人間を聡明にし、道徳的に敏感にし、神に協力せしめる霊的能力である。それはわれわれのものでありながらわれわれ以上のものから来ている。それは人間のものであり、同時に神のものである。
われわれには二つの人間が生きている。 門の外なる(皮相的)人間、表面的で意識的な人間は様々な誘惑にかかりやすい、従って、それは内在する神から湧き出る力である(内部的)人間、頼みうる無限の盟友によって再強化される必要があるのである。 この光は単に啓蒙の源であるばかりではなく、また力の泉でもある。
友よ。主なる神の中に生きる命の他に何ものもあなた方を支配することのないよう、確信あるところで待たれよ。清浄な場所に静かに立て。何も思わず従え。さすれば力と強さと満足はみなぎってくるのだ。
なぜ、犬を食べてはいけないか 〜 韓国犬肉料理論争
これはmixiニュース「■ネット販売が引き金、韓国で「犬肉料理論争」再燃(読売新聞 - 07月13日 03:12) 」について書いた日記と、
それによせられたコメントから紡ぎ出した「なぜ犬を食べてはいけないか」についての自説のまとめです。
※当日記は犬食という行為とその実態を批判するものであり、韓国文化を批判する意図はありませんので悪しからず。
文化だから何食ってもいいと言うけど、わたしはやっぱり犬を食うのは間違ってると思う。この問題はただ食の問題というよりは、動物虐待の方に問題がある。
普通の家畜は牧場や農家で飼育されるが、犬牧場があるという話は聞いたことがない。 (と書いたが一応あるにはあるらしい。)
それではどうしているかというと、大抵が路地裏などの劣悪な環境のなかで小さい檻に入れられている。写真のように小さい檻に何匹も押し込められ、もはや生き物としてのみじんの敬意も感じられない有り様だ。
以前映像で見たが、そばで他の犬が次々と引きずり出されて「処刑」されていくのを見て、その悲鳴を聞きながら不安と恐怖に怯えている様子が可哀想でならなかった。
こうした犬の中には、以前人間に飼われていたと思われる首輪のついた犬も多くいた。さらわれてくる犬も少なくないという。
普通の家畜というのは名前もなく、専門の牧場などで飼われ、殺すときはのど元を掻ききって一瞬で死なせる。古くはユダヤ教の戒律でも定められたこの方法が一番苦痛がない「人道的」な方法とされている。
それを韓国の一部の人々は、恐怖と苦痛にもだえながら死んだ方が肉がしまってうまくなるという勝手な理由(迷信)で、犬を残酷な方法で殺すのが当たり前になっているという。たとえば生きたまま網の上で焼いたり、感電死させたり、バットでいたぶり殺したりする。
無論われわれは豚や牛などを「殺して」食べているし、何が人道的で何が違うかという話は偏狭さの表れととらえかねられないのは承知だ。
しかし犬は頭のいい動物だし、人間を信頼したり感情の機微を理解する能力も他の家畜とは違うレベルのものをもっている。それを上記のような極めて陰湿な環境で、残酷な方法で「虐殺」する。
それはやはり「人道」に大きく反していると言わなければならない。
・ なぜ犬を食べるべきではないか
食用犬反対運動が起こるのは、確かに「犬がかわいいから」という個人の主観的なものも大きいでしょう。 しかし牛や豚や鶏だって、もしこれらの犬のように意図的に残酷な手口で屠殺されていたとしたら間違いなく同様に問題となるでしょう。
それとは別に、犬を食べるべきではないのには、まっとうな根拠があると考えます。
犬はどうのようにして誕生したかご存知でしょうか。
犬の祖先はご存知のように狼です。
彼らの一部は先史時代の人類のおこぼれを頂戴しようと、人類の後を追っていました。それが犬の直接の祖先となったと考えられています。
やがて生活の余裕が出てきた人類に親しまれ、すすんで餌を与えられるようになると、狼たちは人類を信頼し、行動を共にし、助け合うことを学んで、犬として進化したのです。
つまり人間のために犬は誕生したといえるでしょう。
こうして人間と共にあらんとして誕生した動物を、とって食らうこと、ましてや意図的に苦痛を味あわせて殺すことは人間としてやってはいけないと考えます。
牛や豚を食べてもいいんだから犬だってかまわない筈だという意見がありますが、われわれが食べている牛や豚の多くも犬同様自然のままの姿ではなく人間に家畜とされるように進化したものです。
それらは長い年月人類のもとで種の安全を保護される代わりに、食料として供されるというプロセスを経て進化してきたものです。
無論彼らに選択の余地はなかったでしょうが、もし今人類が彼らをまったく食べなくなったら、彼らは生きるすべを失い死に絶えるか、あるいは突如放たれた自然と折り合いがつかなくなり、環境サイクルを著しく破壊することになるでしょう。
なのでこれらの動物をありがたく食べることは今やある程度自然にかなったものと言えるでしょう。(無論虐待はいけません!)
そうした理由から、やはり犬は他の家畜以上に保護を要請される性質の種であると個人的に考えています。
・ よせられた御異論・御反論
Aはわたしの返答
Aはわたしの返答
Q, Lさん
それを言うと、ブロイラーの飼育方法とフォアグラの作り方の方が問題あると思うんやけど、どう思う?
A,
確かにこうした食の暴力の例として、ブロイラーとかフォアグラの生育法のような問題が、別の問題としてあります。
しかし、それらと比べてこの問題がどうかとか、そんな相対的な話をしてるのではなくて、食糧難でもない時代に犬料理が、それもこんな残酷な方法でされていていいのか、という話です。
たとえばハエを殺すのと同じように人間を殺していいですか、という話です。
Q2, Lさん
虐待的な絞め方は本当に問題やと思います。
でも俺個人の意見ですが、賢い動物は殺してはいけないって意見が大嫌いです。
痛みを感じるのはどんな動物でも同じですからね。
牛と同じように牧場で育てて殺して食べるとしても問題があるとは思えません。
A2,
その意見もわかります。
確かにどの生命も痛みを感じるでしょうし、どの生物は優れていて他はバカだから殺害可とするのは人類のおごりです。
しかし現実には人間以外の生物もみな、他の生物の命を奪って生きている。ただし人間以外の動物はむやみやたらに食べず、むやみやたらに傷つけない。彼らは食べていい生き物と悪い生き物を明確に見分けています。
僕は何も自分を超越的な立場において語ろうとは思いません。
しかし、人間以外の動物にも食の基準があるように人間にもあるべきだと言いたいのです。
あなたがどの生き物も平等に痛みを感じるはずだと批判するのは、ともするとどの動物も平等に殺して食っていいはずだという論理に結びつきかねません。
あなたは生き物をその(人間から確認しうる)知性や感性から評価し、食べていけない生き物とするのは傲慢な誤謬である、とされるかもしれません が、それではあなたの食卓に人間の肉やら骨やらが出てきたら平然とはしていられないでしょう。そして給仕に「これはなにか!」と問うと、彼が「これはちゃ んと牧場で飼育された人間でございます。肉がしまるように電流を流し緊張させた上でじっくりと仕立てました。」と答えたとしたら、あなたは納得するだろう か。
とても極端な例でしたが、言いたいのは食の対象には基準があってしかるべきだと言うことです。
犬を食べてはいけないとするのはわたし個人の主張ではありますが、犬が人間との共生を支えとして生きているからです。
自然の動物が共生動物を決して襲うことはないように、人間もむやみに犬を殺すことはしてはならないと思います。
詳しくは上記、犬の起源の話にかえさせて頂きます。
・ その他のご意見
Aはわたしの返答
Aはわたしの返答
・ K さん
学校で韓国人の先生が、大人になるまで犬を食べてた事を知らなくて、それを知った時ショックだったって言ってた。少しづつ犬を食べる食文化も変わりつつあるのかなって思ったけど。 どうなんだろうね
A,
韓国の人に聞いても、知らない人が多いから、きっと日本の鯨問題のように少なくとも現在ではあまり一般日常的な風習ではないというのは思いますね。だからこの問題で韓国の人が全体的に悪いとかそういうのでは決してなく、あくまで一部社会の不品行
・ U さん
驚きました。 よその国の食文化に口をはさむのは如何なものか と思っておりましたが、このような劣悪な環境・残忍な殺され方で食されていたとは! 動物 愛護協会がもの申すのもうなずけます。 私は、犬食を否定はしません。 が、この殺し方は絶対に赦されません。 食文化を主張するときに、このことも省略 しないで報道してほしいですね。
A,
実際に一方的に非難したり禁止を強く呼びかけるというのは時に双方の文化的摩擦を広げるだけになってしまうし、相手の立場も最大限考えていくべきでしょう。
少なくとも問題の実態をお互いに、一人でも多くの人が知る努力を続けていくことが大切だと思います。
・ 参考HP
犬食文化『ウィキペディア(Wikipedia)』
→犬食文化って、意外に広範囲に存在しているんですね。
Outrageous Cruelty to dogs and cats http://www.dogbiz.com/dont-eat-dog-meat.htm
→「犬や猫への極悪非道な行い」と題された、韓国の犬食文化とその実態を糾弾する、愛犬家のページ。
International Aid for Korean Animals
http://www.koreananimals.org/index.htm
→犬食をはじめとした韓国での動物虐待の是正を求める団体のサイト。こんな本格的な活動を喚起するほどとは…。
Korean Dogs and Cats
http://www.animal-lib.org.au/lists/korea/korea.shtml
→動物解放団体 Animal Liberation も韓国の犬虐待に対して格別問題視しています。ページには殺された犬の写真もあるので、苦手な人は注意してください。
『テルーの唄』 〜 こころを何にたとえよう | Song of Theru by 手嶌葵/ 「ゲド戦記」挿入歌
夕闇迫る雲の上
いつも一羽で飛んでいる
鷹はきっと 悲しかろ
音も途絶えた風の中
空をつかんだその翼
休めることは できなくて
こころを何に たとえよう
鷹のような このこころ
こころを何に たとえよう
空を舞うような 悲しさを
雨のそぼ降る岩陰に
いつも小さく咲いている
花はきっと せつなかろ
色もかすんだ雨の中
薄桃色の花びらを
愛でてくれる 手もなくて
こころを何に たとえよう
花のような このこころ
こころを何に たとえよう
雨に打たれる せつなさを
人影絶えた野の道を
私と共に歩んでる
あなたもきっと さみしかろ
虫の囁く くさはらを
共に道行く人だけど
絶えて物言う こともなく
こころを何に たとえよう
一人道行く このこころ
こころを何に たとえよう
ひとりぼっちの さみしさを
****************************
映画「ゲド戦記」の挿入歌です。
この歌は見終わって後になるほど、しみじみと心に染みこんでくるようです。
ほんとうに、美しく優しい歌だと思います。
ちなみに映画の内容は、目新しさはなかったけど(?)、いびつな現代社会に生きる人々のこころをテーマにしていてしっかりした主張を感じました。
キャッチコピーは「見えぬものこそ。」
*
Song of Theru
by Aoi Teshima / from "Gedo Senki"
<facile English translation of the lyrics by masayuki>
Above the clouds in the dusk of the evening,
a hawk is flying, always alone.
The hawk must be sad.
In the silent wind,
the wings, that catch the sky,
are unable to rest.
What can I compare to the Heart.
The Heart like the hawk.
What can I compare to the Heart.
The sadness, as if flying in the sky.
Behind rocks in the rain,
there is a small flower,
The flower must be hurt.
In the hazy rain,
there is no one to love
its light pink petals.
What can I compare to the Heart.
The Heart like the flower.
What can I compare to the Heart.
The hurt of being beaten by the rain.
Along the deserted path through a field,
trudging with me,
You must be lonely.
Through a meadow where I hear insects chirping,
although we are trudging together,
we dont't speak a word.
What can I compare to the Heart.
The Heart trudging alone.
What can I compare to the Heart.
The lonliness of being alone.
*
by Aoi Teshima / from "Gedo Senki"
<facile English translation of the lyrics by masayuki>
Above the clouds in the dusk of the evening,
a hawk is flying, always alone.
The hawk must be sad.
In the silent wind,
the wings, that catch the sky,
are unable to rest.
What can I compare to the Heart.
The Heart like the hawk.
What can I compare to the Heart.
The sadness, as if flying in the sky.
Behind rocks in the rain,
there is a small flower,
The flower must be hurt.
In the hazy rain,
there is no one to love
its light pink petals.
What can I compare to the Heart.
The Heart like the flower.
What can I compare to the Heart.
The hurt of being beaten by the rain.
Along the deserted path through a field,
trudging with me,
You must be lonely.
Through a meadow where I hear insects chirping,
although we are trudging together,
we dont't speak a word.
What can I compare to the Heart.
The Heart trudging alone.
What can I compare to the Heart.
The lonliness of being alone.
*
東京国立科学博物館 初訪問
昨日上野の東京国立科学博物館に行って参りました!
実は今週末からマヤ・アステカ文明の展示が開催される予定で、その下見ついでだったのですが、行ってみると常設展示がまたいろいろと充実していて、見て、触って、知って、体感できる、予想外にアトラクティブなところで、とても楽しめました。
少なくとも半日はみっちりつぶせる感じです。地球と科学の知識を堪能するも良し、友達とわいわい遊ぶも良しと、東京にいる人や来る人は是非一度いってみてください。
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内部の展示には地球館とシアター360、それと今回は行けなかった日本館があります。
地球館には地球と科学技術の歴史、生物や環境などの様々な展示がされているんだけど、地球の悠久の歴史、過去と現在の実に多様な生命を見ていると、もうちっぽけな人間社会の憂いなぞどうでもよくなってきます。(…いかんいかん)
この世界は人間だけのものじゃない。それは紛れもない真実。
そのことを実感しました。

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シアター360では文字通り360度のスクリーンで、生命と地球内部の活動を描いたCG短編映画を見れます。
もうね、これを見るだけでも入場料600円のもとはとれると思います。
空から海に降下したり宇宙まで飛んでいったりと、360度映像が展開されると臨場感がもう半端ないです!
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ベストショット集
1,ネズミの赤ちゃん250匹
入ってすぐにあって、さっそくキメられちゃいました。
どっひゃーです。

ネズミのように生存力が弱い生き物ほど繁殖力が高い、という旨の展示だったんだけど、なんだかね〜。展示として「おもしろい」とは思うけど、同時に科学という大義名分のもと生命を弄んでるように少なからず感じました。この横にはさらに百匹くらいが「展示」されていました。
居合わせた女の子二人組の、「これって大量虐殺だよね。」というつっこみに、こころのなかで激しく同意。
2,死せる大型動物の間
地球館の三階フロアで、広間一面に大型動物の剥製がありました。ライオンやヒグマ、水牛など多くの巨大な動物たちがガラスの向こうからこちらを見つめているようで、なかなか鳥肌ものです。
しかもちょうど入ったときに施設の都合で照明が落ちていて、一瞬黄泉の国に連れて行かれそうな、この世の物ならぬ空気を感じました。

3,ルーシーおばさん
これまで発見された猿人アウストラロピテクスの化石人骨でも最初期のものとして有名で、ルーシーと名付けられた約350万年前の女性の化石人骨。その復元です。
なんでしょうこのポージング、狙っているとしか思えません。

しかも足下の説明書きには「ルーシー 猿(人)」という見事な構図。もう神様です。
しかしこの、おばさんにして原始の攻撃性を感じさせる出で立ち、どこかで見たと思ったらあの”騒音おばさん”だよね、これ!
進化の流れに逆らったらしい騒音おばさんとそのご先祖様に合掌。
・ 生命の花 & 生命の設計図
生命の進化・分化を図にすると上のような花の形が現れます。(まさにこの図の問題が、先日うけた法科大学院のセンター試験に出てきたので記憶に新しかったです。)
現存する生命の「しくみ」は一つで、すべての生命は同一の「言語」を用いた設計図で形作られている。
考えれば考えるほど不思議な事実だと思います。
生命の誕生の謎について、多くの科学者は宇宙からやってきたのだという仮説をたてています。そうでも考えないと、「偶然」にしてはできすぎているんですよね。
人によっては、生命は高度な科学力をもった異星人の贈り物なのだということまで言っています。しかしそうなると、その知的な異星人たちはどうして誕生したかという問題になりますね。
私はやはり生命の誕生には目に見えない、超越的な「意志」の働きが介在し、命の息吹を吹き込んだのだと感じます。そうでもないと、すべての生命に根源的に備わった「生きて」いこうとする意志の説明はできないでしょう。
・ 化石 生命の足跡
この博物館には恐竜から太古の動物たちまで、実に多様で多くの化石が展示されています。
この写真はある太古のほ乳類のものですが、こんな生き物が人類の知らない時代に、知らない場所で、実際に地上を歩きまわっていたと思うとわくわくします。
そうしていかに生命がその命の灯火を未来につながんと、実に躍動感あふれる、人間の想像もつかない驚きのドラマを繰り広げてきたかを見るとき、地球に生を受けたものとしていかに人類がちっぽけな存在か、そしてこの壮大で悠久の地球と生命の歴史に参加させてもらっていることがいかに素晴らしいことかを、実感させられるばかりです。
内なる光 クエーカーの真義
キリスト教の諸宗派の中でも異彩をはなち、それでいてキリスト教信仰の中核を実践し、常に少数派でありながら多大な影響力をもつ宗派がある。それがキリスト友会(フレンズ)、またの名をクエーカーと呼ぶ。
彼らは平和主義、非暴力、誠実、平等、質素を掲げ実践し、たとえ戦時中であろうと、難民、ならず者国家であろうと、敗戦国の人々に対してであろうと常に分け隔てなく接した。そして1947年にはアメリカの友会奉仕団がノーベル平和賞をとるまでにいたった。
彼らは日本にも実は多大な影響を与えている。
たとえば新渡戸稲造は真摯なクエーカ教徒であったし、戦後日本の皇太子の家庭教師として選ばれたヴァイニング婦人もそうだ。(彼女の人柄と信仰心のために皇室はキリスト教贔屓になったとか…?)
わたしは彼らの、形式主義を廃して個人の内側からの信仰を重んずる、純粋で真摯な教えに非常に共感を抱いた。そこで彼らに学び、キリスト信仰のあり方を見出していきたいと思う。
ブログにおいては、同じく信仰を模索する方々に少しでも参考になればと考え、その感ずるところのある文章などを、断片的にでも抜粋し、残していきたいと思う。
しばらくは、現在読み進めている『クエーカーの真義』(シドニー・ルーカス編、日本基督友会刊)を主な出典とする。なお、個人に読みやすいよう、集会や礼拝に関する記述はひとまず割愛する。
・ 創始者フォックスの語る理念 抜粋
世にクエーカーと呼ばれる者が、宗教の大本として打ち立てたものは、神はキリストを通してあらゆる人々に、それぞれの義務を知り、義務を果たすことのできる道を教えた、ということ、およびこの道に従って生活する者は神の子であり、これに背いて生活する者は、たとえいかなる名誉を帯び、いかなる宗教的宣誓をしようとも、神の子ではないということである。
今、主なる神は目に見えざる力によって、『人はことごとくキリストの聖なる光によって照らされる』とわたしに告げ給うた。しかして私はキリストの光が万人を通して輝くのを見た。
光を信ずる者は奈落の底よりいのちの光に入って光の子となった。しかし光を嫌い、信ぜざる者は、キリスト者の宣誓をなせるにもかかわらず、奈落の底に突き落とされた。
神は今自ら教え、全世界の人々が訓練されている慣例的宗教から人々を救わんとしている。
神はあなた方の一人一人に、それぞれの力量に応じて神霊の一部を授けている。あなた方は皆あなた方自身の中に神の一部を持っているのだ。
あなた方に罪と悪と欺きとを示し、嘘偽が罪であり、窃盗、泥酔、浮上が罪であることを教えるもの、それがあなた方の内なる神の一部なのだ。故に与えらあれた神の一部を重んじ、それを持っている間に時を大切にしなければならない。
あなた方の師はあなた方の中にあるのだ。外に求めてはならない。師は、あなた方が寝ていても起きていても、あらゆる罪悪、邪悪の機会をさけるよう教えるであろう。
私の使命は、人々が我が身そのものが神とキリストとの神殿となることを知るよう、人々に自由を説き、人間の手により成った、神の住まないこれら外形的な教会から人々を遠ざけ、あらゆる迷信的儀式を捨てしめ、年貢と高禄を喰み給料のため説教をするあらゆる雇いの牧師の手から人々を救うことである。
それ故、人々が自由なる師キリストを知るに至らんがため、私は人々が上述のあらゆる形骸を離れんことを勧め、人々をそれぞれの内なる霊と神の恩寵と、胸奥のイエスの光とに向かわしめた。それは人々に救いを与え、聖書を示さんがためであった。
<所感>
これは実に誠意と勇気に溢れた宣言のようである。
信仰とは、人の作ったに過ぎない団体の権威や飾りによるのではなく、個々人の心の内に秘めたもの、内なる光(神の一部)と聖なる教えとによって初めて真実となるのだ。
内なる光、神の一部が万人に生得的に備わっているということを前面に押し出すのは、あたかも仏教の一切衆生悉有仏性を思い起こさせる。
その上で彼は、信仰とは内なる光から求められて初めて真実のものとなると言う。つまりどれだけ教会の権威にあずかっていようと、どれだけキリスト教の知識をもって、キリスト教徒の格好をしていようと何の価値もないと言っている。
無論ここで教会の必要性がまったく否定されたわけではない。しかしそれらは日に月に新たな啓示を与えられる人間の霊に真理として訴える限りに於いてのみ権威となるのである。
つまり自らの内なる光を無批判的個人主義に委ねずに、過去および現在の社会全体の良心や古来の最高の思想・教訓と比較し照らし合わせることで、自己の解釈を抑制し、批判し、修正することこそが真の教会とよばれるものの役目なのである。それは単なる社会的権威でも建物でもなく、あらゆる時代のあらゆる真理の探究者を友とすることを意味する。
・ 内なる光とは
内なる光とは、決して単なる主義ではない。 それは人間の中にあって人間を聡明にし、道徳的に敏感にし、神に協力せしめる霊的能力である。それはわれわれのものでありながらわれわれ以上のものから来ている。それは人間のものであり、同時に神のものである。
われわれには二つの人間が生きている。 門の外なる(皮相的)人間、表面的で意識的な人間は様々な誘惑にかかりやすい、従って、それは内在する神から湧き出る力である(内部的)人間、頼みうる無限の盟友によって再強化される必要があるのである。 この光は単に啓蒙の源であるばかりではなく、また力の泉でもある。
友よ。主なる神の中に生きる命の他に何ものもあなた方を支配することのないよう、確信あるところで待たれよ。清浄な場所に静かに立て。何も思わず従え。さすれば力と強さと満足はみなぎってくるのだ。



































