三つの「かく」 心と体のアンチ・エイジング
心と体のアンチ・エイジングに大切な三つの「かく」があります。それは、
・汗を かく
・ものを かく
・恥を かく
「汗をかく」とは、仕事したり運動したりして体を使うこと。
「ものをかく」とは、勉強したり日記書いたりして頭を使い、積極的に考えたり覚えたりすること。
「恥をかく」とは、人と会ってコミュニケーションをとること。
これ、医者でもあるうちのおばあちゃんが講演なんかするときの決めぜりふだそうな。
みんな元気で
あ、別に永劫の別れのあいさつではありませんよ。笑
コンビニでサントリーのトリスウィスキーを買ってきて飲んだんだけど、あっさりしていて飲みやすい、いい酒ですね。それに安いし。
で、思い出したトリスの昔のCMが、またしみじみしていていいんですよね。
「いろんな命が生きているんだな〜
元気で。
とりあえず、元気で。
みんな元気で…。」
うん、そんだけです。
みなさんお元気で
元気で。
とりあえず、元気で。
みんな元気で…。」
うん、そんだけです。
みなさんお元気で
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HOPE ホワイトフェザーの予言 〜 人類の足跡 地球の未来
この短編アニメは北米インディアン、チェロキー族の賢者ウィリー・ホワイトフェザーの知恵に基づいて描かれています。
それは母なる地球に生を受けながら、やがて戦争、ジェノサイド、過当競争社会、貧困、環境破壊や地球大異変へと続く、誤った道にすすんだ人間の物語であり、そうしたなかにもいつの日か平和と愛の道を見つけてほしいという、未来への希望を託しています。
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ザ・ワイルド 〜 サバイバルの条件
『ザ・ワイルド』(原題The Edge)鑑賞。
この映画、昔一度見たんだけど、いい映画ってしばらくたって見るとまた新しい切り口で得るものがありますね。
以前見たときとは大分違った印象を受けました。
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ストーリー:
極寒のアラスカで二人の男が繰り広げる決死のサバイバルを描くサスペンス・アクション。チャールズは、莫大な富を有する初老の富豪。彼は、カメラ マンのロバートが自分の若妻と不倫していると疑惑を抱く。ある日、二人が乗った飛行機が事故で墜落、彼らはアラスカの原生林に投げ出される。お互いに疑惑 と殺意を抱きながらも、仕方なく協力して脱出を目指す二人。だが、彼らの前に凶暴な人食い熊が立ちはだかる。
天国から地獄へ。 ここは、想像を絶する“この世の果て” 愛する人への想いを胸に、生死を賭けた 男たちの壮絶なサバイバルが、いま幕を開ける。(allcinemaより)
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ガキのころ見たときは、単純にサバイバルスリラーが目当てだったんだけど、今回あらためて見て、そこに描かれる人間関係の機微、極限状況で浮き彫りにされる人間の品格というものに思い致されました。
アンソニー演じるチャールズは読書家で、あらゆる知識に通じている。
大自然に孤立して混乱と苛立ちを隠せない他の生存者に対して、チャールズは聡明さを失わず、感情的な罵りを受けても冷静かつ説得的に対処する。
映画の冒頭に、“黒豹のそばでパイプを吸うウサギ”というインディアンの伝統的なモチーフが登場するが、この意味するところは、「賢いウサギは豹を恐れない」。
知恵と知識で苛立ちや恐怖を克服するところに、人間の品格というものがあるのかもしれない。
チャールズが焦燥する他の生存者にかける言葉に興味深いものがある。
「人間が遭難して死ぬ一番の理由は、恥だ。人は恥で死ぬ。
彼らは命を救っただろう唯一の方法を見失ってしまう。考えることだ。」
「どうしてこうなってしまったのか。」「自分のバカ」「あいつのバカ」
恥にとりつかれると、考えなくてもいい悪い状況や感じなくてもいい恐怖が頭の中をぐるぐるし始める。
そんなことをいくら考えても無意味であり、そうこう自分の状況を恥じて思い煩っているうちにも、より良い状況をつくり助かるための思考や作業に費やせたであろう時間はどんどんと過ぎていく。
またこういうケースもある。昔オーストラリアの大草原で遭難した英国の兵士が餓死した。それを聞いた先住民アボリジニは、「これほど食料に囲まれ ていながらどうして死ねたのか。」と驚いたという。アボリジニの目には、草原に生い茂る草花は食料であり井戸であり、大いなる恵みだったのだ。
もし彼が植物の根や葉をむさぼってでも生き延びるという非文明的営みを恥じることなく思い切って実行していたら、生還した可能性は大いにあったのだ。
このように、実に「恥は人を殺す」のだといえる 。
こうしたことは日常生活にも言えるように思う。
われわれ、特に日本人は常日頃あらゆることを恥じるように条件づけられてしまう。恥を知ることは生活を洗練したり、他者に迷惑をかけないためという点ではある程度必要であろう。
しかしそれが不必要に自己や他者の生存様式、QOL(クオリティ・オブ・ライフ)を抑圧したり、将来の可能性を抹殺したり、精神を蝕んだりするのでは愚かというほかない。
「どうしてこんなことになってしまったのか。」とか「こんなダメな自分はありえない。」とか恥じて自分を追い詰めたり、「自分ではいいと思うけど恥ずかしい人だと思われるかもしれないからダメだ。」とか恥じて自分の可能性や情熱を不完全燃焼させるのは良くない。全然面白くない。
そんなことより「これからどうするか」「それを実現するためにはどうしていくか」を少しずつでも考えていくことこそが本当の命につながる。そうも言えるように思うのだ。
得体の知れない「恥」の押し付けから身を守り、自立自尊で考え判断した様々な可能性に挑戦できてこその人生ではないかと、いつもながら脱線気味に考えてみました。笑
What one man can do, another can do
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保津川ラフティング体験
Hmm. That was quite an adventure
今日、京都は保津川でラフティングをしてきました。
保津川といえば伝統的な郵船の保津川くだりで有名だけど、最近はラフティングも盛んなんですね。
ラフティングとは写真のようにボートで河くだりをするレジャー・スポーツです。
亀岡の渓流の自然に包まれて、ただボートに揺られるだけでなく、ところどころで川に入ったり、落とされたり(笑)、高い岩場から飛び込んだり、癒しありスリルありで思う存分楽しめました。
川の水はひんやりとして、最高に気持ちよかったです。
ちなみに保津川でのラフティングツアーは複数の会社が催してますが、今回参加したのは下のツアーです。小規模ながらいろいろ遊ばせてくれていいツアーでした。
アウトドアクラブ Nuts
http://
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マトリックスは仏教映画だ! / Matrix is a Buddhist movie!
マトリックスという映画を知らない人はあまりいないだろう。
もし知らなかったら観て損はしない映画なので、ご覧になったことを前提に、あえてここで内容を説明することは割愛する。
この映画、考えてみるほどすごい作品だなって思う。
巧妙に絡み合った宗教的モチーフに彩られた精神世界やインターネット・コンピューターで構築される電脳仮想現実という設定は、(そうしたテーマの部分部分は日本のアニメーション作品などで先駆的に開拓されていたとはいえ)物語革命といってもいい一大センセーションだったんだなあと、今に思い返してみると実感する。
マトリックスには、たとえば「救世主」、「トリニティ」(=三位一体)、ネオの自己犠牲の末に現れる光の十字架といったキリスト教的モチーフであったり、人類最後の都市ザイオンはZION、すなわち旧約聖書の約束の地シオンを意味していたりといった宗教的モチーフが巧妙に織り込まれている。
そして物語の中核に顕著なのは仏教の悟りの思想ではないかと思う。その意味でマトリックスは仏教映画とも言えるのかもしれない。
主演のキアヌ・リーブスがかつて映画「リトル・ブッダ」で釈迦の役を演じたり、自身も仏教徒であることは偶然ではないように感じる。
主人公ネオの成長は、まさに「悟り」の道。
彼は日頃、「この社会、この世界はどこかおかしい」という疑問をもっていた。そしてある日、モーフィアス(これはギリシャ神話の眠りと夢の神の名)に出会い、「現実という名の夢」から目覚めさせられる。
「何を知っているのか説明できないが、感じはあるだろう。
世の中、何かが間違っていると生まれてこの方ずっと感じてきた。
それが何だかわからないが目の前に存在する。
心の中の棘のように、君を狂わせる。
この気持ちが君を私のもとに運んだのだ。
私の言っていることがわかるかね?」
彼は、自分の見るもの聞くもの感じるものすべてが、実は現実ではなく、単なる脳内の電気信号、まやかしのインプットにすぎないことを知る。生まれてこの方言い聞かされてきた世界が、実は絶対的なものではなく、しかも架空のものに過ぎなかったと知るのだ。
こうしたことは仏教では2000年以上前から問われてきたことである。
まさに無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法。般若心経の教えだ。
「目に見える現実はかりそめの世界」であるという発想はおよそ世界の宗教全般に共有されるものでもある。
これは決して単なるフィクションであるとは言えないテーマではないだろうか。
なぜなら、我々が今正しいと感じている世界もまた作り物であることを否めないからだ。少なくともそう感じている人が少なくなかったからこそ、マトリックスの物語がある種の共鳴をもって迎えられたのだろう。
社会に溢れている、言葉、思想、文化、歴史、地位、システム、アイドル、ファッション、通貨・単位、流行、常識、人生モデル等の既成概念や価値観のどれをとっても、確固とした実態があるわけでもなく、ただ洗脳され、押しつけられるままに我々はそのなかで生きている。その可能性を、誰が否定できよう。
この世界、この社会、この生き方自体には実際何の必然性もない。世の中は実は驚くほどバカげた決めつけや空虚な思いこみ、巧妙な嘘で動いている。
それは今この場所、この我々においても言えることではないだろうか。
しかしただ真相を知っただけでは、やはりそれら「つくられた現実」に囚われた状態であることに変わりはない。だからネオ以外の者は、確かにことの真相を把握し、多少曲芸的な技術は身につけられるものの、マトリックス(=世界・社会システム)の制約に縛られ、番人であるエージェントには太刀打ちできず、生身の人間と同じ条件で死んでしまう。
しかしネオはその壁を越える。彼の場合それはマトリックス内での死、つまり心の死を体験することであり、それによって彼はマトリックスの深層に隠された理屈を超えた真理に目覚め、その真実の姿を、そう、まさに悟るのだ。
それはまさに光明であり、「悟り」に他ならない。
悟りをひらいたネオは、「つくられた現実」の呪縛から解き放たれ、現実を見抜き、操作し、作り出す力を会得する。
この部分も、単なるフィクションに終わらないテーマを感じさせる。
そこに描かれるのは人間の意識革命、精神の解放。
そしてより高次の精神レベルとそれにより生み出されるパワーの可能性だ。
こういうとカルトチックな響きもするが、高度な宗教や哲学の目指すものは全てこのテーマに行き着くのではないかと思う。
あるものはそれを「悟り」といい、あるものは「神性」といい、「イデア」や「超人」ともいう。
しかし「悟り」を体得し始めても、それだけでは創造的な指向性をもたない。それは、三位一体を意味するトリニティの「愛」によって初めて方向性を見出し完全なものになっていく。
三位一体という概念は転じてfaith、すなわち信仰とか信頼とか、理屈抜きに信じる力を意味するのだろうと思われる。現にトリニティはネオを何よりも信頼し、信じ切っていた。
ここからネオの原動力となった「三位一体」が見いだせる。
それは、「悟り enlightenment」「信 faith」「愛 love」だ。
どうだろう。こう見てみると一層面白くなってくるのではないだろうか!?
興味を持たれた方は、以下のサイトも参照してみてほしい。
ここではマトリックスを密教的精神世界で研究されていて面白い。
▼まんだらや 密教研究所 http://mandalaya.com/
○ 映画マトリックスと胎蔵界 http://mandalaya.com/matrix.html
○ ネオとして目覚める http://mandalaya.com/mat_pro.html
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ブラザー・サン シスター・ムーン / Brother Sun, Sister Moon
映画「ブラザー・サン シスター・ムーン」を鑑賞しました。
ほんっとうにいい映画でした。
中世ヨーロッパに生き、『イエスの再来』とまで称されたアッシジの聖フランチェスコの半生を描いた作品です。
史実に忠実でありながら、Donovanによる牧歌的な唱歌が挿入されるなど、娯楽作品としても見せてくれます。
何不自由ない裕福な商人の家に生まれたフランチェスコは、幼なじみの友人たちと意気揚々とペルージャの戦いに参戦しますが、捕虜となり、重病を患って帰郷、生死の境をさまよいます。
奇跡的に回復した彼は自分の内面に起きたおおきな変化に気づきます。それは真実の信仰、“本当の自由”への目覚めでした。
以来彼は自分の持ち物をすべて投げだし、皆の前で自分の着ている服までも脱ぎ捨てて文字通り無一文となり、貧しい人や病んだ人と共に心優しく暮らす、清貧の修道生活を始めます。
自然をこよなく愛し、与えられるよりも与え、富も権力も欲せず、地上の宝ではなく天国の宝を積む。それはまさに、イエスの教えの完全な実践でした。
あの江原さんもこの映画を見てスピリチュアリズムに目覚めたと言われるのも納得です。
“本当の自由とは何か。
本当の豊かさとは何か。”
本当の豊かさとは何か。”
現代社会が見失っているこの問いに、フランチェスコの生き方はヒントを与えてくれるようです。
主題歌 Brother Sun, Sister Moon
この歌はフランチェスコの「太陽の歌」がもとになっています。
そこで彼は太陽・月・風・水・火・空気・大地を「兄弟姉妹」と呼び
、主への賛美に参加させ、死までも「姉妹なる死」として迎えます。
挿入歌 The Lovely Day
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『聖フランチェスコの祈り』
私をあなたの平和の道具としてください
憎しみのあるところには愛を
諍いのあるところには許しを
分裂のあるところには一致を
疑いのあるところに信仰を
誤っているところに真理を
絶望のあるところに希望を
闇に光を
悲しみのあるところに喜びを
もたらす者としてください
慰められるよりは慰めることを
理解されるよりは理解することを
愛されるよりは愛することを
私が求めますように
私たちは与えるから受け
許すから許され
自分を捨てて死に
永遠の命を頂くのですから
大量絶滅時代と人類オーバーポピュレーション
昨日のニュースで見たんだけど、20世紀、一日の生物の絶滅速度は恐竜絶滅時代よりも速いそうです。
恐竜時代は千年に一種。今は4年に一種。
75年の経済成長期には4年に1000種絶滅しました。
最大の原因は人間の活動にあり、人類が6回目の大量絶滅時代に手を貸していると言われています。
で、僕が考えるに、大きな原因は人類の人口肥大にあると思います。これ、何でみんなもっと話し合わないのか不思議でなりません。
それこそ地球温暖化よりもよっぽどはっきりと証明できる事実のはずなんですけどね。
「人間減らせ」なんてポリティカリー・インコレクト(政治的NG)だ、けしからん!とでも言うのでしょうか…。
でも、世界人口の増加ぶりはほんとに異常事態です。
1800年には人類は10億人しかいなかったんですね。
それが1900年に入ると20億人になり、20世紀中に60億人を突破。言葉は悪いけど、ここ200年の人類の転移・増大ぶりは活性化した癌細胞なみと言ってもいいでしょう。
日本を見ると、有史以来日本で人口が1000万人強を超えたことはなかったんですね。それが江戸時代、戦争がなくなって社会が安定し、日本人が全体的に引きこもりがちに(
それが開国するや否や人口爆発起こしちゃって、一世紀も経ないうちに、第二次大戦のころにはもう「一億総玉砕」なんてこと言えるくらい増えてた。
(参照http://
先進国で少子化が問題だって言ってるけど、むしろ少子化してくれないと困るわけですね。
少子化という現象が先進国に顕著な理由の一つには、それだけ社会が円熟して、人口過多というゆがみを修正しようとする集団的無意識が形成されてきた証拠だと思います。
それこそ本能のレベルで、これ以上の繁殖を避けようという意志が働いてるんじゃないかな。若い男性の精子が年々薄まっているという現象も、近代的な生活習慣の弊害という以外に、人間の中の自然が必死で人口バランスをとろうとしている現れではないかとも感じます。
現在人類は66億人で、いまだに増加傾向にあります。
でもそれを受け入れる社会はというと、教育福祉の発達、IT技術やロボット技術の進歩で、日に日により少ない労働人口で足りるシステムとなっています。
そのくせ人口はどんどん増加している。これってほんとに温暖化論議以前の大問題のはずなんだけど、どうしてもっとみんな真剣に取り扱わないのかな。
このまま地球人口異常を野放しにしていたら、「人口の無駄」が拡大するばかり。余剰人口はどうなるかというと、人間、仕事と食うものがなかったらろくなことしないのは歴史に明らかなわけです。
将来的に世界が水不足に陥るのは避けられないそうだけど、食糧問題だってどんなはずみで起きるかもわからない。
人口が増えれば消費も増える。この極単純な事実が地球という限られた資源にどれほど負担になるか、小学生でも理解できるでしょう。
とにかく地球人口が減れば、人間の引き起こす諸々の環境問題も確実に減るわけで、これから優先的に話し合われるべき問題だと感じますね。
興味関心のある方は是非、下の愉快なビデオでお勉強していってください
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イタリア紀行第三 〜 フィレンツェ、ピサ
23日フィレンツェめぐり。
日帰りでピサを訪れる。
ピサは田舎で、見所の斜塔、教会、洗礼所がすべて壁の内側に収まっていて、きれいにまとまった印象。
フィレンツェではバッキオ橋やドゥオモのドームに登ったりする。
イタリアの人々は至って友好的で気さく。私はこの国に惚れたのかもしれない。
花の都 フィレンツェ
サンタ・マリア・デッレ・フィオーレ教会




荘厳なファサード


なんだかすごいことになってるドーム内部
あんまり見てると目が回る!?

ドーム上から

天国の扉
市内散策

街の中心にある教会の鐘楼が、一日の生活のリズムを支えたであろう、
中世の生活が忍ばれます

ベッキオ橋 中は宝石店でいっぱいです




フィレンツェを一望できる小高い丘に位置するミケランジェロ広場

ピサ

荘厳で美しい教会内部

イタリア紀行 第三回 〜 ボローニャの街角 in 2004年8月22日
22日
ボローニャとフィレンツェへ。
ボローニャは大学で有名であり、同時に世界一長いアーケード街を持つ。
とても特徴的なその街並みは素晴らしいものだった。
フィレンツェは天国の扉やドゥオモ教会、ウフィツィ美術館などの芸術や職人技術の集大成に代表されるイタリアの中心的な街であり、その評判の是非は街を歩けばすぐに納得できる。まさに”花のフィレンツェ”だ!
ボローニャの街角
中世の空気に包まれた、がっしりとした落ち着きある面持ちの街。
世界最古の総合大学を擁する街でもあり、知的な空気を漂わせています。





美しいアーケードが張り巡らされる街の中心部。


↓ S.Francesco教会 ↑


中世の空気に包まれた、がっしりとした落ち着きある面持ちの街。
世界最古の総合大学を擁する街でもあり、知的な空気を漂わせています。





美しいアーケードが張り巡らされる街の中心部。


↓ S.Francesco教会 ↑


ボローニャの街並みは素朴でいて知的、質素でいて美しかったです。
こんなところに住んだら、人生違うだろうな〜☆と思いました。
フィレンツェは次の日もまわったので、次回まとめて紹介します。
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こんなところに住んだら、人生違うだろうな〜☆と思いました。
フィレンツェは次の日もまわったので、次回まとめて紹介します。
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イタリア紀行 第二回 〜 ベローナ・ミラノ in 2004年8月21日
2004年8月21日今日は朝からバスで移動し、ベローナ、そしてミラノを訪れた。
ベローナはあまり日本人が観光でくることはないという。
街並みはイタリアの他の場所と同じように、整然とした石畳に、落ち着いた色合いの建物が軒を連ねて美しい。
ロミオとジュリエットゆかりの地であり、ジュリエットのモデルとなった人の屋敷も訪れた。
上の写真奥にあるジュリエットの像の胸を触ると恋が実るというジンクスがあり、みなさん触って記念写真を撮っておられました。壁一面に張られたポストイットもすべて恋愛成就のお願い事です。なんだか発想が日本の神社みたいですね。笑
また、比較的大規模な円形闘技場もあり、近々街全体が世界遺産となる。
ごらんの通り、円形闘技場は今も現役でパブリックホールとして利用されています。
下の写真は闘技場の外周です。闘技場で催される演劇の舞台装置でしょうか。なにやら中世の騎士物語のようですが、それにしてもなかなか本格的な迫力。
下の写真は闘技場の外周です。闘技場で催される演劇の舞台装置でしょうか。なにやら中世の騎士物語のようですが、それにしてもなかなか本格的な迫力。
ミラノはイタリアの第二の都市で経済的には最大の近代的な都市だが、歴史的な建造物は保存されながらも、新しい店やフランチャイズが入っていて、見事に融合している。マクドナルドも決して派手な色は使われず、調和の努力が見られる。
ミラノの広場の写真でも分かるように、イタリアの空はほんとに広々としていて陽気です。
これは北半球という地理的な要素以外に、町中でも道路が広々としていたり公共の広場が散りばめられていたりという、ヨーロッパ的な整然とした都市計画によるものが大きいように思います。
雑然とした街並みが当たり前の日本に住んでいる身として、ほんとにうらやましいです。

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イタリア紀行 〜 水の都ベネチア in 2004年8月20日
2004年8月18日から約一週間行ったイタリア旅行の記録を写真と共に紹介します。
斜めイタリック体になっているのが、日記からの直接の抜粋になります。
'04年8月18日
明日私はイタリアへ発つ。
一人で行くこともあり、心中騒がしい。
古今東西、人は心が塞がった時には旅に出たものだ。
せっかくなのでトラブルも楽しむ気持ちで過ごしたい。
20日
ベネチアのマルコ・ポーロ空港に着くと、すぐにゴンドラに乗る。
斜めイタリック体になっているのが、日記からの直接の抜粋になります。
'04年8月18日
明日私はイタリアへ発つ。
一人で行くこともあり、心中騒がしい。
古今東西、人は心が塞がった時には旅に出たものだ。
せっかくなのでトラブルも楽しむ気持ちで過ごしたい。
20日
ベネチアのマルコ・ポーロ空港に着くと、すぐにゴンドラに乗る。
到着後、ドゥカーレ美術館で世界最大のキャンバス絵と世界最大の柱の無いホールを見る。
ここは過去のベネチア王国の宮殿であったこともあり、内部に裁判所や議事堂などが連なるが、それらがそのまま美術の宝庫になっているところが興味深い。
そこにあるサン・マルコ教会は、内側が金箔で埋め尽くされていた。
全て完成するまでに400年かかったという。
ここで見たものは全て、現在どれほど金をかけても、再現できたものではない。
ちなみに、ベネチア全体がそうであるように、広場はごらんの通り、たびたび浸水に襲われます。この都を安心して楽しみたい方はなるべくお早めに。(^-^;A

ベネチアン・グラスを買いに行った先はガイドに紹介された一流店。細い裏道にある目立たない階段からはいると、店内は美しいベネチアン・グラスで埋め尽くさ れ、まるで美術館にでも来たかのようだった。イタリア伝統の店らしく一人の客に一人の店員が最後まで付き合う。要望を柔軟に対応する物腰といい、自然なタ イミングで飲み物をサービスしたりと、気の利きようは正に一流だった。
ヨー ロッパのサービスは基本的に対等な立場で行われます。日本人はとかくサービスを金銭の対価に過ぎない当然のものと受け止めがちのようで、海外に出てもこの「金さえ出せば文句ないだろう」という価値観が抜けず、コミュニケーションから逃避したり終始無言で通そうとしたりと、顰蹙をかうことも少なくないようです。
サービスとはサーバント(従僕)から派生しているのですが、欧米では「万人は神の僕である」、転じて「万人は神のもと平等である」という文脈で捉 えられ、サービスとは神の奴隷として自分に与えられた役割、仕事を全うすることなのであり、サー ビスをうけた方はその善意と労力に対して当然の如くしっかり感謝を表明しなければなりません。
ヨーロッパの人みんながそこまで高尚な哲学を持っているかは別として、このことをわきまえておけば海外旅行をより快適にスマートに過ごせるでしょう。
ではここでしばらくベネチアの町を散策してみましょう。





優雅に町を行き交うゴンドラはベネチアの風物詩。
ではゴンドラに乗って河を遊覧してみましょう。



まさに運河が道路代わり。
狭い通路から大通りまで、
住宅の合間を巡る、路地ならぬ路川です。

お店やホテル、レストランも船用エントランスをもっています。


この橋は「嘆きの橋」或いは「ため息橋」と呼ばれて有名で、
先ほど紹介したドゥカーレ宮殿と牢獄を結ぶ橋です。
つまり、ここを通るのは、もう外に出ることを許されない哀れな罪人。
ここからの景色が、あるいは彼らの最後の記憶となったのでしょう。
そりゃため息の一つもついたでしょうねえ…。
ちなみにこの橋をモデルとしたものが、以前行ったオックスフォード大学のハートフォードカレッジの連絡橋としてかかっていました。




住宅街を抜け、海へと続く大運河へ。



ベネチアのゴンドラ紀行にカンツォーネは欠かせません。
アコーディオン演奏と共に、見事な歌声を披露なさってました。

川は続くよどこまでも ♪
余談ですが、ゴンドラで私の母校上智大学教授さんが乗り合わせていてびびりました。いやあ、世界は狭いです。
こうして私のイタリア旅行が始まったわけです。
この日の日記の、紹介するのも気恥ずかしい青臭い文章を、一応のせておきます。
何も言わないでください。全てはイタリアの陽気な空気のいたずらです。笑
久々の外国の空気は僕に新たな活力を与えてくれる。
僕を導いてくれた人々に感謝したい。
より力強く生きていきたい。
もっともっと、知恵と力と勇気を養っていきたい。
「人は起こること自体よりも、それらをどう感謝するかで喜怒哀楽する。」
ならこう思おう。人生は素晴らしい。人は自らの力で道を切り拓き、不毛の大地に森を育てることができる。悩むことはない。全ての苦悩は、人生の輝きに吸い込まれてしまう。
最期の時には全てが輝くのだ。なら今もその輝きを感じて生きよう。
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こうして私のイタリア旅行が始まったわけです。
この日の日記の、紹介するのも気恥ずかしい青臭い文章を、一応のせておきます。
何も言わないでください。全てはイタリアの陽気な空気のいたずらです。笑
久々の外国の空気は僕に新たな活力を与えてくれる。
僕を導いてくれた人々に感謝したい。
より力強く生きていきたい。
もっともっと、知恵と力と勇気を養っていきたい。
「人は起こること自体よりも、それらをどう感謝するかで喜怒哀楽する。」
ならこう思おう。人生は素晴らしい。人は自らの力で道を切り拓き、不毛の大地に森を育てることができる。悩むことはない。全ての苦悩は、人生の輝きに吸い込まれてしまう。
最期の時には全てが輝くのだ。なら今もその輝きを感じて生きよう。
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