年末に読む「自省録」

君の頭の鋭さは人が感心しうるほどのものではない。よろしい。
しかし「私は生まれつきそんな才能を持ち合わせてはいない」と君が言うわけにはいかないものが他に沢山ある。それを発揮せよ、なぜならそれはみな君次第なのだから。
たとえば誠実、謹厳、忍苦、享楽的でないこと、運命に対して呟かぬこと、寡欲、親切、自由、単純、真面目、高邁な精神。
今すでに君がどれだけ沢山の徳を発揮しうるかを自覚しないのか。こういう徳に関しては生まれつきそういう能力を持っていないとか、適していないとか言い逃れするわけにはいかないのだ。
それなのに君はなお自ら甘んじて低いところに留まっているのか。それとも君は生まれつき能力がないために、ぶつぶつ言ったり、けちけちしたり、おべっかを言ったり、自分の身体に当たり散らしたり、人に取り入ったり、ほらを吹いたり、そんなにも心を乱さねばならないのか。
否、神々に誓って否。
とうの昔に君はこういう悪い癖から足を洗ってしまうことができたはずなのだ。そして何か責められるとすれば、ただのろまでわかりが鈍いということだけ言われるので済んだはずなのだ。しかもこの点についてもなお修養すべきあって、この魯鈍さを無視したり楽しんだりしてはならない。
−マルクス・アウレリウス 『自省録』 より
数学小話

物化生数の理系科目を総ざらいしている僕が最もつまずいているのはやはり数学です。ふらふら
そもそも数学というのは文系でやってきた僕にとって実にけったいな学問でした。
どこまでいっても無味乾燥、解いても解いても出てくるものは毎度変わらぬ数字と記号だけ。ほかの科目では必ず多少なりともあった、世界の広がりのようなものをまったく感じさせる余地を与えない、退屈でナンセンスな科目。笑
それが僕にとっての数学であったし、だからまったく勉強しなかった。
しかしそうした一方で、数学を勉強してこなかったことに、どうにも後ろめたいものを感じていた。
数学が「できない」で一生を終えるのは、何かお粗末であるような気持ちがどこかにあった。
そうであるから、こういった形で勉強する機会が与えられたことはとても幸運だったと思っています。
今こうして数学を勉強して、新たに見えてくることは少なくないです。
思うに、数学力とはつまるところ集中力と注意力の鍛錬に尽きるでしょう。
それはいかに目の前の問題に意識をクリアに傾けるかであり、いかに普遍的な公式・公準をスムーズに応用・適用するかであり、そのためにいかに雑多な思考や感情を退けるか、という精神的な態度が問われ、かつ養われる場である、ということができると思います。
そしてそれこそが僕に普段欠けている態度に他ならないとも付け加えられる。
思うに、数学への苦手意識というのは、多分に女性的な思考感覚から生じるように感じます。
それは「エモーショナル」で「パーソナル」な感覚であり、思いや思索にふけったり、印象に傾く性質であると言える。
数学的問題に際してこうした感覚を鎮圧するよう努力することを学ばねば、与えられた条件に必然性のない無駄な印象を付加してしまったり、パーソナルな思考が強すぎるあまり問題自体が疎ましく感じられ、解決意欲を喪失してしまう結果となる。
数学とは「個別的な事実や情報をすべて同じものとして、同じ条件のもとに扱う」という点で根本的に「インパーソナル」であり、文字通り一寸の狂いも許さない完全な秩序の応用と理論性を要求するという点で根本的に「アンエモーショナル」な学問であるからです。
逆に言えば、数学はこうした{客観性と正確性、冷静な注意力と論理性に支えられた知識の応用力}を鍛えるのには極めて有効とも言えるでしょう。そしてこれらは人生においてしっかりした仕事をしたり決断をする際に大切な能力を養ってくれるものであるように思います。
これまでは人生に何の必要もないナンセンスなものと思って嫌悪感を抱いていたけど、やはり勉強できるときにしっかりしておくに理があると、今になっては思います。
かのナイチンゲールも22歳ぐらいの時、何か将来役に立つ勉強がしたいと考え、暇さえあれば数学の勉強をしていたそうです。そしてそれが後年看護婦団長として管理の行き届いた仕事をする際、また、国家の医療行政を揺るがす統計論文を編纂する際の基礎力となったのです。
ここに見習うべきものは多分にあると思います。


↑ナイチンゲールと彼女の作成した統計グラフ
文系と理系というものがどうしてかくも特徴的に分かれてしまうかというのには、やはり単なる制度上の問題以上の何かがあると認めるのはある程度妥当かもしれません。
すなわち、知識の集積と独自の解釈、思想の展開を旨とする文系的思考体系に傾けば、その都度無機的な数字や記号の採集と分析計算を要とする理系的素養がおろそかにされるし、逆に理系的思考体系に傾けば文系的素養の構築がひたすら徒労のごとく思われてくるでしょう。
しかし両者は決して対立しあうものではなく、お互いのバランスを補い合うものとして文理両道を図るのが教育の正しいあり方だと思います。その点今の日本のように文系型人間・理系型人間を、あたかもカーストでもあるかのごとく隔てて差別化するやり方には首を傾げざるを得ません。
「理系的能力だけ」でも「文系的能力だけ」でも、ほんとうの学問や教育は成り立たないでしょう。
文系の真骨頂であると思って入った法学部で学んできて何より大きく感じた壁は、法律が要求する数学的な論理性と応用力でした。これにははっきり言って、法学部の入学試験は数学を必須とすべきだとさえ思います。笑
逆に入学試験で理系科目ばかりを要求する医学部において多くの学生がつまづくのは、医学の要求する文系的な知識の集積力、読解力であると言います。
学問に王道なし。
”脳”力もバランスよく鍛えていきたいものです。
*
「医は仁術なり」 貝原益軒による医の倫理
日本文化に根ざした医のあり方に「医は仁術なり」という有名な言葉があります。
これは江戸時代の儒学者、貝原益軒が著した「養生訓」第六巻に記された一連の医の倫理において説かれたものです。
今回そのなかで印象的、重要であると感じた言葉を後学のためまとめておきたいと思います。

・医は仁術なり
医は仁術なり。
仁愛の心を本とし、人を救ふを以(もって)、志とすべし。
わが身の利養を専に志すべからず。天地のうみそだて給へる人を、すくひたすけ、万民の生死をつかさどる術なれば、医を民の司命と云、きはめて大事の職分なり。
他術はつたなしといへども、人の生命には害なし。医術の良拙は人の命の生死にかゝれり。人を助くる術を以(もって)、人をそこなふべからず。学問にさとき才性ある人をゑらんで医とすべし。医を学ぶ者、もし生れ付鈍にして、その才なくんば、みづからしりて、早くやめて、医となるべからず。不才なれば、医道に通せずして、天のあはれみ給ふ人を、おほくあやまりそこなふ事、つみかふし。天道おそるべし。他の生業多ければ、何ぞ得手なるわざあるべし。それを、つとめならふべし。
医生、其術にをろそかなれば、天道にそむき、人をそこなふのみならず、我が身の福(さいわい)なく、人にいやしめらる。其術にくらくして、しらざれば、いつはりをいひ、みづからわが術をてらひ、他医をそしり、人のあはれみをもとめ、へつらへるは、いやしむべし。医は三世をよしとする事、礼記に見えたり。医の子孫、相つゞきて其才を生れ付たらば、世世家業をつぎたるがよかるべし。此如くなるはまれなり。三世とは、父子孫にかゝはらず、師、弟子相伝へて三世なれば、其業くはし。此説、然るべし。もし其才なくば、医の子なりとも、医とすべからず。他の業を習はしむべし。不得手なるわざを以て、家業とすべからず。
<所感:
医は天地のうみそだて給へる人を、すくひたすけ、万民の生死をつかさどる術であるが故に、仁の心をもって志とすべしと言う。
医術はその重大性故に、真に学才あり適性ある者のみがこれを学び施すものであり、学力才能無き者が医を志すのはそれだけで天道に背く罪であるとする、忌憚なき見識。
今後自身に絶えず問われて止まない問題だと心得ます。A;´Д`)>
・君子医と小人医
医とならば、君子医となるべし、小人医となるべからず。
君子医は人のためにす。人を救ふに、志専一なる也。小人医はわが為にす。わが身の利養のみ志し、人をすくふに志専ならず。
医は仁術也。
人を救ふを以(もって)志とすべし。是人のためにする君子医也。人を救ふ志なくして、只、身の利養を以(もって)志とするは、是わがためにする小人医なり。
医は病者を救はんための術なれば、病家の貴賤貧富の隔なく、心を尽して病を治すべし。病家よりまねかば、貴賤をわかたず、はやく行べし。遅々すべからず。人の命は至りておもし、病人をおろそかにすべからず。是医となれる職分をつとむる也。小人医は、医術流行すれば我身にほこりたかぶりて、貧賤なる病家をあなどる。是医の本意を失へり。
<所感:
医者たる者君子たるべし。
その富と名誉にこだわるは浅ましき小人なり。
医の本意はただ病者を救はんための術なれば、貴賤貧富の別を忘れて心を尽くして傷病を治すべし。
かかる医のモラルはいつの時代にも文化においても問われてきた問題であるということが伺えます。>
・医術の修得工夫に専念せよ
医となる者、家にある時は、つねに医書を見て其理をあきらめ、病人を見ては、又、其病をしるせる方書をかんがへ合せ、精 (くわ)しく心を用ひて薬方を定むべし。病人を引うけては、他事に心を用ひずして、只、医書を考へ、思慮を精(くわ)しくすべし。凡(およそ)医は医道に専一なるべし。他の玩好あるべからず。専一ならざれば業精(くわ)しからず。
<所感:
日進月歩が当たり前の現代医学に於いても、日々の仕事と生活に追われて勉強がおろそかになり、過去に学生・研修時代で学んだまんまの技術や知識に固執し改めない医師というのがよくあるそうです。
医にたずさわる者、常に専心なる自学自習の精神が要求されることを心得るべし。>
・博きと精しきとは、医学を学ぶの要訣
医術は、ひろく書を考へざれば、事をしらず。精しく理をきはめざれば、道を明らめがたし。
博(ひろき)と精(くわしき)とは医を学ぶの要なり。医を学ぶ人は、初より大に志ざし、博くして又精しかるべし。二ながら備はらずんばあるべからず。志小きに、心あらくすべからず。
<所感:
博(ひろき)と精(くわしき)とは、およそ人生に於いて何事かを学び極めんとするときの肝要なる指標と言えるでしょう。
これは知識と応用力のバランス良き修練を意味し、言うなれば文系的能力と理系的能力の総合力を言うのではないでしょうか。
肝に命じておきたい指標です。>
・医の汎用性
諸芸には、日用のため無益なる事多し。只、医術は有用の事也。医生にあらずとも少学ぶべし。凡儒者は天下の事皆しるべし。故に、古人、医も儒者の一事といへり。ことに医術はわが身をやしなひ、父母につかへ、人を救ふに益あれば、もろもろの雑芸よりも最(もっとも)益多し。しらずんばあるべからず。然ども医生に非ず、療術に習はずして、妄(みだり)に薬を用ゆべからず。
<所感:
医術というのは根源的には万人に普遍的な「生命」の養生と修復にかかる技芸知識であるから、たとえ医者でなくとも奮ってこれに通ずる理、大いにあり。
もって自分と周りの人々の生命健康に資する能えば、これいかなる技芸学問にも勝る益あり。
とても当を得た見識であると思います。
僕が医学を志す理由というのも多分にこの、「医学の普遍性・汎用性」に惹かれたためであるので、殊共鳴を覚える一節です。>
・他の医師をそしってはならない
我よりまへに、其病人に薬を与へし医の治法、たとひあやまるとも、前医をそしるべからず。他医をそしり、わが術にほこるは、小人のくせなり。医の本意にあらず。其心ざまいやし。きく人に思ひ下さるゝも、あさまし。
<所感:
他の医者が為す医療行為をそしり見下し、かえって我こそは名医と誇る。これは実にいやしく器の小さい人間のくせであり、押しつけられる人、患者の身にしてははなはだ迷惑である。
これは医の本意にあらず。
医者同士で腕や地位を競い合うこと。現代競争社会の観点からは一見すれば市場原理主義にかなうように見えても、社会の基盤としての医療のあり方、仁術としての医の本質からはかけ離れていくばかりであるように感じます。
無論切磋琢磨し、互いに刺激し教育しあって医療の質を高めていくことは大いに奨励されるべきでしょうが、これが足の引っ張り合いであったり悪意の応酬に堕することは、患者の心身の健康にあずかるべき医者のあり方として大いに問題であるという他ないでしょう。>
・医者の本分をわきまえる
医となる人は、まづ、志を立て、ひろく人をすくひ助くるに、まことの心をむねとし、病人の貴賎によらず、治をほどこすべし。是医となる人の本意也。
其道明らかに、術くはしくなれば、われより、しゐて人にてらひ、世に求めざれども、おのづから人にかしづき用られて、さいはいを得る事、かぎりなかるべし。もし只、わが利養を求るがためのみにて、人をすくふ志なくば、仁術の本意をうしなひて、天道、神明の冥加あるべからず。
<所感:
いかに有能で才ある医師にして、富と名声を勝ち得たとても、仁術たる医術の本分と謙虚な志を忘れてはお天道様に顔向けできませんぞよ。(゚Д゚)>
後記:
全体として400年前のものというのが不思議なくらい、現代にも通ずる道徳観、社会通念で貫かれているあたり、流石です。
日本社会は想像以上に古くから完成されたものなのかもしれませんね。
なかには「最近の学生は外国(中国)の専門書を読まんからなっとらん。」とかいろいろ書いてあって、このころから日本人ってこんなノリだったのか〜(-Д-)と、感心と軽い幻滅が入り交じった印象を覚えるところもあったりして。笑
*
情報固形物

「情報は固体です」という話を読んでなるほどなと思った。
我々はともすれば、情報というものを何か流動的な、ふわふわとしたものと捉えがちだ。
情報は常に変化し、それを絶えず追い求めるのが情報との正しい付き合いだという発想を、いつのころからか持ち始めた。
しかしそうして世の中の情報化が進みゆく中、人々が人間としての自然なあり方を喪失していると、その本では主張していた。
たとえばテレビニュースを録画して、それを何度も再生したとしたらどうだろう。
テレビにうつる風景や人や、語る内容は一切変わらない。
情報とは「不変」なものであり、その意味で「固体」なのだ。
対してそれを見ているあなたはどうか。
二度、三度繰り返す内に、興味を失っていろんな別のことをしだすだろう。
姿勢を変えたり、他のことを考えたり、トイレに立ったり、スナックをつまんだりしているかもしれない。
そう、ここで変化しているのは「情報」に接している人の方であり、「情報」自体は決して変わらない。
変わりゆく性質である人間が、固くて変わらない「情報」に触れると言うことは、それによって自己の意識に不可逆的な変化を、往々にして不本意に加えられる可能性を意味する。
そのことに気をつけなければいけない。
「情報」を知ると言うことは、本来柔軟で無垢な好奇心に満ち、無限の創造性を秘めた自然な心に、重しをのせて壁を築くことに他ならないのだ。
それによって人は強い意志と高いモラルを築き、世界をより広く自由にしっかりと生きることもできれば、臆病と恐怖の牢獄に自分を閉じこめて邪悪と憎悪のなかに沈んでしまうこともあれば、偏見やマニュアルで身も心も固められてしまうこともある。
だからこそ、自発的な情報規制、戦略的な情報摂取が肝心となる。
情報化社会にあって自分の軸をもって生きるには、「情報の毒」に意識的となり、情報から身を守る術を知らなければいけない。
「情報」を出すという行為にも同様の危険がつきまとう。
僕がブログでこうして記事を書くのも、毎回決死の覚悟で冷や汗タラタラ流しながら、それでも誰かの参考になるかもしれないという期待と、書いてみたい誘惑にこらえきれず書いているのだ。笑
でもやっぱりこうして日記を書くことは、怖いことだと思っている。
だって書いた直後にその「情報」は自分の意思を離れて半永久的な不変性を持つのだ。
しかし「情報」は本質的に誕生したその瞬間から過去のものであり、僕が一時間後、一日後、ましてや一ヶ月や一年後に同じような考え、同じような意見、同じような気持ちでいるなんて、はっきり言って責任もてないっしょ。
でも僕の日記を読む人は、それがその時現在の僕と同一であると認識して「うわだっせ〜」とか「アホやこいつ」とか思うかもしれない。(T。T)
でも自分にとって、日記を残すということはそれだけ自分の中の「情報」のくすぶりをはき出すことであり、心が身軽になるということもあるわけで、後学のためのマイルストーンとする意味もあるので続けていくつもりだ。
うん。決まったな。

*
教養ハードボイルド

大学生たるもの教養を養えていなければその学生生活は空しいと考える。
しかしこの教養とは何ぞや。
それはただ知識豊富な人であろうか。
教養人と聞いて思い描かれるのは、確かに知識見聞広い者であるが、それを目的とするということではない様に思われる。
このことについて、先ほど読んだ国際基督教大学の村上陽一郎氏の言葉が非常に納得のいくものであった。
すなわち、教養とは「自分で一つの枠を作って、<その枠からはみ出ません>ということ」だと言う。
その枠とは規矩(きく)という言葉でも表され、教養とは自分で考えて決めた「規矩」からはみ出ない様に生きるということだ。
重要なのは「自分にとって、生きるとはこういうことなんだ」と自律的に自分の中に確立することであって、知識の多寡やリテラシーなどといったものはそのための手段であり道具でしかない。
たとえばアメリカのハードボイルド小説の主人公のような人間も、そういった意味で立派な教養人だ。
彼らはどんなに損しようが、人からバカだと思われようが、「自分はこれだけは守る」と決めたことを守っていく。
彼らは「自分の生き方として、自分はこれだけの枠でいくんだ」ということをもっている。
つまり教養というのは知識の有無でも饒舌さでも学歴でもない。
どんなに学問知識に秀でても、周りの空気や損得勘定でしか動けないというのは、教養的とは呼べない。
他方で、たとえ愚直であっても自分の規矩、自分の軸、ルールをもって生きている人は教養的だと言える。
「雨にもまけず」を考えた宮沢賢治はきっとそのことを知っていた一人なんだろう。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラツテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジヨウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病氣ノコドモアレバ
行ツテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ツテソノ稻ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクワヤソシヨウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒトリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハ
ナリタイ
*
ボーン・アルティメイタム 鑑賞

すごく面白かったです!
高度なITリテラシーを駆使しCIAを翻弄する緊迫の情報戦
知能と体力の限界に挑むスリリングな追跡劇
どれをとっても最高峰で、シリーズの最後を飾るにふさわしい作品だと思います。
作中のマット・デイモンがほんとかっこいいです。
自分も人生で一度くらい、あれぐらい極限の状況を切り抜ける体験をしてみたいなあ。
自分の持てる体力と知能の限界を確かめたいっていうか、あれぐらいダイレクトに自分の存在を賭けて戦いたいっていうか…。
なんかこう、自分を極限のレベルまで追い込んでドラスティックに自己実現のスリルを感じて生きたいなあ。
なんつって僕なんかすぐ始末されそうですが。笑
ちなみにエンドロールで流れるテーマソング Extreme Ways が、映画にピッタリな意訳されててかっこよかったんだよなー。
下にはっつけときます。
Extreme ways are back again
Extreme places I didn't know
I broke everything new again
Everything that I'd owned
I threw it out the windows, came along
Extreme ways I know, will part
The colors of my sea
Perfect color me
Extreme ways that help me
They help me out late at night
Extreme places I had gone
But never seen any light
Dirty basements, dirty noise
Dirty places coming through
Extreme worlds alone
Did you ever like it planned
I would stand in line for this
There's always room in life for this
Oh baby, oh baby
Then it fell apart, it fell apart
Oh baby, oh baby
Like it always does, always does
Extreme times that told me
They held me down every night
I didn't have much to say
I didn't get above the light
I closed my eyes and closed myself
And closed my world and never opened
Up to anything
That could get me alone
I had to close down everything
I had to close down my mind
Too many things to cover me
Too much can make me blind
I've seen so much in so many places
So many heartaches, so many faces
So many dirty things
You couldn't even believe
極限の道に戻ってきた
いまだかつてない極限の状況
すべてぶち壊して新しくする
これまでのすべてをぶち壊して
窓から放り投げて
極限の道を歩みだす
自分という海の色
完璧な色の自分
極限の状況で得たものが
いつの日かわが身を救う
光の当たらない場所
汚い地下室 耳障りな騒音
汚い場所をくぐりぬけてきた
誰もが眉をひそめる極限の世界
自分はあえて受けて立とう
避けては通れない人生があるんだ
やがていつものように
すべてがバラバラになる
極限の時間
毎晩わが身にのしかかる
無口に語ることもなく
光に当たることもしない
目を閉じ 自分を閉じ
自分の世界に閉じこもり決して開くことはない
それは孤独の時間
すべてを終わりにしなければいけなかった
己の精神を閉じなければいけなかった
あまりにも多くのものが自分を覆い包む
そうして自分を盲目にする
あまりにも多くの場所で 多くのものをものを見すぎた
信じられないほど多くの悲しみ 多くの汚い顔 汚いもの
自分はあえて受けて立とう
避けては通れない人生があるんだ
やがていつものように
すべてがバラバラになる
って感じだったかな。
翻訳センスなくてスマソ




