卒業
昨日25日をもって、上智大学法学部国際関係法学科を卒業しました。
午前に国際フォーラムにて学部学位授与式があり、午後に四谷キャンパスの教室にて各学科集まって、個人への学位記授与が執り行われました。
僕は3年で単位を取り終えて以来一年間滅多に学校に来なかったのもあって、学位記授与の場で久々に学科のみんなが一つの教室に集まった光景がとても懐かしく、喜ばしくて、またこれが最後と思うと寂しさもひとしおでした。
人生の一区切り。
思えば決してみんなと知りあえたわけでもないし、今も昔もこれからも話す機会のなかった人も多かったでしょう。しかしやはり、同じ大学、同じ学科、同じ授業を、同じ4年間で経験した者同士として、今となってはみんなのことがとても身近に感じられるように思います。
なにはともあれ本当によかった。
みんなの幸多き門出を心から祝福します。
鬱鬱
時に気分の落ち込みというものがある。生きるということに精彩が欠けて、なにも感じる余裕がないような状態が、長いこと続く。
あるいはそれは死に至る病なのかもしれない。
時に絶望というものがある。
この惨めさが果たして人生のなかのどん底の一時期にすぎないのか、あるいはどん底の人生の始まりに過ぎないのか分からない、望みが絶えて光の見えない闇に深く包み込まれてしまう。
時に自殺念慮というものがある。
目を閉じても逃れられない、いや、閉じれば閉じるほど強まる、生きていることの胡散臭さ、生きていくことへの懐疑、生きることへの嫌悪。
対する自然な反応として、自死の要求が高まる。
たった一度の人生を失敗してしまったと嘆くこともできれば、失敗作の人生だけどたった一度ですむのだと気を楽にすることもできる。
ネコのひるね
ネコが寝とった。昼間から気持ちよさそ〜に寝とった。
嗚呼うらやましい…。
ネコは一日14時間くらい寝とるらしい。
まさに有閑階級…。
うらやましいついでに動物の睡眠時間を調べてみた。

一番寝とるのは、一日20時間睡眠のオオナマケモノでした。
エジソンは「寝てる時間がもったいない」と4時間しか眠らなかったけど、
ナマケモノは4時間しか起きません。
起きたら8グラムほど葉っぱを食べてまた寝るそうです。
食っちゃ寝食っちゃ寝て生きておるのです。
ナマケモノの天敵はワシです。
狙われたら最後、動きの遅いナマケモノが逃げられるはずもありません。
動くと見つかりやすい→見つかるとヤラレル→じゃあジッとしておこう
→することがない→寝よう…眠い(睡眠)
まあそういうことなのでしょう…。
ナマケモノもあれで生きるのに必死なのです。
一番寝ないのは、一日2時間睡眠のおウマさんでした。
なんとなんと、あんなにたくましい体をもち、人間には乗り物にされたりしてこき使われるおウマさん、2時間しか寝ないのです。
人間なら過労死必至です。
比較的開けた草原に生息するウマは、いつ捕食者が襲ってきても逃げられるよう、周囲への監視をナマケてはいられないのです。
そしてそのための体力を低カロリーの草から維持するために、摂食時間も十分確保しておきたいのですね。
こうしてみると、睡眠時間の違いにも単なる生理的休養以外に、生存可能性にまつわる様々な外部要因が影響していることが分かります。
また、同じ人間でもアインシュタインのように長眠だったり、エジソンやチャーチルなどのような極端な短眠でも人並みかそれ以上に活躍できる者がいます。
しかし、どれほど短眠でもまったく眠らないということはやはりあり得ません。
睡眠とは何のためにあるのか。
その本質も、メカニズムもまだまだ謎に包まれている。
僕が今言えるのは、 眠いからもう寝よう ということだけである。
…またつまらぬものを書いてしまった。眠い(睡眠)
上智大学収穫目録
これは、卒業を間近に控えた私が、大学生活において取得した単位をいちいち書き出して、感慨と哀愁の自己満足に耽る日記である…。上智って、法学部ってどんな授業があるの?と興味のある方には参考になるかも?しれません。
特に印象に残ったものに☆マークをうってみました。
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<全学共通>
---必修科目---
人間学
ウェルネスの理論と実践
情報リテラシー演習
---外国語科目---
英語上級II Knowles ☆ … 女東大、上智の空気をビシビシと感じました。
英語上級II Long ☆
---選択必修科目---
倫理学
開発経済の現状と思想
民族関係論
---選択科目---
言語と人間 I
西洋美術史 I ☆ … スライドで映し出される名画をひたすら鑑賞するハイソな講義。
西洋美術史 II ☆ … この講義がきっかけで美術館に行くのが趣味になりました。
マルチメディア情報社会論
地球環境学 I
<学科科目>
---必修科目---
民法総則
憲法 (基本的人権)
憲法 (統治機構)
債権法各論
国際法総論
演習 (地域共同体法:EU法)
---選択必修科目---
知的財産権法 ☆ … トンデモ特許”B-File”の存在を知り爆笑。
国際紛争処理法
裁判法
国際政治学 ☆ … 国会議員猪口邦子が上智を追放される前夜の生講義。笑
専門外書購読 I ☆
国際経済法
国際取引法
---選択科目---
民事訴訟法 I
西洋政治史
商法総論 ☆ …小塚先生の動きがC−3POみたいで癒されました。
内容も分かりやすくて、素直に勉強になりました。
商取引法
海商法
法医学 ☆ …まるっきり医学講義、要は検死学です。ある意味一番印象に残った講義。
毎回おもろいスライドとおもろいトークで楽しめました。
行政法
経済法
生活環境法
環境社会学
法律学特殊講義 II (信託法)
法律学特殊講義 IV (証券取引法)
国際関係法特殊講義 I (武力紛争法)
国際政治史 2
比較政治学 1
比較政治学 2
---他学部・他学科科目---
生命と倫理 ☆ … QOLについて考えさせられました。
宗教社会学 I ☆ … 日本は新興宗教大国であることを思い知らされました。
宗教社会学 II ☆
---外国語科目---
ドイツ語初級 I (コミュニケーション総合) … Gut.... by エド・はるみ
ドイツ語中級 I (コミュニケーション総合)
---その他(単位換算・入学前認定科目)
技能審査等による認定単位(TOEFL)
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肝心の法律ど真ん中系の講義がほとんど印象に残っていないのはご愛嬌。
正直アカデミックな法律学なんてナンセンス極まりないと思いました。
ロースクールもできたのだし、いい加減法学部教育というのは抜本的に見直すべきでしょう。
たとえばより社会学的要素を取り入れて、実践的な素養や応用力としての法律学に特化すべきだと思います。
しかしこうして大学でのことを振り返ってみると、なんだかいろいろと、思い出が蘇ってきました。
あの頃の空気、あの頃の自分、あの頃の友達、
あの頃抱いた様々な思い、夢…。
僕は大学に大して深くコミットしてきたわけじゃなかったけれど、
でも今、一つ確信をもって言える。
上智での日々がなければ、今の自分はない、と。
名言
眠れなければ、床の中でくよくよしていないで、起き上がって何かをすればよい。疲れるのは心配するからだ。眠れないからではない。
私たちが失望落胆して、もはやレモンをレモネードに変える気力も失せたとしても、とにかく二つの理由のために私たちは現状打破を試みなければならない。
第一の理由…成功するかもしれない。
第二の理由…たとえ成功しなくても、マイナスをプラスに変えようとするだけで、後ろを振り返らずに前方を見つめることになる。消極的だった考えが積極的になり、それが創造力を活動させ、われわれを多忙にし、過ぎ去ったものを嘆く時間や気持ちはなくなってしまう。
どちらから言ってもすべてが得で、失うものは何もない。
―デール・カーネギー
今日気にかかることで、明日も気にかかることはめったにない。だから夜床につくとき、たいていの悩みに対しては、安心してこう言い聞かせられる。「お前には全力を尽くした。今後もう会うことはあるまい。」
―ウィリアム・クーパー
結局のところ、最悪の不幸は決して起こらない。大抵の場合、不幸を予期するか悲惨な目にあうのだ。
― バルザック
未来に対する最上の準備は、現在をしっかり見つめること、なさねばならぬ義務を果たすことである。
―ジョージ・マクドナルド
時間を浪費するな。人生は時間の積み重ねなのだから。
もし「時」がこの世で最も貴重なものだとすれば、時の浪費ほど大きな浪費はあるまい。失われた時は二度と帰らないからだ。時はいくらあっても十分ではないのが常だから、やるべきことはさっさと行おう。価値あることを行おう。精を出してことに当たれば、これまでよりテキパキやれるはずだ。
―ベンジャミン・フランクリン
他人の過失は見やすいけれども、自分の過失は見がたい。ひとは他人の過失を籾殻のように吹き散らす。しかしこの人も自分の過失は隠してしまう。 ―狡猾な賭博氏が不利なサイの目をかくしてしまうように。
他人の過失を探し求め、つねに他人を見下して思う人は、卑しい性質が増大する。かれは実に真理を見ることから遠く隔たっている。
恥を知らず、カラスの首魁のようにがやがや叫び、厚かましく、図々しい人は、生活し易い。この世では、心が汚れたまま生きて行く。
恥を知り、常に清きを求め、よく仕事に専念していて、つつしみ深く、真理を見て、清く暮らす人は、生活し難い。
この世の中は暗黒である。ここではっきりとことわりを見分ける人は稀である。綱から脱れた鳥のように、天に至って楽しむ人は少ない。
この世は虚妄の束縛を受けていて、未来に変化する可能性のあるものの如くに見られる。愚者らは煩悩に束縛されていて、暗黒に覆われている。かれらには無が有であるかのごとくに見られている。真理を見る人には何ものも存在しない。
人々は自我観念にたより、また他人という観念にとらわれている。このことわりを或る人々は知らない。実に彼らはそれを実に刺さった矢であるとは見なさない。
ところがこれを、人々が執着しこだわっている矢であるとあらかじめ見た人は、「われが為す」という観念に害されることもないし、「他人が為す」という観念に害されることもないであろう。
この世の中の人々は慢心をもっていて、つねに慢心にへばりつかれている。悪い見解にとりつかれていては、努力しても生死流転を超えることはできない。
すでに得たものと、これから得られるはずのものと ― この二つは塵ほこりであり、病であると知って、心を安定統一した智者は、それを捨てよ。
学ぶことに生きがいを認め、奉仕(看護)を楽しむために、戒律を守って生き、ブラフマンを奉じた生活を送っている人々がいる。 ― これは一つの極端説であると説かれている。
「「快楽は享受されるべきであり、清らかである。快楽のうちに欠点は存在しない」とこのように見なす愚者どもがいる。 ― これは第二の極端説であると説かれている。
この二つの極端説を熟知しないで、愚者たちはそこに耽溺する。しかし他の愚者たちは走りすぎて行く。眼ある人はかれらをよく見とどける。
この二つの極端説を知って、そこに滞っていなかった賢者たちは、それで思い上がることはない。かれらには決まった道が存在しないのである。
世の中は泡沫(うたかた)のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。
身体は泡沫のごとしと見よ。身体はかげろうのごとしと見よ。身体をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。
心の統一
「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
起きるべき時に起きないで、若くて力があるのに怠りなまけていて、意思も思考も薄弱で、怠惰で物憂い人は、明らかな智慧によって道を見出すことができない。
ことばを慎み、心を落ち着けて慎み、身に悪をなしてはならない。これらの三つの行いの路を浄くたもつならば、仙人(=仏)の説きたもうた道を克ち得るであろう。
実に心が統一されたならば、豊かな智慧が生じる。心が統一されないならば、豊かな智慧がほろびる。生ずることとほろびることとのこの二種の道を知って、豊かな智慧が生ずるように自己をととのえよ。
一つの樹を伐るのではなくて、(煩悩の)林を伐れ。危険は林から生じる。(煩悩の)林とその下生えとを切って、林(=煩悩)から脱がれた者となれ。
― ブッダ
修行者

ものごとを心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につきまとう。 ―車を引く牛の足跡に車輪がついていくように。
物事は心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。 ―影がそのからだから離れないように。
「かれは、我を罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついにやむことがない。
「かれは、我を罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みがやむ。
実にこの世において、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みのやむことがない。怨みを捨ててこそやむ。これは永遠の真理である。
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。 ―このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人があれば、争いは静まる。
この世のものを浄らかだと思いなして暮し、(眼などの)感官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠けて勤めない者は、悪魔にうちひしがれる。 ―弱い樹木が風に倒されるように。
この世のものを不浄であると思いなして暮し、(眼などの)感官を抑制し、食事の節度を知り、信念あり、勤め励む者は、悪魔にうちひしがれない。 ―岩山が風に揺るがないように。
けがれた汚物を除いていないのに、黄褐色の法衣をまとおうと欲する人は、自制が無く真実も無いのであるから法衣にふさわしくない。
けがれた汚物を除いていて、戒律を守ることに専念している人は、自制と真実をそなえているから、黄褐色の法衣をまとうのにふさわしい。
まことではないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではないと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実(まこと)に達しない。
まことであるものを、まことであると知り、まことではないものを、まことではないと見なす人は、正しき思いにしたがって、ついに真実(まこと)に達する。
屋根を粗雑に葺いてある家には雨が洩れ入るように、心を修養していないならば、情欲が心に侵入する。
屋根をよく葺いてある家には雨の洩れ入ることが無いように、心を修養してあるならば、情欲の侵入することが無い。
悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。かれは、自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む。
善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜び、楽しむ。
悪いことをなす者は、この世で悔いに悩み、来世でも悔いに悩み、ふたつのところで悔いに悩む。 「わたくしは悪いことをしました」といって悔いに悩み、苦難のところ(=地獄)におもむいて(罪の報いを受けて)さらに悩む。
善いことをなす者は、この世で歓喜し、来世でも歓喜し、ふたつのところで共に歓喜する。「わたくしは善いことをしました」といって歓喜し、幸あるところ(=天国)におもむいて、さらに喜ぶ。
たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。 ―牛飼いが他人の牛を数えているように。かれは修行者の部類に入らないにしても、理法に従って実践し、情欲と怒りと迷妄とを捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執着することの無い人は、修行者の部類に入る。
―ブッダ
People in Search of Life “人生を探す人々”
People in Search of Lifeby Marc Dorsey
There is a place that is so hard to find
behind the walls we build inside our minds
Some break the walls
some break the rules
some even get things changed
and when they do that leads to truth
yet questions still remain
but all that is saying is
Somewhere in life there's a joy to be
between the hope and reality
There in a mirror and and in the street
that's where you'll find
people in search of a life"
And what of love is that a ponit of view
That when you're alone
it can seem so confused
That's when a friend can pull you and
bring you a helping hand
But what happens when your only friend sells you out in the end
How do you face it?
Beyond the sheets of skin
beyond the rules of hate
within the project wall
there is a cry that will not die
A cry for life
looking in to needle
looking into street
searching everywhere
中学のころわざわざ大阪まで見にいったので思い出深い、映画「クロッカーズ」の主題歌。
いつ聴いてもグッときます。
宇宙なる生命

生物の勉強をすればするほど、この自然、生き物たち、我々の身体の神秘的なまでの巧緻性、合理性に驚異を感ずる。
肉体器官、組織、細胞、DNAに到るまで、すべてが関連しあい、生かしあっている。
これほど精緻で合目的的な「生命」がいかにして、どういった形で、無機的物質世界に誕生したのか、その謎はいまだ解明されない。いや、解明され得ない。
DNAの螺旋構造を解明した、現代生命科学の産みの親とも言えるフランシス・クリックは、生命誕生の神秘に向き合い、意図的パンスペルミア説なるものを主張した。
パンスペルミアとは汎宇宙胞子説といい、宇宙に生命の起源となりうる胞子のようなものが散在しており、それが地球に進入して生命が発展したという説である。
そして“意図的”パンスペルミア説とは、地球外の星の高度に発達した生命体がロケット等で意図的に送り込んできた原始的な生命構造体、いわば“生命の種”が、地球上の生命の起源だという説である。
改めて言っておくとフランシス・クリックは現代生命科学の産みの親とも呼べる超正統派天才科学者である。
彼自身この説の傍から見た滑稽さは理解しており、自身で以下のように述べている。
「これは、実は、荒削りで不確かな科学的基礎の上をかけめぐる想像力による偉大な跳躍という殆どのSFが持っている重要な性質を持っていない。必要なシナリオに寄与する個々の事柄は現代科学の確たる基礎の上に立っている。」
生命のふるさとは広大無辺で悠久の大宇宙にある。
それが、科学的論理的に最も妥当な結論であるとするクリックの言葉には、不思議と安らぎを感じさせる説得力がある、と私は思う。ところで、このテーマを考えるたびに思い出さずにいられない映画のワンシーンがある。
それは「ミッション・トゥ・マーズ」というSF映画の最後のシーンなのだけど、そこで意図的パンスペルミア説のドラマが見事に描き出される。
ネタバレに抵抗のない方はどうぞご覧ください。↓
いつか、こんな話が教科書にのったりする日がくるのかもしれない…?
仏陀の格言
自分を軽んじてはならない。
人を羨んでもならない。
羨めば心が乱れる。
得るものが少なくとも不満を抱かず現実に甘んじ、
清らかで勤勉な生活を送る者こそ讃うべき修行者である。
人は、仇敵に対するような仕打ちを自分にする。
他人がどれほど攻撃しようと怖れるには足りない。
自分自身の貪瞋痴(貪欲・怒り恨み・愚かさ)ほどには我々を傷つけることはないのだから。
(人は自らに対して最も残酷なことをする。
自分自身の欲望や無智が己を最も傷つける。
実に己こそ最大の敵であると心得なければならない。)
自燈明 法燈明
己こそが己の主である。
自ら以外何人たりとも主にあらず。
己の心身をきちんと調えられたとき、汝らは得難き主を得るだろう。
(自分以外に頼る者無し。
法(調えられた自己の感ずる世界の法則)以外に寄る辺なし。
自らを頼み、燈明とすべし。)
怒りより大きな罪はない。
忍辱(いかなる侮辱や迫害にも耐え、動じないこと)より難しい行はない。
だから、これを修行と心得、忍辱に努めなさい。
(どれほど厳格に戒を守ろうと、忍辱の心なければ怒りの火種は消えず、
ひとたび燃えれば百千劫の善根を根こそぎに、徳も諸善も焼き尽くす。)
「かれは、われを罵った。かれは、われにこんなことを言った。かれは、われにうち勝った。人をしてわれに打ち勝たしめた。」という思いをいだく人々には、怨みはついにやむことがない。
「かれは、われを罵った。かれは、われにこんなことを言った。かれは、われにうち勝った。人をしてわれに打ち勝たしめた。」という思いをいだかない人々には、ついに怨みがやむ。
実にこの世においては、およそ怨みに報いるに怨みを以ってせば、ついに怨みのやむことがない。堪え忍ぶことによって、怨みはやむ。これは永遠の真理である。
怨みは怨みによっては決して静まらないであろう。怨みの状態は、怨みのないことによって静まるであろう。怨みにつれて次々と現れることは、ためにならぬということが認められる。それ故にことわりを知る人は、怨みをつくらない。
戦いは安らぎも平和も生まない。
勝てばさらなる恨みを生もうし、負ければ苦しみのどん底に突き落とされる。
勝負を放棄してこそ真の寂静は得られるのだ。

迷いがあるから悟りもある。
迷いが無くてどうして悟りがあろうか?
迷いを離れて悟り無し。
悟りを離れて迷いも無し。
それゆえ、悟りに執着することも修行の妨げなのだ。
粗雑な屋根から雨が漏れ入るように、修養を積まぬ心には欲望が入り込む。
怠慢は破滅への道。精進こそが生きのびる道である。
智恵ある人は精進を続け、心のほころびを繕う。
(人の心は貪瞋痴渇愛欲の六つの穴が開いた部屋のようなもの。
修繕を怠らず精進しなければならない。)
昔も今も、何につけ非難したがる人はいる。
沈黙しても非難し、説くことが少なくても非難する。
どのみち誹られるのが世の常だ。
だから人の誹りを気にするな。
世評に惑わされるな。
(何をやっても悪し様に言う者はいる。
だが善悪は己の身の内にこそある。
己を改めるのは悪を克服し善に向かうため。
周囲の評価などどうでもいいこと。)
誰かに誹謗中傷されても、落ち込んだり取り乱したりするな。
そのような反応は何の役にも立たず、事態を更に悪くするだけだ。
また、誰かに賞賛されても、浮かれたり得意になるな。
そのような反応は正確な判断の妨げになる。
私たちはそれぞれの心の主。
周囲の毀誉褒貶に一喜一憂することなく、侮辱や敵意にも動じない、
泰然と現実の自分を受け容れて、心は平静に、怒りをもよおさず、
慈しみをもって不満や恨みを克服せよ。
(愚者は世間を拠り所とし、世間に振り回される。
智者は自分を拠り所とし、決して世間の評価に左右されない。
それゆえ彼は自分の主なのである。)
猛獣は怖れるに足りないが、悪友は実に怖ろしい。
なぜなら猛獣は私たちの体を害するだけだが、悪友は心までも傷つける。
もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができるならば、あらゆる危険困難に打ち克って、こころ喜び、おもいを落ちつけて、共に歩め。
もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができないならば、国を捨てた国王のように、また林の中の象のように、ひとり歩め。 愚かな者を道づれとするな。独りで行くほうがよい。
孤独で歩め。悪いことをするな。求めるところは少なくあれ。
――林の中にいる象のように。
人生の真諦を悟り、仏道に励む人には次の七つの特質がある。
一、信 … 真理を確信している
二、進 … 精進に専心している
三、戒 … 戒律を守り心身を律する
四、恥 … 人にではなく己に対し恥じる
五、聞 … わからぬことは努めて学ぶ
六、捨 … 極端な分別感情をすてる
七、定慧 … 禅定と智慧により己を観照する
智慧ある者は孤独な修行生活を送り、なおかつその孤独を愉しむ。
独り起き伏し、独り道を行く。
孤独の内に己を観照し、心身を律する。
孤独の生活を心から喜んで。

ブッダは言われた。
ブッダは言われた。
「一切の苦悩は無明から生まれる。
無明ゆえに偏った見方をしたり、執着したりして苦しむのだ。」
ブッダは言われた。
「無明とは何か?
過去と未来を知らず、過去と未来の関係を知らぬこと。
内なるものと外なるものを知らず、内なるものと外なるものの関係を知らぬこと。
行為とその結果を知らず、行為と結果の関係を知らぬこと。
仏法僧を知らず、苦悩に終止符を打つ術を知らぬこと。
苦集滅道を知らず、苦悩を止める実践的方法を知らぬこと。
因とそれが惹き起こす一切を知らず、善か不善か、有罪か無罪か、常住か無常かを知らず、良し悪し・浄不浄の分別、縁起を知らず、何も知らないこと。
眼・耳・鼻・舌・身・意という六根が惹き起こす結果を如実に知らぬこと。
自我や苦痛、渇望、愛欲の原因などが縁起によって生ずることを知らず、見ず、あるいは部分的にしか理解しないこと。
このような愚かさを無明というのである。」
ブッダは言われた。
「外なる快楽を追い求めるところから苦しみは生ずる。」
命を得て生きるは尊い。命を得て悟りに到るはさらに得がたい。
人はふつう、生活が満ち足りて楽しいときに命の素晴らしさを実感する。
だが、そのような実感の中心には「私」がいる。
何を見るにも「私」が中心だから偏ったとらえ方しかできない。そこに苦しみが生ずる。
「私」にこだわり、「私」の快楽をひたすら追求し、かえって苦悩を招いているのだ…。
苦しみ--------------------
それは一切を如実に観ずることのできない、人間の無智からきているのである。
一生が順風満帆なら修行などしなくともよい。
だが、人は幸福を追及する過程で、苦悩やプレッシャーにぶつかる。
無智で心が曇っているからである。
ブッダは言われた。
「極楽や地獄は外にあるのではない。どちらもこの六尺の身の内にある」
苦や楽の大小は、外界からもたらされたものの多寡には関係ない。
自身の心の満足度いかんなのである。
欲まみれで人の評価ばかり気にしているとき、私たちは外界の名利や物質に束縛されているのだ
自分の心を浄化できるのは自分だけだ。
自我や欲望をきれいさっぱり追い出したら人は生まれ変わり、永遠の安らぎを得て苦しみのない境地へ到るだろう。
修行は己の心を浄化する道程である。
ブッダは言われた。
「己の浄化はひとえに己にかかっている。
誰も肩代わりできない。」
諸悪莫作 (諸々の悪をなすなかれ)
衆善奉行 (多くの善を行え)
自浄其意 (自らの心を浄めよ)
是諸仏教 (これ諸仏の教えなり)
私たちの心は様々な働きをする。
自他のためにならない悪しき働きもある。
自他のためになる善き働きもある。
悪しき働きとは…
貪欲、瞋恚、無智、愛欲、固執、
怒り、怖れ、尊大、驕り、悪意、
不満、憂慮、焦燥…などである。
善き心の働きとは…
慈悲、寛容、志、無視、公正、善意…などである。
古の覚者たちは己を観照する修行を通じて、苦しみや煩悩が例外なく、自らの心の悪しき働きから生ずることを理解した。
だから先人たちは諭すのである。
心に悪しき働きをさせるな、善き働きを促せ、自分の心をしっかり見つめ、苦悩の芽が根絶するまで心を浄化せよ、と。
心の内から悪しき働きがなくなったとき、とこしえの悦楽と安らぎに到るだろう。
修行------------それは己を浄化する道程。
心が純化され、あざとさが完全に消えたとき、苦悩のない彼岸、寂静の境地に到達するだろう。
ブッダは言われた。
「われらは楽しく生きよう。この世は欲望だらけだが、泥の池に染まらず咲く蓮の花のように、われらは欲を離れて生きている。だから煩悩がなく、われらは楽しい。」
私たちは静かに自分に向き合い、自分を引き受け、自分の主人となろう。
ありのままを受け容れ、怒りをこらえよう。愛をもって恨みを克服しよう。
心の浄化によって欲望に打ち克とう。宇宙の理に従おう。
ブッダは言われた。
「存在するものはひとしく変化する。変化しないものは存在ではない。」
この世に存在する私たちの肉体も変化する。
だが私たちは積極的に自身の内面を変えなければいけない。
凡夫から「一人の智者」へと。
−蔡志忠著「仏教的生き方」(だいわ文庫)より抜粋
四聖諦 / 十善戒 〜 仏の法

四聖諦
−苦集滅道−
一、
人生はすべて苦である
(苦諦)
二、
苦の根拠は欲望(渇愛)である
(集諦)
三、
欲望を滅することによって苦の滅がある
(滅諦)
四、
苦の滅に至るために八つの正しい道、
正しい見解 正見
正しい思惟 正思
正しい言葉 正語
正しい行為 正業
正しい生活 正命
正しい努力 正精進
正しい想念 正念
正しい瞑想 正定
正しい思惟 正思
正しい言葉 正語
正しい行為 正業
正しい生活 正命
正しい努力 正精進
正しい想念 正念
正しい瞑想 正定
を実践しなければならない
(道諦)
十善戒
不殺生(ふせっしょう)・・・むやみに生き物を傷つけない
不偸盗(ふちゅうとう)・・・ものを盗まない
不邪婬(ふじゃいん)・・・・男女の道を乱さない
不妄語(ふもうご)・・・・・うそをつかない
不綺語(ふきご)・・・・・・無意味なおしゃべりをしない
不悪口(ふあっく)・・・・・乱暴なことばを使わない
不両舌(ふりょうぜつ)・・・筋の通らないことを言わない
不慳貪(ふけんどん)・・・・欲深いことをしない
不瞋恚(ふしんに)・・・・・耐え忍んで怒らない
不邪見(ふじゃけん)・・・・まちがった考え方をしない
不偸盗(ふちゅうとう)・・・ものを盗まない
不邪婬(ふじゃいん)・・・・男女の道を乱さない
不妄語(ふもうご)・・・・・うそをつかない
不綺語(ふきご)・・・・・・無意味なおしゃべりをしない
不悪口(ふあっく)・・・・・乱暴なことばを使わない
不両舌(ふりょうぜつ)・・・筋の通らないことを言わない
不慳貪(ふけんどん)・・・・欲深いことをしない
不瞋恚(ふしんに)・・・・・耐え忍んで怒らない
不邪見(ふじゃけん)・・・・まちがった考え方をしない





