The Journey : Somewhere Down The Road 200804
自省録: Cause and Consequence /  化学反応
2008 / 04 / 26 ( Sat )

Cause and Consequence

原因と結果


日常のささやかな言動
つまらない出来心
臆病な悪意
金魚の糞のような過去への未練
かけていることすら忘れたメガネのような偏見や思い込み
気楽な愚かさ

すべてに結果が生じる
自分の身に起こることとして
あるいは自分という存在を規定するものとして
すべてがゆるやかに 劇的に 実を結んでいく

日常のささやかな言動
誰にも気づかれない誠意と忍耐
人知れず涙や怒りを飲み込む日々
枕の上で心の混濁を堪えて鎮めようと努める日々
自分が正しいと感じる行いを 思いを 貫いた一瞬一瞬

すべてに結果が生じる
自分の身に起こることとして
あるいは自分という存在を規定するものとして
すべてがゆるやかに 劇的に 実を結んでいく






仕事関係にしろ友人・恋愛関係にしろ
物事は化学反応のようなもの

然るべき反応の性質や道筋というのは大体において
あらかじめ分かるような単純な化学反応式の連鎖に過ぎない

あたかも原子間の共有結合のように
足りないものを求め合い 人は 物事はつながっていく
そこには揺ぎ無い法則がある

もちろんその法則を見破り利用することは容易なことではない
人間関係は この現実世界は 多様な次元の複雑に絡みあった四次元構造であるからだ
そこを人は 安易に物事を単純化・集中化して考えようとしてしまう
人間というものをごく限られた要素に局限してしか理解しえず 
またそれ以上に理解しようともしない
そこに大きな不自由と無智の苦しみが生ずることも省みず

単純化・集中化は悪い発想ではない
乱雑さや不確実性を助長することはエントロピーの観点から言っても収拾がつかなくなる
問題は他人や外の世界を単純化することにある
単純化すべきは自分の内にある

自分の存在を その意義と目的を 単純化することにはメリットがある
それは優先事項 プライオリティー を明確にすることにある
それは言ってみれば 自己の内面において 
望ましい化学反応を最大効率化することを意味する

上に述べたように 他者や外の世界に意図的な反応を期待することは極めて難しい
しかし自分の内面において反応を誘導し促進することは大きな可能性を期待できる

たとえ世界が自分に反応してくれなくても
世界から 世界にむかって 自分を反応させよう
適者生存のシステムを存分に生き抜こう



12 : 06 : 11 | 随想 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
アナトミー 〜 死 命
2008 / 04 / 18 ( Fri )



今日、解剖実習がスタートしました。
人体の解剖。それは通常であれば死体損壊罪にあたる行為。
目の前に横たわり、今まさにバラバラにされようとしているご遺体は、かつて我々と同じように生きていて、家族がいて、人生があった。そのご遺体に拙い技術と知見でもってメスを入れさせていただくというのだから、本当に、献体してくださったご本人とご遺族への最大限の敬意と貢献の意欲なくしては、やる資格がないばかりか罪であると断言していいでしょう。

解剖に際して、ご遺体と対面して、恐怖を抱きました。
しかし、ご遺体がくぐってこられた「死」の絶対的な恐怖と、「死」を引き受けて人生の幕を閉じられたことの偉大さとを考えたとき、自分の抱く恐怖のちっぽけさを痛感させられます。

メスで切り開いていき解剖作業が始まれば、人体の精妙さへの感動と探究心、そして課題をこなしていかなければならないという制約もあり、恐怖を抱く暇もなくみな作業に没頭していきました。
予想を裏切るあっけなさ。
その理由の一つとして、遺体はもはや反応することがないということが特に大きいと感じました。
遺体はもう痛がらないし、痛いと言って悲しんだり怒ることもありません。
残された肉体はもはやどうなろうと、ただ自然の摂理に従ってただ分解していくことを知っているから、どこまでも安らかに沈黙します。

そんなご遺体と対面していると、「命」について、「人間」について、考えさせられること限りないです。
目の前に横たわる肉体を持っていた、この方はどこに行ってしまったのだろう。
この方の「命という現象」、「“この人”という反応」はどこに行ってしまったのだろう。
「魂の永遠」という考えがあり、また、物質的な死と共に人間は「消失する」という考えがあります。
両極端なことが証拠なしに主張される、ある意味どうにでもされてしまう問いですが、答えが出なくても人は生まれ、亡くなっていきます。

そんな不思議を当たり前に生きているのが人間。
私たちはみな、生と死の狭間を生きる。
だから私たちは本当は、生ける者も死せる者もみな、かけがえのない同胞。

ある人の死によって私に与えられた、解剖実習の機会。
尊厳と畏敬の念を絶やさずやり遂げることを決心した一日でした。





21 : 47 : 15 | Footprint | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
グレイズ・アナトミー
2008 / 04 / 16 ( Wed )
Cosy In The Rocket
Song: Psapp
Grey's Anatomy Theme






最近見てる海外ドラマ。
病院のなかの人間ドラマ中心だけど、アメリカのドラマらしく医療行為のリアリティも徹底していて学ぶところが大きいです。
アメリカのお国柄もあって、仕事でも人間関係でも競争が容赦ないんだけど、みんな自ら進んでチャンスをつかみ、責任の重圧を怖れず、今できること、すべきことをこなしながら、たくましくがんばっていく。


“今できること、今すべきことを明日に引き伸ばしてはいけない。”

Nobody knows where they might end up
どこに行き着くか、誰にも分からない。

なんでも自分でやってみないと、結局は何も分からない。
とにかく目の前のすべきことをする。
とにかく最大限頭を振り絞って努力をする。
結果を知ることを先延ばしにしてはいけない。
人生はそんなに長くない。
誠心誠意、最善を尽くしたなら、どう転んでも新しい選択肢が広がってくる。

ちなみにGrey's Anatomyは、欧米の解剖学参考書の定番であるGray's Anatomyにちなんだ、なかなか洒落たタイトルなんですね。
邦訳された「グレイ解剖学」には時々お世話になってます。


20 : 44 : 43 | 諸事観察 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
腰を張って生きよう!
2008 / 04 / 12 ( Sat )
Vasalius Skeleton750_40pct


最近骨学をコツコツと学習しております。
実際に人骨を正しい位置に並べていくということを何度もやりましたが、なかなか大変骨の折れる作業でした。
そうして骨とにらめっこするだけでも、人体というのは実に精妙な構造物なのだなあと感心させられます。



A02200001.jpg


さて、世に「胸を張れ。背筋を伸ばせ。」とよく言いますが、私は昔からどうもこの言葉にしっくりきませんでした。だって胸とか背中って、実感としてそう動くものじゃないし、それを無理に伸ばせとか張れとか言われても困るじゃないですか。
で、今回実際に脊柱の構造を見て分かったのですが、首から腰まで24個ある椎骨のなかでも胸背中にあたる12個の胸椎はあまり曲がりません。そりゃ肋骨もあるし心肺もあるしで、こんなところがクネクネしたらたまったもんじゃありません。
対して首や腰は傾きや回転運動ができる構造となっています。
特に腰椎は一番の働き者で、上体の荷重を支えつつよく動きます。そのため姿勢が悪くなったり歪みが出やすいところでもあります。

こうして見ると、一般に姿勢が悪い人というのは背筋云々を言うよりも、腰が曲がっていると言ったほうがよいでしょう。そして腰が曲がっていると腹腔を圧迫したり脊柱を通る血管や神経に負担をかけたりして、結果的にヘタレになってしまうでしょう。
逆に、腰を立てて自然なカーブを成すよう張ってやると、自然と背筋はまっすぐなるし、胸もしっかり張れるようになります。

なので、胸を張る、背筋を伸ばすというのは日々の健康と体調のために大切なのは言うまでもないことですが、骨学的に言い直すならば、「腰を張る。腰を伸ばす。」としたほうが、方法論としてより正確と言えるでしょう。


22 : 50 : 49 | 諸事観察 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
目が覚めているということ
2008 / 04 / 12 ( Sat )

最近テーラワーダ仏教というものに興味を寄せています。
特に日本テーラワーダ仏教教会の長老アルボムッレ・スマナサーラ氏の著書が面白い。

テーラワーダ仏教はいわゆる上座部仏教(小乗仏教)の直接的な流れを汲み、原始仏教、すなわちブッダが説いた理念と教えをなにより尊重し、実践しようというものです。
それはいわゆる”開祖崇拝”の様相を呈する日本仏教とは対照をなす立場といってもいいかもしれません。

スマナサーラ氏の説く「ブッダの真実の教え」は、非常に合理的、科学的な思考を重んじるものです。
それは物事の本質を見極め広大な宇宙的視点から因果因縁を悟ることにより、己の無智と欲望と感情の虚しさ愚かさを知り、妄想的な生き方を止め、賢く苦しみのない心のあり方と生き方を学び選ぶということ。
それは無智の暗闇、欲望の幻覚、妄想のまどろみから目覚めた生き方であり、そのことを人はブッダ、目覚めた人と呼びました。

少しでも理性的に考えてみれば、人は実に多くの時間と労力を妄想のために費やしています。
現実にないことを絶えず心に抱き、現実ではないことを現実であるように思い込む。
正しくないことを正しいと思い、正しいことを正しくないと思い、ありのままの現実を見ず知らず、頭の中の偏った情報と欲望と感情だけの世界に生きています。

気まぐれや企みから始まった妄想でさえ、やがて強迫的な心の檻となって人をゆがめてしまう。
楽しくないことを楽しいものと思い込み楽しむこと。
悲しくないことを悲しいものと思い込み悲しむこと。
怖れなくていいことを怖れなければいけないと思い込み怖れること。
恥じなくていいことを恥じなくてはいけないと思い込み恥じること。
憎まなくてよいことを憎いものだと思い込み憎むこと。
欲しがらなくていいものを欲しがらなければいけないと思い欲し求めること。
世の中を彩る諸々の混乱と苦しみの原因は、実に人々の妄想のなせる業でしょう。

「常に目覚めていなければならない。
正しく思い、正しく行い、正しく生きなければならない。」

ブッダがそういうとき、それはみんなが現実に関わり合っている宇宙のため、世界のため、ひいては他の生命と自分のためです。
なぜか?
だって妄想で生きて悩んで傷つけ傷つけられて苦しむなんて、ハッキリ言って無駄じゃん!
…ということに尽きるでしょう。

理性的・悟性的に苦しみとその源を除き、賢く平安に生きること。
すなわち目覚めて生きること。
それは誰にでもできることだとブッダは言いました。

苦しみを取り除くということ。
それは誰かに認められたり、助けられたり、嫌なものや人に消えてもらったりするということではありません。
そんな他人任せな生き方では苦しみは永遠にめぐりめぐって消えることはないとブッダは言います。
「苦しみがある」ということに対する真に有効な答えは、「苦しむことはない」ということです。
「苦しいという妄想」の際限なき生産を止めることです。
心から妄想が消えれば、それだけ現実がしっかり見れます。
その中で理性的に、よりよい賢明な結果とそこに向かって今できることを分析し実践すればよいのです。

このように、人はいかなる状況にあっても強く賢く平安に生きることができます。
すべては自分次第であり、誰にでもその力と可能性がある。
たとえ周りがどれほど汚れ曇っていても、あたかも泥沼のなかに美しく咲く蓮の花のように、一人だけでも純粋に目覚めていることはできるし、それはとっても明るい生き方です。
そんなブッダのメッセージが、私はとても好きです。
そしてそれはなにより真実であると思います。


16 : 07 : 16 | 諸事観察 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
医学部入学 〜 私が医者になるということ
2008 / 04 / 09 ( Wed )
昨日医大の入学式がありました。
それに先立って大学病院を見に行ったりしました。
医学部というのはやはりこれまでの大学とは異質で、将来の職業、職場というのが明確にあって、そのために勉強すべきこと、勉強すべき意義というのが自明のものとしてある。

私は家族や親類がみな医者であったこともあり、医者の道を外れたところから世の中を見てみたいという思いがありました。だから、お受験コースに無関係に育った小中高の日々、上智での4年間というのは私にとっては通るべき道であったのだと思います。
また、ただ単にまわりが医者だから医者になるという安易な選択だけはしたくなかった。だから、医学部進学の道から隔絶された環境の中で、人生の目的、理想、希望、動機を模索した上智での4年間は、私が医者を心の底から志す上で欠くべからざるプロセスであったと確信します。

人生は様々な模索と過ちの積み重ね。
挑戦と成功の末に自分の本当の能力や可能性が見出され、失敗や過ちの末に誤った幻想は修正され打ち破られる。
そうして人生の焦点は合わさってくるものなのだろうと思われます。

どこでどうやって、どこまで医学医療を研鑽していきたいか、どういった医者になりたいのか、といった選択課題はまだまだ尽きませんが、医者への目的・動機・意欲がはっきりと見出された今、絶やさず研鑽し修練していくばかりと心得ます。

06 : 36 : 03 | Footprint | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
| ホーム |