The Journey : Somewhere Down the Road - 200907

「日本人とユダヤ人」を読むぐらいなら「にせユダヤ人と日本人」を読むべし

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世紀の偽書「日本人とユダヤ人」

 結論から先に言うと、アメリカ系ユダヤ人イザヤ・ベンダサンを騙る山本七平氏により著された「日本人とユダヤ人」は近世稀にみる偽書であり、その内容は無知と偏見と嘘にまみれており、その主張は互いに矛盾し空虚にして意味をなさず、まず読むことをお勧めしない。

 先日図書館でふとこの書を目にし、以前から耳にしていたタイトルであるので読むことにした。自称ユダヤ人イザヤ・ベンダサンによって著され1971年に出版されると、外国人による鋭い日本人論として政治や評論、学問の世界の著名人にもてはやされて、まさに一世を風靡した一冊だ。
 しかし2,3ページめくると違和感を強く覚えた。一章二章読み進めていくと、わけがわからなくなってきた。
 何がおかしいかというと、もう全部がおかしいという他ない。
 単純な事実誤認から、相反する主張の空しい繰り返しから、近視眼的で何の一貫性もない持論の展開から、到底アメリカ系ユダヤ人と思えないような誤解と偏見だらけのユダヤ人論、あからさまに生粋の日本人国粋主義者的思想のダメ押しまで。そしてこれらナンセンスな戯言を権威づけしようという意図が見え見えの、これまたどうでもいい、しかも間違いだらけの聖書・ユダヤ教ネタ。
 これらのナンセンスを、恥ずかしげもなくユダヤ人を騙り、その嘘を通し続けたというところに、この書および著者の極めつけの不快さというものがある。

 もてはやされた日本人論であるが、冷静に見れば矛盾と欺瞞に満ちている。
 もはやことわざと化した感のある、「日本人にとって水と安全はタダ」であるという話にしても、日本のいつどこの話なのか明確にしなければ評論として問題があるが、例のごとく著者は日本人というものを、そしてユダヤ人をはじめとする多国人を、時間的空間的に均一なものとして憚らない。この話にしても、過去から現在にかけてと明言している。
 水と安全がタダなのは戦後復興を終えてからのたかだか数十年の話であり、それ以前の日本には他国と変わらぬ位、戦争や飢饉や疫病に苦しんだ歴史がある。さらには粗相があれば問答無用に武士に切られたり、切腹させられたりといった、日本独特の物騒さもあった。湿潤な土地であるのは確かであるが、水田の水引争いなんかもあったし、関東大震災では井戸水をめぐって朝鮮人が虐殺されたりもした。
 さらに噴飯なことに、「日本人は戦争を知らない、いや少なくとも自国が戦場になった経験はない」と(再軍備すべきであるという文脈で)のたまう。武士や忍者といった世界的に比類なき武装集団や諜報組織を生み出した日本人はどこにいったのか。日清戦争、日露戦争、第一次・第二次大戦を戦い世界を戦場に戦った日本人はどこにいったのか。大空襲に焼けた東京、原爆投下された広島・長崎、悲惨な玉砕戦を強いられた沖縄は日本ではなかったのか。もはや説明は要らない。
 このような健忘症的暴論が全編に展開され、さらに前に言ったことと正反対のことを言うという繰り返しが、本書の基本的な構成となっている。
 このような本書の日本人論は印象としては、右翼思想のおっさんが場末の居酒屋で顔を赤らめながら、半ばろれつの回らない口で吐き出す程度の性質のものにすぎない。中にはネタとして面白いことも言うかもしれないが、著しく思考・判断力を欠いた状態であり、真面目に話を聞いてもわけがわからなくなり煙に巻かれるのがオチである。
 問題なのは、彼が用意周到な確信犯であることだ。ユダヤ人を騙り、一般の読者に馴染みがなく故に正誤の判断が働かないようなユダヤ人ネタ、聖書ネタを随所に散りばめ、でっち上げの体験記まで盛り込んで、さぞ中身のある評論書を演出して見せる。この巧みなペテン師ぶりだけは評価に値する。

 しかしさらに問題なのは、こんな本が大ベストセラーとなり各界論壇においても熱烈に歓迎されたという事実だ。(しかも以後延々と版を重ねている)
 戦争で既存の価値観が完膚無きまでに破壊され、なお経済復興を成し遂げた現代日本人の心に空いたアイデンティティーの穴はそれほどまでに疼いたのだ。(そしてそれは現在にまで至っているように思われる。)
 この山本七平なる、再軍備推進、天皇礼賛、南京大虐殺否定を主張する国粋主義者はその穴を非常に巧みに突いて、普通に著したなら見向きもされないような自らの思想をユダヤ人による比較文化論というハリボテで囲い、まんまと幅広い読者層を誘い込んだのだ。そうして彼の思想に共鳴する輩はさらにこれを利用し、「ユダヤ人が言っているぞ、ガイジンが言っているぞ」とばかりに、こぞってこれを引用し、評論した。
 皮肉にも「日本人とユダヤ人」は、その内容においてではなくその存在を取り巻く社会の反応によって、アイデンティティーに飢える日本人の現状を浮き彫りにしてしまったと言える。

批判本「にせユダヤ人と日本人」の方が面白い件

 虚構と誤認の洪水のような本書は、読んでも脳みその無駄遣いなので読まないほうがよいのだが、この書の批判本となる「にせユダヤ人と日本人」(浅見定雄著)は興味深くも勉強になりおすすめしたい。
 著者の浅見定雄氏はハーバード神学博士であり、聖書を原語で読みこなす一流の聖書研究家。自身はクリスチャンであることからも「日本人とユダヤ人」に対する義憤に燃えておられる。この上なく適材である。
 浅見氏の批判は的確にしてユーモアにあふれ、「日本人とユダヤ人」の分かりにくい文章を逐次要約したうえで批判を展開してくれるので読みやすい。しかも「日本人とユダヤ人」そのものでされているよりはるかに多くて多彩なソースを参照・検討されているので勉強になる。
 「にせユダヤ人と日本人」(だけ)を読んだほうがずっと健全で面白い読書体験となるだろう。



「星守る犬」村上たかし




犬のお話です。
泣きました。泣かざるをえなかった。
心が温かくなって泣きました。

犬って、そのときそのときを生きている。
そのときうれしければ、体いっぱいに喜びを表現する。
飼い主と一緒にいれば、ただそれだけで心の底から幸せを感じているようだ。
そんな犬を見ていると、人間の愛ほど冷えやすいものはないと気づく。


解剖飲み

コヘレトの言葉5章17-19

見よ、わたしの見たことはこうだ。
神に与えられた短い日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ。神から富や財宝をいただいた人は皆、これを享受し、自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむように定められている。これは神の賜物なのだ。彼はその人生の日々をあまり思い返すこともない。神がその心に喜びを与えられるのだから。


と、いうことで夏期解剖研修組の快き面々と久々に飲み会というものに行って飲み食いしてまいりました。
人生労苦を為し、それに相応しい楽しみを得ることこそ実に人の幸せなり。
自らに与えられた労苦に満足し、自らの労苦に与えられた楽しみに満足するならば、その人は実に神に恵まれている。

今日は楽しかった。



「カトリックとプロテスタント―どの..ように違うか」(ホセ・ヨンパルト著) に思うこと


「カトリックとプロテスタント―どの..ように違うか」(ホセ・ヨンパルト著)

 我が母校上智大学で法学部教授をされていたスペイン人新神父の著作。
 カトリックとプロテスタントの共通点と相違点に着目し、日本人の宗教観や社会事情、世界のキリスト教文化、歴史など多様なトピックを交えて説き明かしていく。
 流石日本で鍛え上げられたベテラン法律系神父という感があって、カトリックの視点に立ちながらも他者の立場を忘れない非常にバランスのとれた論述となっています。

 ここまで書いてきて、僕がキリスト教の中でもカトリックに親近感をもっていることに気づく人もいるかもしれない。僕は幼稚園、小学校、大学とカトリック系であったのでご縁を感じている。
 それだけでなく、傍から客観的に見てみて、やはりカトリックが一番安定感があるというか、自分たちの立場を明確に示していると感じる。
 一方、プロテスタントとなるとこれは当然のことながら一枚岩では全然なく、さらには万人司祭であるので個人個人が勝手に聖書を解釈するのが正しいとする。傍から見てると相互に矛盾を抱え、これはもう収拾がつかないことになっているように見えてならない。そしてプロテスタントと自称する人に、しばしば目についてならない攻撃性というものがあるように感じる。というのも、プロテスタントはカトリックに抗議(プロテスト)したが故のそれであり、基が従来の教えからの分裂・否定という要素が強い。なによりプロテスタントのカトリックに対する敵対心たるや、傍から見ていて恐ろしいものを感じる。曰く、聖母マリアや聖人を崇敬するカトリックは偶像崇拝の穢らわしい邪教であると、平然と断定し、糾弾している。
 カトリックの名誉のために言っておくと、聖母や聖人崇敬は決して彼らを神として崇めているのではなく、神への取り次ぎをお願いしているのだ。そして共に神に祈ってくださいとお願いしているのだ。なぜなら善行をつみ信仰に忠実なる者は死後神に近くなると信じるからだ。(これは亡くなった祖先や偉人を神や守護霊として祀る日本人の宗教観にも非常に親しみがある信仰のはずであるのだが、残念ながらそういった面での理解はまだないようだ。)
 プロテスタントはカトリックから分裂したのに飽きたらず、世界中で多くの宗派に分裂し、今や世界でその数三万を数えるという。それだけ彼らは自分たちの立場を正当化することに懸命なところがあるし、聖書だけしか信じないという建前上それだけ聖書を読み込み勉強する人が多いのも確かだ。疑問となってくるのはプロテスタントの牧師の存在意義だ。万人司祭という建前上、牧師には信徒に勝る何の地位も本来認められていない。そこで彼らは如何に刺激的に、如何にエンターテイメント性の高い説教をするかということに精を出す。そこで人気が出るとスタジアムのようなメガチャーチでバンドコンサートさながらの派手な舞台に躍り出る。そこまで登りつめると彼らは多大な収入を得ることが出来る。アメリカの牧師の多くがこのような野望を抱いており、それはもはやショービジネスである。そんなアメリカの牧師の実に半数近くが、実際には神を信じていないというサーベイが発表されて驚いた記憶があるが、然もありなんといったところである。
 しかし僕自身洗礼も受けず、自分で勉強しているだけであるのだからプロテスタント的である。いわば無教会主義者といったところだろうか。
 カトリックの教会で洗礼を受けようと思ったことは何度かあるが、未だ果たせずにいる。神道仏教のみならず怖いプロテスタントの人たちの矛先にまで立つのは勘弁なのである。笑

※プロテスタントといってもいろいろあります。わたしがここで述べたプロテスタントに対する疑問に当てはまるものも一部のなかの更に一部の人たちだろうと思いますので悪しからず。みんな平和に生きましょう。



「日本人はなぜキリスト教を避けるのか?」(勝本正實著) に考える


「日本人はなぜキリスト教を避けるのか?」勝本正實著


 人口のわずか1パーセントしかクリスチャンがいないという点で、世界的に見てめずらしい国日本。
隣国の韓国では人口の3割以上がクリスチャンとなったのに比べて、「日本はキリストを受け入れなかった」と言われる。
 その原因をたどっていくことで、日本の精神文化を浮き彫りにしていく意欲作。

 一般に日本は八百万の神を拝する”寛容”な宗教土壌があると言われるが、それではキリスト教徒がかつて厳しく弾圧されたことも、未だにキリスト教が受け入れられないことも説明が付かない。
 結局のところ日本は”厳格な多神教”である、という趣旨の本書の主張は的を射たものであると思われる。
 日本人は、「あれもこれも信仰」は寛容に受け入れるが、「これだけ信仰」は厳しく弾圧しようとする思想的傾向がある。それは農耕民族として共同体を維持して生き残るために受け継がれたDNAなのかもしれない。それはたとえば「空気を読め」とかKYとかいう昨今の流行にも色濃く反映されている。そこでは個人の思想信条は共同体の前に無力であるべきとされ、共同体の”空気”にあわせて千変万化する個人が望まれる。

 キリスト教導入の不良も大きな原因だろう。
 フランシスコ・ザビエルが初めて日本に宣教に訪れたのが16世紀中頃。その頃の日本は中華思想、即ち中国文化が最も先進的で、西洋は野蛮である(南蛮人)という世界観を全面的に受け入れていた。マラッカでアンジローという日本人に出会うまで存在すら知らなかった日本の民を注意深く観察したザビエルは「今まで出会った異教徒の中でもっとも優れた国民」であると高く評価したが、キリスト教で罪とされる同性愛が寺院などでも公然と行われていたことに布教の必要を強く感じた。ザビエルは賢明にも日本人が中国を深く敬愛していることを見抜き、中国を教化すれば自ずと日本も教化されるだろうと考え中国に戻る途上で客死した。
 もし中国で布教が進んでいたなら日本での布教が大きく前進したことは疑いようがない。仏教にしても、中国で東洋化され、朝鮮を経て咀嚼されたものを初めて日本人は受け入れた。突然見たことも聞いたこともない南蛮人がやってきて、ラテン語の教えを紹介されても、当時の日本人にはハードルが高すぎたことだろう。しかしそんな中でも少なくとも人口の1パーセント以上がクリスチャンとなった。
織田信長は新しい物好きであったのでキリスト教も面白がって受け入れた。しかし秀吉はその教えが彼の目指す天下国家と相容れないと考え、キリシタン追放令を出し信者を弾圧し、家康・江戸幕府はこれを徹底させた。
 このキリシタン弾圧は凄惨を極めるものだった。どこぞの本では優しい日本人による優しい弾圧だったなどと書いてあるが、大間違いである。踏み絵や相互監視で信者は徹底的にあぶり出され、信仰を棄てるか死ぬまで拷問にかけた。痛みを増すための竹のノコギリでひいたり、死ぬまで穴の上に逆さ吊りにするほか、水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前でその子供を拷問するなどその過酷さ陰惨さ残虐さは、世界史のいかなる宗教弾圧と比しても決して”優しい”などと呼べる代物ではなかった。
 日本でキリスト教が避けられるのは、避けなければならなかったこうした歴史が未だ清算されず記憶の暗部に残っているからではないかとも、思われてならない。

 日本人は先に述べたように、消化機能が特殊である。幼少時代より、親しみのある中国・朝鮮といった東洋文化に咀嚼されたものを厳選して取り入れてきた。仏様も東洋人となって初めて受け入れることができた。とは言えこれは何ら日本人に特別の傾向ではない。西洋人もまた同様、キリストを、マリアを、白人にしてしまった。
 このような咀嚼過程は東洋においてもあって然るべきだっただろう。しかし歴史はそれを許さなかった。故に日本においてはキリスト教は歴史的な固着という共同体宗教としての条件を欠いている。故に日本におけるキリスト教は専ら個人によって発見されなければいけない性質のものである。しかし日本人は個人の思想信条を共同体の下位に置く。故に日本人はキリスト教を避けるということも言えるのではないだろうか。


終末の徴 マタイによる福音24章3-12

マタイによる福音24章3-12

 イエスがオリーブ山に座っておられると、弟子たちがやってきて、ひそかに言った。
 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わる時には、どんな徴があるのですか。」

 イエスはお答えになった。

 「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしこそ救世主である』と言って、多くの人を惑わすだろう。
 戦争の騒ぎや噂を聞くだろうが、慌てないように。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。
 また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまづき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。
 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。
 しかし、最後まで堪え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりがくる。」



 イエス・キリストは愛の教えを説いた。だからキリスト教は愛の宗教であると、一般には言われている。
 しかし同時に、キリストは来るべき終末と最後の審判について、明確に語っている。イエスを信じない者にとってそれは脅しととられ、嘲笑と攻撃の的となる。しかしもしイエスが本当に神の座に寄り添う者であったなら、真の預言者であったなら、それが聖霊の言葉であったなら、それは真実であり、それは全人類が例外なく心しなければいけないこととなる。それはもはや単なる一宗教の決めごとという範疇ではない。

 ここでイエスは終末の時の前兆について語っている。
キリストの名を騙る者、我こそは救世主なりと言う者といえば、オウム真理教の麻原や○一教会の文○明が思い当たる。どちらも多くの人を信者に従え、その信者たちが教団の名を隠した布教活動や霊感商法、ダミー組織を通じてさらに多くの一般人を惑わしてきた。このような人たちがさらに大勢現れるのだろうか。
戦争の騒ぎや噂は、イエスが言うように、いつの時代にも起こるに決まっている。人間の悲しい定めだ。しかし世の終わりが近づくと方々に飢饉や地震が起こるという。世界人口が爆発的に増大した現在、異常気象をきっかけに爆発的な飢饉の蔓延がいつ起こるともしれない。だがこれもまだ始まりに過ぎない。
イエス・キリストの名のために信じる者は憎まれ、迫害され、多くが信仰を棄て、裏切りと憎しみに陥るという。偽預言者というのはキリスト教内の分裂を指すのだろうか。現在様々なメディアでキリストの教えを歪めたり、キリストの存在を否定したりする活動が活発になってきている。それは非常に巧妙であるので多くの人は気づかない。またそれらの多くは流行やエンターテイメントの皮をかぶっているので、人々は喜んでこれを迎え入れる。キリスト教は今まさに迫害の渦中にある。
そして不法がはびこるので多くの人の愛が冷えるという。世の中が相対主義の専制を迎え入れ、発達したメディアには嘲笑、暴力、セックスが氾濫し、堕落が進歩や成長と同義に解釈される現代。日々異常な殺人や虐待やいじめが延々と報道され、人々の意識から人間らしさの基準が失われていく現代。まさに多くの人の愛が冷えている。
そして終わりの時の前に、キリストの教えが全世界に宣べ伝えられるという。これもまた、ここ100年の間にようやく現実となった。今や聖書は世界中のほとんどすべての主要言語に翻訳され、今も絶えることなく出版され、多くの人の手に入っている。手を伸ばせばそこにある。今やその教え=福音を学ぶか否かは、一重に個人の選択に委ねられている。

 こうしてみると、終わりの時が訪れる条件は、今日になって遂に揃ってきたと言ってもいいかもしれない。
 あるいはもう既に始まっているのかもしれない。
 神は空間も時間も超越した存在であるから、それがいつどのように現れるかは人の理解を超えている。
 しかしそれは必ず訪れる。始まりのあるものは必ず終わる。キリストはアルファでありオメガであるから、その時には彼自らが手を下される。そして人々の肉体はみな滅び、すべての人の霊魂は審判にかけられるのだ。



 興味のある人は「イエス・キリスト 異次元からの宣告.」(八島高明著)に詳しいので参照してみてください。



ベンジャミン・バトン 数奇な人生




”遅すぎることは何もない
望みはきっと叶う
いつ初めてもいいんだ
変わるのも変わらないのも自由だ
結果が最高でも最悪でも 最高であることを願うけど
驚きを目にし 感じたことのないことを感じて
さまざまな価値観をもつ人たちと出会い
誇りを持って生きるんだ
道を見失ったら 自分の力できっとやり直せる”


ブラッド・ピット主演
老人の体で生まれ、年と共に肉体が若返っていくベンジャミンの生涯を描く。

この映画からは生きることへの愛が感じられる。
肉体が若返っていくという設定は良くも悪くも映画を際だたせるためのギミックに過ぎず、作品のテーマに不可欠な要素ではないように感じる。
なによりも、一筋縄ではいかないけれど、求める者には驚きと感動の出会いがもたらされる人生への賛歌であることがこの作品の本質であると感じる。

観る前の印象ほど目新しくはないが、それだけ素朴で味わいのある作品でした。

8/10点



「イエス・キリスト 異次元からの宣告. 〜 「聖書」は神からの手紙だった」



「イエス・キリスト 異次元からの宣告.」八島高明著

 イエス・キリストと異次元が並ぶタイトルからしてニューエイジ的な、破天荒スピリチュアリズム的な匂いがぷんぷんと漂ってきそうな本書ですが、ですが!これがなかなかまっとうな内容で最後まで一気に読んでしまいました。
 意外にも(聖書解釈に独特なものがあるものの)本筋は正統的キリスト教に適ったものとなってます。

 この著者は、高野山大学密教学科を出られ、仏教、密教、ヨーガ、神智学、人智学、哲学などを研究し、最後にたどりついたのが聖書であり、イエス・キリストであったという背景をもっています。
 なので「なぜキリスト教なのか」という点を筋道立てて説明されている点、キリスト教入門の副読書としても面白い本となっています。

 特に最後の審判、世の終わり、終末の預言について全四章のうち一章が割り当てられており興味深いところです。
 またキリスト教の神智学的解釈、輪廻転生思想や東洋思想の組み込みによる独自の心魂的解釈が試みられている点も一見の価値があります。


共同体宗教と信仰宗教


 最近ラビの書いたユダヤ人の生き方についての本を読んでいるが、興味深い記述がある。
 このラビ曰く、ユダヤ教を含む世界のほとんどの宗教は信仰や思想よりも共同体や人との結びつきから生まれて大きくなったものであり、規範を重視する仏教宗派を例外として、信仰と神学を重視するキリスト教のような宗教は世界的に希有であるという。
 彼曰く、ユダヤ教は宗教以前に民族であり、キリスト教のように洗礼や信仰告白を必要とすることもない。ユダヤ人だからといって皆が信心深いわけではなく、ただユダヤ人という共同体の結びつきは大切にする。そこでは人間が神に責務を負う以上に共同体の一員であることに互いに責務を負うという。
 この話が本当であるならば、それは日本人が培ってきた宗教感情に極めて似ているといえるだろう。神社にお参りにいくのに決して洗礼や信仰告白は必要なく、そこでは神学や神話の理解云々は必須事項でなく、むしろ国家や地域共同体の一員として自然に培われたしきたりや、祭りにかかわる共同体内でのコミュニケーション、共同体の一員としての自覚がその動機であり目的のように感じられる。

 考えてみれば、神道に”改宗”しますなんていう話は聞いたことがないし、神社に行って”入信”しますなんて言っても真に受けてもらえないだろう。
 同じことが実はユダヤ教にも少なからず言える。無論一神教であるので神道ほど緩くはないものの、ユダヤ人でありさえすればどのような信仰であろうとも、あるいは無信仰であろうとも、同じ共同体の一員としての責務を果たしていれば深く問われることはないという。そしてユダヤ教は神道と同様に、布教をするということがない。ユダヤ人の家に生まれればユダヤ教徒であり、それ以外に共同体の枠を超えて広く教え広めるという動機はほぼ全くない。
 日本人にとっての神道、ユダヤ人にとってのユダヤ教というのはそれだけ自明のものであり、自然なものであり、前者は日本という土地に、後者は民族の歴史に深く根を下ろし、それを共同体外の異民族に広めようという発想は生まれてこないものなのだろう。

 これに対してキリスト教は共同体の前に信仰がある。信仰なくしては共同体が成り立たない性質のものだ。キリスト教カトリックの家庭で新生児に洗礼を授けるのは、逆に言えば人間は自然な状態ではその信者に数えられないことを示している。(だからといって非信者が救われないと言っているのではなく、信仰に適った善人は救われるとしている。)
 共同体宗教であるユダヤ教を包含しつつ、イエス・キリストを媒介として共同体から独り立ちしたキリスト教はそれが故に全世界、全人類に普遍的に波及し得る契機を得た。そして世界中各地で土着の共同体宗教を駆逐する形で拡大した。
 同様にイスラム教も、それぞれの神を崇め互いに略奪と抗争に明け暮れていた砂漠の部族を一つの信仰のもとにまとめ上げ世界的に勢力を拡大した。
 しかし日本では苦戦を強いられた。これはキリスト教圏から見て地球の裏側であるという地理的条件に加え、仏教や儒教と共同体宗教である神道が絶妙に手を結んだ日本の宗教的土壌が如何に特殊で堅固であったかを思い知らされる事実だろう。

 仏教はどうか。仏教も共同体を超えた宗教だ。
 ブッダ個人の悟りに始まり、共同体から文字通り脱ける”出家”を手段であり義務とする仏教は、ある意味最も共同体を超越した宗教かもしれない。
 ただ、ブッダの教えはそもそも信仰ではなく理解にこそ重点を置くという点で、本来は宗教という枠に必ずしも入らないように思う。一方、ブッダの教えは彼の生きた土地と時代の共同体宗教の思想を土台としているという点で、キリスト教に似た特性をもつ。即ち、土着の共同体宗教における輪廻転生やカルマの思想が、ブッダを媒介として普遍性をもった世界宗教に改革されたという性質をもつ。キリストもブッダも、共同体限定の宗教土壌から純粋で普遍性のある果実(愛と悟り)を実らせという点で解放者と呼ばれて然るべきだろう。

 共同体宗教と信仰宗教。両者の違い、特性に着目し、その文化的、社会的役割を見ていくとおもしろいかもしれない。


ノウイング

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50年前のタイムカプセルから受け取られた一枚の紙には、過去現在未来の大惨事の日時と犠牲者の数を記した数列が書かれていた。一体なぜそのようなことがあり得るのか。何のために。その未来が予想する恐ろしい事件とは。

あっとおどろくミステリーは数あれど、この作品の真相には一本とられました。
最後は鳥肌たちました。

子供の名前にピンときてください。
聖書を読んでいくといいことがあるかもしれません。

9/10点


「仏教・キリスト教・イスラーム・神道 どこが違うか」大法輪閣




 先日紹介した「ユダヤ教VSキリスト教VSイスラム教」(一条真也著)と「なぜ人間には宗教が必要なのか」(ひろさちや著)が、比較宗教学的な題を冠していながら非常にバイアスがかかっているという点で悪書であるのに対して、この「仏教・キリスト教・イスラーム・神道 どこが違うか」(大法輪閣出版)はその題に忠実に役を果たす良書であるということが言える。

 本書では仏教・キリスト教・イスラーム・神道の四宗教について、その教義、世界観、戒律、歴史など様々なトピックに対する各々の立場を、各宗教の教師の口から語ってもらうものであり、各宗教のコラムが上下四つに分けられ、同時進行に読み進められる構造となっており面白い。
 偏った先入観や信条が絡んだ人物が都合のいい情報を都合のいい解釈で評価し断罪するような書ではないというところが重要であり、真の宗教間理解をすすめるのはこういう姿勢である。
純粋に各宗教の違いが知りたいと願う読者には本書が最適のものとなるだろう。


「ユダヤ教VSキリスト教VSイスラム教」一条信也



 題名そのままに三つの啓典宗教の特徴をその教義や歴史から解説していこうとする一冊。
 非常にバイアスがかっていてガッカリしました。
 理由は先日書いたひろさちや氏と同じです。
 親ユダヤ、親イスラム、反キリスト。この構図はどうやらセットでついてくるようです。
 特にこの本ではイスラムに露骨に好意的な傾向が見て取れます。
 ムハンマドの人格を礼賛するのは別によいのだが、イスラムの教義や文明の先進性を絶賛したり、オスマントルコが歴史上最高の帝国などと呼んでみたり、シーア派とスンニ派は大した分裂ではないと問題を矮小化するなど、イスラム文明を手放しに持ち上げるような姿勢に危うさを感じる。いや、別に手放しに持ち上げるのも結構なのであるが、それがキリスト教を相対的にこき下ろす材料とされているところに不快感を覚える。
 本書のなかでひろさちや氏の著作が参照されているあたり、親イスラム反キリストという思想が循環している様が見てとれる。

 いわゆる進歩的文化人に顕著な親イスラム反キリストという姿勢の起源はどこにあるのだろう。
 おそらくこういう人たちはテロなどなにかときなくさいイメージがつきまとうイスラム教について画期的なことが言いたい、そのため西洋メディアが取り扱わないイスラム発信のメディアを読みあさる、すると当然そこではイスラムに反する情報は厳格に検閲される情報世界であり、そこに自ら飛び込み、また現実のイスラム社会を身近に感じることもないので、客観的な立場を見失ってしまうのではないだろうか。
 また、本著者である一条真也氏は冠婚葬祭会社の社長であるということだがおそらく仏教系だろう。ひろさちや氏はもちろん仏教推進主義者である。二人は反キリストである。となると敵の敵は味方であり、ましてや隣り合って住むことの滅多にない者なら好都合である。白羽の矢が立つのはイスラム教であるということではないだろうか。 

 まとまった情報量の多さ、特にイスラム教については非常に熱心に書かれているので、イスラム教に興味のある人にはとても参考になる一冊です。


ひろさちやの「なぜ人間には宗教が必要なのか」を読んで考える、というか仏教とキリスト教について



ひろさちやさんというと仏教にはまっていたときは割といい印象をもってみていた記憶がある。
しかし今回改めて読んでみると、がっかりさせられるものが多かった。

この書は各宗教の特徴を比較する構成となっているが、最終的には仏教が最高で、イスラム教やユダヤ教というのが他にあってそれぞれに良さがあるが、キリスト教はろくでもないものだ、といういかにも日本人の文化人らしい偏見と独断でもって書かれている。
比較内容も自説に都合のいい偏見でしかなく、たとえばキリスト教でもカトリックやプロテスタント諸宗派で教える内容が大きく違うことなど全く考慮に入れず、予定説だなんだと言ってはばっさりと切り捨てているのには開いた口がふさがらない。

宗教音痴云々を語っていながら、ひろさちや氏本人が大変独断と偏見と(自説への)自惚れの強い宗教音痴であることに、いかほどの自覚をもっているのか、首をかしげざるをえないものがある。
本書は宗教音痴の日本人が読んで宗教音痴がなおる等というものでは到底なく、諸宗教を勝手に単純解釈して優劣をつけるような、より悪質な宗教音痴に導く可能性のある悪書であると言う他ない。





キリスト教というのは仏教徒のような偏見のある人間に目の敵にされやすい。
確かに仏教とキリスト教は似ているところもあるが正反対のところもある。
たとえばキリスト教では愛は至上のものとされる。そこでは信仰でさえも愛より下位のものであるとされる。そこで説かれる愛は決して利己主義のものではない、無私の愛、アガペーだ。
対する仏教では、愛は悟りの障害でしかない。仏陀は妻も子供も捨てて悟りを求めた。子供には”障害”という名をつけた。
また、キリスト教(カトリックと正統的プロテスタント)では人は皆神の前で平等であり、皆等しく罪人であり、皆が生きる意味を与えられている。
対する仏教では、人は皆自らや祖先が前世や現世で犯した業(カルマ)の結果を受けているにすぎず、そんな生の営み、カルマによる輪廻は本質的に意味がなく、故に悟りを開いて解脱することが目標となる。極楽浄土も地獄も、もともとの仏教にはありはしない。ただ涅槃があるのみだ。

僕はこれまで何度か仏教に傾倒してきたし、(ひろさちや氏を含めて)いろいろと読みあさってきた。そこで気づかされるのは、やはり仏教というのはその始原において宗教ではなく、仏陀による自己修練法であるということ、そして日本やチベットにおけるような大乗仏教というのはシルクロードのどこかで一神教やヒンドゥー教その他土着宗教が混合し、仏陀が神の座にすげ変わったものであるということだ。
そもそも日本においては仏教導入の根拠は疫病を抑えるためだった。そう、日本には仏教は”力のある神”として輸入されたのであり、それは本来の仏教の姿とはかけ離れたものだ。そして仏の輪廻という概念は神道の八百万の神が仏の生まれ変わりであるという概念に都合良く翻訳され、神仏習合という形が形成されてきたのだ。

世界史でみても、仏教というのは非常に足腰の弱い宗教だった。滅多に広まらず、動乱が起これば一瞬で消え去った。それはもともとが宗教ではなかったからだという一点で容易に説明がつくように思う。
もともとが宗教ではないものが、神への思い、永遠への思いを捨てきれず、一神教や多神教のような形をとっているのが大乗仏教である。そこにより本源的で堅強な神信仰が入ってきたら、容易く宗教としてその座を明け渡してしまったことは想像に難くない。
その本源的で堅強な神信仰の目下トップランナーこそキリスト教であるが故に、ひろさちや氏のような仏教推進主義者にとって嫉妬と羨望の的になる。そしてキリスト教を貶めて相対的な優位性を吹聴することに、自らの正当性を求めてしまうのだろう。この傾向はエホ○の証人、○一教会のようないわゆるキリスト教系カルトにも極めて顕著である。

僕にとって仏陀の教えは大変合理的で魅力的なものである。僕自身何度も仏陀の教えに傾倒し、キリスト教などインチキで、煩悩にすがる間違ったものであると考えたものだ。しかし現実のこの世界をよくよく見てみると、それは仏教で強調されるほど無常でもなければ、カルマの法則で説明できるほど合理的でもない。幼くして病に倒れたり障害をもって生まれてくる子供に、いったい何の業があるというのか。
悟りを開くと言うことも、突き詰めると疑問だらけだ。自らが神のように振る舞い、考えたとしても、人間は人間でしかない。生を否定して行き着く先に宇宙の英知があったとしても、そのように真に悟った人というのはその時点で即身仏、文字通りお陀仏してしまうわけであるが、そんな方ならば僕は大変尊敬する。しかし今現に生きて教団のなかでふんぞり返っている方々は結局そんな覚悟がないのに悟りを語り、お布施で高級車を買ったりステーキを食べながら般若湯といって酒を飲み、おまけに神を信じないわけだから、これは大変堕落したものだと感じる。少し熱心になると今度は空中浮遊できると言い出したり他人をポアすると言ってはサリンを撒いたりする。いや、そもそもすべての人類が悟りを開いたら絶滅してしまうわけであり、これは我々のネイチャーに反するではないか。
悟り、それは緩やかで思慮深い自殺に他ならないではないか。

そんな時、キリスト教はまったく逆のものを力強く見せてくれる。
生への無条件の愛と肯定。罪とゆるし。神への祈りと希望。
煩悩だろう。盲信だろう。
しかし人間はどこかで心の底から自分の価値を、自分の意味を、盲信していいと思う。すべきだと思う。そうでなければ、他人の価値を真に認めることも、真に自分の人生を生きることもできないのだから。


p.s.
ちなみにキリスト教カトリックの理解では、いかなる神仏であろうとも信仰心は常に神に向いているものであり、神の恵みにあずかるものであるとされています。
僕とて四国遍路に行った身であり、大乗仏教であれ神道であれ何であれ、今そこにある信仰には何の落ち度も劣るところもないものであると信じます。



シティ・オブ・メン

cityofmen


シティ・オブ・メン

「シティ・オブ・ゴッド」の監督による作品で、前作のファンの期待を裏切らない出来です。
物語は「〜ゴッド」同様ブラジルのスラム街、ギャングの抗争を背景に二人の青年の友情と家族愛のドラマが描かれる。
映像は「〜ゴッド」のときと同じように、オーガニックで生々しい、南米の熱気と太陽のぎらつきが臨場感たっぷりに映し出され、そこに生きる人間の活き活きとした生活感が伝わってくる。ほんと、観てるだけでおもしろい。
そしてキャラクター。スラム街の素朴だけどエネルギッシュな住人たち、乱暴で恐ろしいけど憎めないギャングたち。スラム街という無法地帯が逆説的にもつ、文明社会のシステマティックな縛りから自由な人間らしさというものに、都市型人間は魅力を感じるところがある。そこをうまく突いてくるのがこの監督の才覚ということなのだろう。
あとブラジルという地の、混血が進み人種的隔絶感が少ないところや空間的な混みいり具合なんかに、日本人として親近感を感じるところもある。


9/10点



RIZE

rize



映画「RIZE」はサンフランシスコのいわゆる低所得層に類するアフリカンの間で自然発生的にもちあがってきたダンス・ムーブメントのドキュメンタリーになります。
このダンスは準ずるスタイルなどなく、音とソウルに身を委ねて激しく体を動かすような、あたかもアフリカ大陸の遺伝子が目を覚ましたかのような野性的なもの。ただこの映画が焦点をあてるものはダンスそのものではなく、ギャング、麻薬、人種差別、犯罪の横行するアメリカのゲットー社会のただなかで成功や更正のチャンスを求めてやまない人々のすがた。
アフリカンのエネルギーや、本場B系のワルなオーラにただただ圧倒される。僕があんなところに放り込まれたら速攻で夜逃げします。笑
アメリカの華やかさの裏にある過酷さというものを改めて思い知らされる。同時に、その過酷さを受け入れ、懸命に良き道を模索し生きようとする人々に頭が上がらないものを感じる。

8/10





2PAC - Ghetto Gospel





商業宗教の台頭

 近しい人に、不可解な団体に傾倒している人がいる。
 この団体では様々なエネルギーを伝授する超能力をもった会長(というか教祖)がいて、一回何十万円も払ってエネルギーを伝授してもらうらしい。教義も何もなく、ただショッピングのように金を払えばエネルギーを所有できるとするシステムで、宗教法人登録もしていない、至って”フツー”の”科学的”な団体だという。

 そのエネルギーには、健康になる、頭が良くなる、人間関係がよくなる、などなど一般的に思いつく”御利益”が網羅されている。
 それぞれに高額の料金設定がされているが、実質的な内容はほとんど変わらないようだ。即ち、会長が出てくる、風変わりな身振りをする、そして「はい、終わりました」の一言。
 これって結局は、神社やなんかでお賽銭入れてもっぱら自分の利益を祈る、さして信仰心に篤くない日本人の心理に迎合したご利益信仰に他ならないのではないか。
 ただ、そこでの神主であるのは会長である(端から見たら)何の変哲もない一人のおじさんであり、一分もかからない”エネルギー伝授”の儀式に何十万円も要求する。
 そして当の会長本人はどうして”自分だけが”その能力を使えるのかについて、「よく分からんけど、科学なんです」という趣旨を繰り返すだけのようだ。
 なんだかいろんな次元でつっこみどころが多すぎるような気が…。

 この話、思い返してみると、アメリカで似たような団体があって、それが今大変問題になっていることを思い出しました。
 サイエントロジーというその宗教団体はトム・クルーズやウィル・スミスといったセレブを抱き込んでスポットライトを浴びています。
 この団体の教祖はなんとSF作家。
 当初はダイアネティクスという自己啓発・開発系の本を売り出し、それに基づくセラピーなどを催していたのだが、だんだんと拡大してくると、さらなる利益を得るために宗教にすることを思いつき!、突如宗教法人と化します。
 その教義はいかにもB級SF作家がその場しのぎに適当につくったのが分かる、突拍子がない物語であり取るに足らないものです。(実際教団でも適当に扱われている)
 問題なのはその運営で、一種の心理分析セミナーのようなオーディットなるコースやセミナー(大変高額)を受けることが信者生活の基本となるのですが、そうしたコースの受講歴などから信者に階級を与え、階級が上がるにつれて秘密の奥義が伝授されるなど秘密結社のような構造もとり満足感を与えると共に依存心も強めます。
 そこでは何をするにも大変高額な金銭と引き替えの”サービス”であり、相互愛や弱者保護の精神のかけらもない、すなわち宗教では毛頭なく、ネズミ講まがいの詐欺でしかない。
米国ではこの教団による、宗教活動の皮をかぶった執拗な金銭要求により経済的にも精神的にも苦しめられる人々、果てには自殺者も続いています。

 ”科学”であることを強調し、当初は宗教法人ではないところ、教義も何もないところ、多額の金銭と引き替えのサービスが主体であるところなんか、上の団体に似てます。



 こういったものにはまる人には、それだけいろんな理由や事情があるのだろう。
 マーケティングにおいて、高級志向の富裕層には高く売るほどよく売れるという。それがたとえ廉価品と何ら本質的に違わなかったとしてもだ。
 同じように、人と違う性質や悩みがある人にとって、”特効薬”は珍奇であればあるほど魅力的に感じるのかもしれない。
 それ自体、他人が責められるものではないし、嘲笑したり蔑視したりする資格は誰にもない。
 そこでいろいろ思い、考え、学び、感じるものがあるならば、当人にとってそれは意味のあることなのだし、僕自身人一倍そういった気持ちはわかるしリスペクトする。

 しかしながら、本質的には金銭しか眼中にないような商業カルトにはまるのは、当人や周囲の人にとっても、増長する詐欺的集団を抱えることになる社会にとっても、有害であるのではないだろうか。
僕が指摘した時、その人はキリスト教や仏教のような普遍宗教をさして、どれも金をとるから一緒じゃないかと憤ってしまった。しかし僕はそこは全く違うと思う。
 普遍宗教の信仰に金など要求されない。聖書は無料で配布する団体があるし、仏教典だってそうだ。そもそもこれら普遍宗教はそのはじめから現世の蓄財を忌避し、長らく貧しい者や病める者を受け入れ扶助してきた唯一の機関だったと言ってもいいだろう。それを上のような、貧しい者などそもそも眼中にないような商業宗教と比較するのは、無知以外のなにものでもない。いや、普遍宗教に批判的な態度とカルトへの傾倒が関連しているとするなら、そこには無知以上に屈折したものを感じる。

 科学云々というのも滑稽な話で、上の二団体の言動に科学的合理的な根拠は見いだせない。まさに似非科学だ。
 そもそも科学に答えを求めるならば、もっと他に勉強することや考えることはたくさんある。
 ただ言えることは、金さえ払えば信仰も善行も自省も関係なく相手するという点で、極めて商業的であるということは言える。そこが現代社会にマッチしているようで魅力を感じるのかもしれない。しかしそんなところに言われるがママに金をつぎ込むことに人生の解決策を求めることは、客観的に見てはなはだ危険だ。
 もういろいろ投資してしまったからと情報閉鎖するのでなく、視野を広くしてもうちょっとよく考えてもいいのではないかと思うばかりです。



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