「ルパン三世 GREEN vs RED」
「ルパン三世 GREEN vs RED」鑑賞。
久々にルパンでも見ようかなってことで、やけに渋そうなコレを借りました。
東京が舞台の、リアリスティックな背景描写が特徴的。
背景がリアルなだけに、内容のシュールさが際立つ。
この映画、ルパンが同時にたくさん出てきます。
ルパンになりたくて、ルパンになろうとしている人たちで、偽ルパン大量発生。
で、康夫っていう冴えないラーメン屋店員のあんちゃんが、本物のルパンと張り合って、勝ったほうが本物のルパンだ!ってやりあって、巨大なロボットが出てきたりして…はい、もう訳がわかりません。
でも雰囲気はいい。
メッセージ性もなかなかパンチがきいている。
憧れと現実のギャップは埋められるのか。ルパンになりたい。なれるのか。
オタクのアイデンティティー問答のようなものが繰り広げられています。
別にアニメオタクというわけでもないんだけど、なんだかしっくりきちゃいました。
いわゆる「負け組」なワナビー・ルパンたちの生活描写が、どこか自分にオーバーラップしちゃって…。…はい、そういうのが分かっちゃう人向けの作品だと思います。
8/10点
貧病争
戦後の日本では「神々のラッシュアワー」と呼ばれる、新興宗教の乱立が起こった。
人々は宗教を求めた。それがたとえ即席の宗教であっても。
その原因は戦前の体制からの反動や敗戦による精神的・経済的ショックなど多様である。
しかしその根本は“貧病争”の一語に尽きる。
これは別に新興宗教に限らない。一部の秘教的、差別的宗教を除き、あらゆる宗教において、貧病争は強い求心力となる。
およそ人が真に神仏を求めること、神仏のみを求めることは、絶対的絶望の体験なしには有難い。それこそイエスが言ったように、ラクダが針の穴を通るほど有難い。
逆に言うと、人生において貧病争に悩み苦しみ抜き、どん底まで突き落とされること、それは実は尊いことなのだ。どん底に至って初めて、人の心は神に、仏に向けられようとするからだ。
仏陀はすべての人が生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦からなる四苦八苦に定められていることを明らかにされた。苦しみを知り、苦しみあることを諦めて、初めて本当に尊いもの、慈悲を、涅槃を、知り得るのだと、仏陀は悟っておられた。
イエスは「心の貧しい者は幸いである。天の国はその人のものだからである。悲しむ人は幸いである。その人は慰められるであろう。」と山上の説教で明らかにされた。貧しい者、病める者、罪人たちにこそ手をさしのべられた。そして自らの肉体と精神の極限的な苦しみによって、人の苦しみの極みを受けいれられて初めて、われわれの罪の贖い主となり、今苦しむ者への救いを体現された。
貧病争に身と心を「病む」ことは罪でもなければ、恥ずかしいことでもない。
自ら貧病争に勝るものと自惚れることの方が、実は罪深く恥ずかしい。
苦しみに遭い、苦しみを悟ることは、救いに定められているということをわたしは確信する。
自分を諦め、他人を諦め、ただ神に、仏に、より頼む者は幸いかな。
平和と自殺率の関係
<・自殺者数、過去最悪に迫るペースに警察庁のまとめによると、7月の全国の自殺者数は2753人で、前年同月を101人上回ったことがわかった。1月以降、すべての月で前年を上回っている。また、1月からの累計は1万9859人で、過去最悪だった03年に迫るペースとなっている。 >(日テレNEWS24 - 08月29日 02:34)
「平和」国家、日本は先進国でも最も自殺率が高い部類に入る。
この自殺率であるが、先の大戦で興味深いことが起きた。戦争が起こると、世界中で自殺率が激減したのだ。
わたしは思想家や運動家、教育者、政治家たちの言う「平和」を信じない。
なぜなら彼らが賛美し、推進・維持・強化しようとする「平和」の名の下に、多くの人々が抑圧され、排斥され、身も心も苦しめられているからだ。そしてそのことを誰も省みようとしない。彼らの賛美する「平和」の足下に潰され、身動きが取れなくなった人たちを省みるものはいない。
そこでは争いの根本原因を明らめようとも、改めようともされない。それでは決め付けの平和、押し付けの平和でしかない。
そんな彼らの「平和」はともすれば偽善者の平和、排他的で独りよがりな平和でしかない。
大体、「平和」を主張する人々の態度が平和的であること自体稀であることに疑問を抱かなければならない。
真の平和とは何か。その原点となる言葉から探ってみよう。
『ヨーロッパ統合とキリスト教』(坂本進、新評論、2004/12/10)参照。
・日本&韓国 平和、中国 和平
平和、講和、仲直り、和解、公平、バランス。「和」は人々が穀物を口にして飢えのない状態を表している。
・英語 Peace、フランス語paix、スペイン語paz、イタリア語pace
日本人がよく日本語の平和と同義に捉えるピースpeaceの由来はラテン語のpaxからくる。それは「平和」と同時に「協定」を意味し、協定を結び休戦、終戦することが平和であるとする、政治的色彩の濃い言葉でもある。
・ギリシャ語 eirene
戦争がない状態を意味する。アリストテレスが「われわれは平和に暮らせるように戦争をする」と語った思想的背景にも関係している。
・ドイツ語 Friede,Frieden
「平和」は「自由」「愛」があって始めて完全なものであるというような思想的態度が伺える。
・ロシア語 mir
「平和」と「世界」両方を意味する。平和は常に全体的でなければならず、世界は平和であるべきであるという態度が伺える。
・アラビア語 salam
日常の挨拶であり、平和、健康を意味する。
・インドーサンスクリット Shanti
主として霊的に満ち足りた心の平和、内面的安らぎ、苦痛や快楽に煩わされない心の平静をさす。「平安」「心の平和」の意味合いが強い。仏教でいう涅槃寂静はまさにShantiの最高段階である。
・旧約聖書ーヘブライ語 Shalom
積極的・全体的平和であり、意味内容豊富である。成就、完成、熟成、健全性、調和、繁栄、友情などを意味する。
こうしてみると、宗教的民族の「平和」の方が、より意味内容が成熟しているように思われる。
真の平和は突き詰めれば宗教に足を踏み入れるしかない。
そうでなければ、ホッブズの言う、人間の自然状態である「万人の万人に対する闘争」を受け入れる他ない。そして「平和」は政治的、法的に確保される、個人間の果てしなき利益闘争の場と成り下がる他ない。そしてやがては地位、富の格差の固定へと向かうことは、人類の歴史を振り返れば明らかだ。
そのとき「平和」は、いわゆる「負け組」にとって牢獄でしかなくなる。そのとき戦争は、牢獄が破られるかもしれない、一つの希望となる。それこそが、戦争が自殺率を下げるという事実の、皮肉な真相ではないだろうか。
今のローマ教皇ベネディクト16世が9月11日テロの跡地を訪問し、語った言葉を紹介したい。
「平和の神よ、この暴力の世界に平和をもたらしたまえ。すべての男女の心に平和を、地上のすべての国々に平和をもたらしたまえ。心と精神を憎悪で蝕まれた人々を愛の道に導きたまえ。」
気がつくのは、この短い言葉のなかで、世界、国家、そしてすべての個人の心の平和までが言及されていること。真の平和は常に全体的・包摂的でなければならない、そしてその本質とその果実は個々人の心に求められなければならない、ということによく気が配られている。
ほんとうに平和を訴えたいのなら、このぐらいのことは言えないといけないし、このぐらい宗教的でなければいけないと考える。
「アヴェ・マリア」の祈り
アヴェ・マリア (シューベルト、ラテン語) by Angela Gheorghiu「アヴェ・マリア」と題した曲は数多くありますが、特にシューベルトやバッハ(グノー)が有名でしょうか。どれも癒される曲ばかりです。
ところで、これらの曲の歌詞は、言語の違いや構成の違いはあれど、多くは同じであるということをご存知でしょうか。それは歌詞である以前に、天使祝詞という、聖母マリアへの祈りです。これはマリア崇敬をするカトリック、および正教会で一般的に唱えられるものです。

天使祝詞(聖母マリアへの祈り)
“めでたし、聖寵満ち満てるマリア、
主は御身と共にまします。
御身は女のうちにて祝せられ、御胎内の御子イエズスも祝せられたもう。
天主の御母聖マリア、
罪びとなるわれらのために、今も臨終の時も祈りたまえ。
アーメン”
これはそのままラテン語で以下のようになります。
上の動画で聞き取ってみてください。繰り返しに気をつけて、一緒に歌ってみてください。
"Ave Maria, gratia plena;
Dominus tecum:
benedicta tu in mulieribus, et benedictus fructus ventris tui Iesus.*
Sancta Maria, Mater Dei
ora pro nobis peccatoribus, nunc et in hora mortis nostrae.
Amen."
この祈りでは、聖母マリアを祝し、最後に一つだけお願いをします。
今この時、そして死をむかえるその時に、わたしを見守り、共に神に祈ってください、とお願いします。
日々わが身の罪と死に思い致し、この命の有限性を悟り、そのなかに聖母の慈しみと神の導きを信じる。とても美しい信仰の祈りだと思います。
アヴェ・マリア (リベラ)
アヴェ・マリア (Franz Biebl)
CD「アヴェ・マリア33」(avex)
ほんとに多種多様な「アヴェ・マリア」が聴けておすすめです。
信仰とは何か〜枢機卿が語る
以下は「信仰」について、『私はどのように神を見いだしたか―枢機卿、ジャーナリストに答える』(カルロ・マリア・マルティーニ枢機卿、アライン・エルカン著、佐久間勤訳、女子パウロ会、1998/1/25)より抜粋させていただきます。
ちなみに枢機卿は大司教arch bishopとも呼ばれ、国、地域ごとに定められた教区を統括する、神父の代表者、リーダーのようなものです。教皇はその枢機卿たちによって、枢機卿の中から選ばれます。
Carlo Maria Martini 枢機卿
p53−54
“ 信仰は人間のする体験の頂点です。信仰以外のものは何であれ、それに劣ります。つまりほかのことはどれも、信仰という人間にとって最も基本的な態度へと方向づけられているにすぎないのです。人間の秘められた可能性を最も高度に実現するのが信仰なのです。信仰を信仰として生きるなら、つまり何かほかに御利益があるからというのではなくて、神だけのために生きるなら、信仰が、生活に統一を与えてくれ、何を優先すべきかをわからせてくれるのだと気づくことでしょう。”
“ 信仰はたしかに恵みです。人間が努力して獲得するようなものではありません。神をわたしたちは見ることができないからです。信仰は神からの恵み、人間の心を解き開き、見えない真実性に注意して目を開くように望む神の恵みなのです。他方で、わたしたちの行動の深い本質をよく観察するとわかるのですが、何か決定的なもの、人間の欲望やあこがれが直接求めるものを超えた何かが、そこにはあります。人はみな、心の深みで信仰、つまり信頼することのできる存在との交わりを求めているのです。たとえそれがだれか名指すことはできないとしても。なぜならその名はすべての名を超えたものですから。
ですからわたしたちがしなければいけないのは、謙虚な心で信仰の恵みを願い求めることです。しかしまた、わたしたちを煩わせ、不安にさせること、あるいは金銭や成功、権力などを過度に追い求めることをやめなければなりません。そのようなものを超えたもの、神がわたしたちに与えようと望むものを見つけようとするならば。”
p.21-23
“ 信仰は、どこまでも遠いと見える頂上、この地上での生を終えて初めて完全に到達することができる頂上を目指して歩む旅だからです。毎日つぎつぎと問題や困難にぶつかりますが、そのときわたしたちは自分の信仰がいかにもろく、弱く、神によって絶えず養われ支えられる必要があるかということに気づくことになります。”
“ 心と理性、つまり精神の内面的衝動と洞察、感情と合理性はともに信仰にかかわっています。神を信じるという行為は複雑で非常に多種多様な要素から成り立っていると同時に、じつに単純な行為でもあります。それは神学用語で「「信仰の行為」と呼ばれているものです。
信仰の行為はじつに人格全体がかかわる行為なので、それを個々の要素に分析するのは簡単ではありません。たとえていえば、小さな草花のようなものでしょう。単純なものでありながら、しかも輝きに満ち溢れている草花のすばらしさです。”
“ 人はたとえそうと意識していなくても、自分の生活に一つのまとまりを探しているものです。心に一貫したものがなければ、精神分裂状態に陥ってしまいます。毎日さまざまなことが起こりますから…追い立てられてばかりいると…生活がばらばらに分解してしまいます。
ですから、絶えず生活を立て直す必要があります。そしてそのために信仰は非常に大切です。なぜなら、信仰は生活のなかで起こるさまざまな出来事に光をあてて、それを一つにまとめ上げることができるからです。
もちろん、偉大な哲学思想も同じことを目指しています。しかし信仰は事柄を統一する一つの見方にすぎないのではなくて、現実です。神がわたしにご自身を与えてくださり、わたしの内にまとまりを作ってくださるという事実です。”
p.20
“ 信仰というものは、岩登りや険しい登山のようなものです。めまいがしたり、落ちるのではないかと思ったり、途方に暮れたりするものです。突然霧に巻かれたり、嵐にあったりもします。自分がどの道を進んでいるのか、よくわからなくなってしまうような重苦しい闇の日々もあります。
それでも一挙に解決することがあります。ちょうど山で霧が突然に晴れるようなものです。だから大事なのは、動揺しないこと、岩にしっかりとした足場を定めること、まだ何とかたどれる細道からそれないことです。それも、たとえどんなに疲れていてもです。といいますのは、信仰の深みというものは、他者を信頼するということにあるからです。ちなみにいい添えますと、この「信頼する」という動詞は、ヘブライ語では岩など何か堅固なもの、決して欺かれることのない安心を約束することのできるものにしっかりと立っている人のことを表現しています。
信仰というものは恵みとして与えられるものです。そして恵みであることを、人はなによりも非常な苦しみの時期に経験するものです。つまり神は人を闇に追い込み、そして光を再発見させるようにはからうからです。”
p.49
“ 一人一人の人が、自分自身の内面を見つめ、それぞれに貴重な真珠を秘めていることに気づいていただきたいものと思います。この宝物はだれにもあるもので、またこれだけが心を変えてくれます。
わたしたちが知性や意志の力をもっているということを掘り下げて考えてみますと、ダイナミックなエネルギー、そして超越へと開かれた可能性がわたしたちのなかに潜んでいることに気づきます。それに注意深く耳を傾けるならば、わたしたちは自分自身に対しても、歴史に対しても、神に対しても、誠実であることができるでしょう。
そして人間のどの人格的価値も、このように内面に秘められたものに耳を傾けること、それに気づくことに根ざしていると思います。”
テンプル騎士団の聖詠歌 〜Crucem Sanctam Subiit
Crucem sanctam subiit,
qui infernum confregit,
accinctus est potentia,
surrexit die tertia. Alleluia.
Lapidem quem reprobaverunt aedeficantes factus est caput anguli, alleluia.
" 主は聖なる十字架を背負われた、
そして地獄の力を破られた。
主は力を授けられた、
そして三日目に蘇えられた。神は褒むべきかな ハレルヤ。
家を建てる者の捨てた石が、隅の親石となった。神は褒むべきかな ハレルヤ。”

※そのうちラテン語勉強して全歌詞邦訳したいと思います。
聖フランシスコの祈り
Prayer of St. Francis being sung by Sarah McLachlan
主よ、わたしをあなたの平和の道具にしてください。
憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように。
侮辱のあるところに、ゆるしを
疑いのあるところに、信仰を
絶望のあるところに、希望を
闇のあるところに、光を
悲しみのあるところに、よろこびを
もたらすことができますように
助け、導いてください。
いとも善き主よ、わたしに
慰められることよりも、慰めることを
理解されることよりも、理解することを
愛されることよりも、愛することを
望ませてください。
与えるから、与えられ
ゆるすから、ゆるされ
死ぬことによってのみ
永遠の生命によみがえるのですから。
アーメン
Lord, make me an instrument of your peace,
Where there is hatred, let me sow love;
where there is injury, pardon;
where there is doubt, faith;
where there is despair, hope;
where there is darkness, light;
where there is sadness, joy;
O Divine Master, grant that I may not so much seek to be consoled as to console;
to be understood as to understand;
to be loved as to love.
For it is in giving that we receive;
it is in pardoning that we are pardoned;
and it is in dying that we are born to eternal life.
輪廻転生はあるやなきや
“仏教というのは極めて合理的、科学的な宗教です。キリスト教のように人格的な神だなどと訳のわからないことを言うナンセンスな宗教とは違います。”とは、仏教僧や仏教ファンが度々口にすることです。仏教の教説がいかに合理的であるか、仏教の宇宙観がいかに科学的であるかということが、いろいろな本の主題に著されています。仏教に傾倒していたときは“ああ、そういうものかな”と思っていたのですが、改めて考えると果たしてこれ如何。
(原始)仏教そのものは宗教ではないというのが私の意見です。
なぜならブッダ自身、宗教は別にあるものと考えていたと、原始仏典など読んでいるとわかるからです。実際原始仏典ではブッダは神々や悪魔について言及しています。
ではブッダは何を説いたか。ブッダは、一重に「苦しみからの解脱」を説いた。そのための心のテクニックを説いた。それはとても論理的で、神聖な教えです。しかし、私自身痛感したことなのですが、ブッダの教えそれ自体には、なぜそうしなければならないのか、「動機」が定かではありません。
仏教は、この世はすべて苦しみである(一切皆苦)であることを前提におきます。
そして、その苦しみは永遠に繰り返す、すなわち輪廻転生することを前提におきます。
故に、もう二度と生まれ変わることのないように悟りを開くべきことを説きます。
それこそが、本来の仏教における救いの原理です。
仏教の教える高尚な教えや生き方、それを実践することは世俗的な視点からは極めて融通の利かない厳しいことです。それをただのキレイ事で済まさず今生において為す動機は、「輪廻からの解脱」この一点に他なりません。果たして、宗派を問わないにしても、何人の仏教僧や信者がこれを真剣に捉えておられるのかという疑問が常にありました。
仏教というのは実にこういうものであるのだから、たとえば亡くなった方が「草間の陰から見守って」いたらもう仏教的にアウトです。本来の仏教では拝んでも成仏しません。なぜなら自力救済が真理だからです。なので、こういうときは仏教的には「さっさと生まれ変わって、次回こそ悟りを開いて成仏できればいいね。」というのが正解であると思います。
無論、日本の大乗仏教などは、拝めば救済してくれる諸仏がおられる多神教の一種なので全く状況が違います。そうならそうで、一神教と一線を画して“論理的、科学的”であるなどとは言えないはずではないでしょうか。
・輪廻転生はあるやなきや
輪廻転生が無いと言うことになれば、「輪廻からの解脱」をこの世で唯一意味のある行い、救いの道であると捉える仏教は本当にただのキレイ事になってしまわざるをえません。キリスト教の来世信仰や最後の審判がそうであるようにです。
まず輪廻転生が人間の中だけで行われるとするなら、その信憑性は世界人口をみることで一遍に損なわれるでしょう。全人類の人口は1802年では10億人であるのに対して、現在2009年では68億人と推定されています。中国などの統計の怪しさを考慮するとおそらくもっといるでしょう。
世界人口の爆発的増加の原因は何か。この200年で増えた60億人はそれまでどこで何をしていたのか。輪廻の狭間でさぼっていたのでしょうか。さぼれるのは悟りを開いた人だけではないか。では悟りを開いても舞い戻ってしまうことがあるのか。それでは結局永劫回帰ではないか。あるいは魂が改めて増産されたのか。誰に。何の目的で。疑問は尽きません。
世俗的に考えると理由は明白です。2世紀の間の人口爆発は、産業革命と近代化の全世界への普及で説明がつきます。衣食住は発達した世界交易で安定して分配供給され、労働の需要は国境を越え、世界中の発展途上国で「産めよ増やせよ」が続いた結果に他なりません。
そうすると、輪廻は結局は人間の操作によるものとなってしまいます。すると、全人類を強制断種して死なせれば、もはや輪廻は起こらないものとなります。いわば強制人類総解脱法と説きましょう。そんな恐ろしい考えに結びついてしまいます。
この矛盾を解消するために、初期大乗仏教の教えである一切衆生悉有仏性を取り入れてみましょう。この考えを応用して、草木から微生物まで仏性を有しており輪廻の内にあるとするならば、人口爆発の件はとりあえず数としては説明できるものとなります。微生物などこの瞬間瞬間にも何億何兆何京の単位で死滅生来を繰り返しているのだから、60億人程度200年と言わず1秒でも何の苦もなく補充できそうです。
しかしここでさらに問題が起きます。草木や微生物になって一体どうして悟ろうというのだろうか。草木や虫バージョンのブッダがいるというのだろうか。仏教の解脱の教えは「解脱したい。」という自由意志が前提となっているが、下等動物に自由意志と呼べるものはあるのか。大乗仏教では悪い人間は畜生に生まれ変わると説くが、その逆に人間に生まれ変わる良い畜生というのは、生態から認知様式まであらゆる点で人間の基準に当てはまらず自由意志が無い以上何であるのか。
仮に人間の基準こそ一切衆生においても適用される真理であり、(外見上)平静で他を傷つけず吾唯足るを知る、真理に合致する生物というのがあり得るとしましょう。それならば、雑草や木々に生まれ変われば一発で解脱ではないかと思います。千年の時を一歩も動かず過ごし、今や緩やかに枯れ死を待つのみとなった大木ほど無為自然の境地、悟りを体現するようなものはないと思います。ブッダが老齢の菩提樹の下で悟りを開いたことも、決して偶然ではないと思います。そうすると、草木に生まれ変わるのを待てばよいことになり、今生の悟りの意義はまたもや希薄化し、前倒しになってしまいます。まあ悟りについて執着することもブッダは諫められたのだから、そのぐらいの余裕をもって悟りを待つというのもいいかもしれませんね。
草木に生まれ変わり悟りを待つ。嗚呼なんだか美しい情景が目に浮かびます。
ちなみに、ブッダ自身はどのような輪廻を信じていたのでしょうか。一切衆生悉有仏性はブッダが亡くなり数百年後、多くの宗派が誕生しては分裂を繰り返し、そのうちで成仏の概念をとことん緩和し拡大解釈した大乗仏教の一教典『大般涅槃経』で初めて述べられますから、本来のブッダの思想とは違うと言わなければいけません。
ブッダは輪廻の思想自体を都合良くいじくろうという試みはしていません。『ダンマパダ』などの原始仏典を見ても、ヒンドゥーの輪廻転生観が既成事実として受け入れられていることがわかります。
それはカーストという厳格な身分差別に象徴され、過去の生の結果が今生の身分であり、再び生まれ変わるまでは変えることはできないとされます。バラモン(司祭)、クシャトリヤ(王族・武士)、ヴァイシャ(平民)、シュードラ(隷民)、パーリヤ(不可触民)の差別があり、現在では憲法では禁じられていますが実質的に継続されていると見る向きもあります。
ブッダは王子であり、クシャトリヤの最高位(王族)でした。ブッダの偉大さは、彼がその上位カーストの恩恵を捨て、身分に関わりなく誰もが悟りを開けば解脱でき、誰もが涅槃に至れると説き、カーストのくびきを打ち破ったことにあります。それはあたかもイエス・キリストが当時の硬直したユダヤ教のくびきを打ち破り、あらゆる虐げられる者に手をさしのべたことに一致するようです。
しかしブッダの教えはその革新性の故にヒンドゥー教の地、故郷インドでは大きく受け入れられることはなく、その代わり世界に飛び出してチベットや中国、タイに一大宗教を築きます。なんだかこの辺も、ユダヤ教の地、故郷イスラエルから排斥されたが大帝国ローマをはじめ全世界に飛び出したキリスト教の歩みに似ています。
輪廻転生があるとするならば、大きな疑問が浮かびます。
一体、前世のカルマから来世を決定する主体は何なのかということです。
前世の行いをつぶさに検討し、審判するその主体は、ある点で人格的でなければなりません。もし人格的でないなら、悟りへの道を人格的に説いたブッダの教えはすべて意味のないものになります。
そうすると、結局はどうごまかしても、仏教は「神の存在」を前提とせざるを得ないではありませんか。
それも、輪廻転生の想定する厳格性と普遍性を鑑みると、宇宙にあまねく存在する絶対不二の唯一神的なものに行き着かざるを得ません。
実際に、ブッダは神の存在を信じていたのではないかと、勝手にですが思います。ただ、神論をいじくる輩が適当な神頼みに堕したり無神論を振りかざして暴れないように、思慮深く抑え、敢えて言及しないようにしていたというのが本当のところだと思います。自らの教えの革新性を自覚していたが故に、聖を司る階級であるバラモンの反感を買わないよう、方法論的な箴言に止められたのではないでしょうか。そこにこそ、最後にはリンチされて磔にされたイエス・キリストと、円満に天寿を全うしたブッダ、二人の宗教革命家の後半生の違いの原因が求められるかもしれません。
・信仰の隠蔽、論理という形骸
以上のことから何が言えるか。
仏教の教えは、輪廻を司る超自然的な何かへの確信、“信仰”を前提として初めて意味を為すものです。
仏教は科学的だと言う人は、その実、仏教を思想的な趣味程度にしか考えていない、何の“信仰”もない人でしょう。聖職者の中にも多くそういう人が見受けられます。彼らは結局、信じてもいないのにお金儲けの為だけに仏教を語っていることになりはしないか。実際、死んだら無になると法話で語るお坊さんを知っています。
仏教は神を置かない現実的なものだと言う人は、結局は人間を神の座に据えて、その実ブッダの教えを軽んじていないか、気をつけるべきでしょう。オウム真理教は言わずもがな、仏教系の新興宗教はグル崇拝、教祖崇拝が目につきます。そういったところの信者には、理系出身の若者が顕著に多いと聞きます。そうした論理性に自負のある人ほど、コロッといかされると目を輝かせて「真理を見いだした。論理的に説明が出来る。」となってしまうようです。
そもそも人間の論理はそんなに当てになるものではありません。
論理は言語、フォーマット、経験、知識、認識、前提条件の有る無しやその違いで、導かれ方も、導かれるものも、自ずと異なってきます。論理は、何かを証明したいという欲求が根本になければそもそも存在せず、欲求には願望や感情がつきものです。論理というのは人間の尊ぶべき大事なものですが、それは常に後付けであることを忘れてはならないでしょう。
人間誰しも色眼鏡を持っています。生まれも育ちも立場も違います。生物的にも社会的にも、前提となる条件は人それぞれ違います。前提となる条件、知識、経験、認識が違ってくると、同じ論理を応用してもその導く答えは変わってきます。欲求や感情によっても、何を論理立てたいか、論理立てることに意味があるかは、変わってきます。
なので、論理的であることをもって物事の是非を裁いても、その有効性は常に限局されていることを頭に入れておかなければならないでしょう。
科学性、論理性をもって現代社会との整合性をアピールするというのは結局のところ宗教としての敗北宣言に他ならないのではないか。 論理や科学以前に“信じる心”を置くことはできない、と言わんばかりの態度では、現代自然科学や哲学、政治を前にして主体性を放棄していると言えないか。
チベットやビルマでの仏教弾圧問題に対しても、日本の仏教は決して代表して声を上げることがなかった。もはや今の仏教には“信の共同体”としての実体を認めることはできないではないか。
そう思われてなりません。
ワル至上主義の蔓延
酒井法子バッシング、いい加減ほっといてあげようよ。
“清純派”ほど悪いチャラ男にひっかかると弱いんだから、しょうがない。
“ワルな男ほどよくモテる、ワルな男ほどかっこいい、ワルな男ほど頼り甲斐がある”っていうイメージを、マス・メディアも作り上げてきたわけでしょ。押尾学も酒井法子も、結局はそういうマス・メディアが強力にプッシュしてきた”ワル=クール”というベクトルの延長線上に見えてしょうがないんだよね。
酒井法子さんの罪は、いろんな面で無知、考えが弱かったことだけでしょう。そうあることが“清純派”の所以であり、飯の種にされてたという悲劇も垣間見えますが…。それ以上に「許せない」なんて言う資格は、はたして誰にもないと思うんだよね。「見せしめに特別に厳罰に処すべきだ」なんていう法の下の平等を平然と冒涜するような意見がテレビ電波で飛んでくる状況は異常だと思います。
しかし世の中“ワルな男”ばかりがもて囃される。
巷でワルと言うと、“強い、大胆、ずるがしこい、強気、おしゃれ”などのイメージが連想され、“自分を守ってくれる存在”“自分の知らない世界を見せてくれる存在”となり胸キュンとなるのが今の世の婦女子らしい。押尾学も酒井法子も、こうして見るとウラ/オモテの関係にありはしないか。
ワルぶる男は総じて虚栄心が強い。虚栄心が強いから、オシャレを気にするし、つっぱってるし、はったりをかますし、自分の面子を保つためには実力行使をためらわない(しかし逃げ足も早い)。女性も総じて虚栄心が強い。だから女を磨いている(と自分では思ってる)女性ほど“ワルな男”と付き合うわけだ。
さてはて、“ワル”な男は「ダメ、ゼッタイ」と言われることをクールにこなすのが面目であると考えている。“ワル”に惹かれる女はそんな男のする“刺激的”なことに、促されるままに付き合い歓ぶわけだ。
押尾学が、酒井法子が、麻薬をやったということは結果でしかない。
その裏には、そうするに至った道がある。その道を選ばせた心理がある。
その心理、いわば“ワル至上主義”は、今もTV,漫画、ドラマ、映画、あらゆるメディアを通じて垂れ流され続けているではないか。麻薬使用はそこから起こりえた“ワル”な結果の一つに過ぎないではないか。
法律上では確かに麻薬使用だけが論点であるし、そこだけを検証するのが正論である。しかし、それ以上に「許せない」と言うのならば、それ以上に踏み込もうと言うのなら、その原因を生み出す社会のトレンドを問いただすべきではないかと思うわけだ。
p.s.
押尾守、早くも釈放の流れですね。
この人はそのうち芸能界にカミングバックさせようと考えてるんでしょう。
酒井紀子事件への執拗な報道に比して、押尾守事件はほとんど流されなかった。
押尾守事件をあえて報道する時も、ある番組では、「押尾守は不思議とモテる。」とか「後輩に優しいイイ男である。」などと訳のわからないトピックでまとめていました。最低ですね。
もともと"ワル”で売っていた野郎なだけに、ある意味箔がついた感じで、「熱い反省と謝罪」劇を見せてまんまと舞い戻ってくることでしょう。
「レ・ミゼラブル」

映画「レ・ミゼラブル」鑑賞。
原作がクラシックなら映画もクラシックな王道的作品。
回心と信仰で綴られる前半の物語は感動的。
誰しもがやり直すチャンスをもっている。誰しもが、過去の罪や過ちを悔い改めて新しい人間として生きる力と資格をもっている。そう心から言わせてくれるのは信仰以外にありえるだろうか。
生まれ育ちの貴賤や貧富、能力の差を超越して、同じ一人の人間としての価値を心から認めさせてくれるのは、みな平等に「神の子」であるという信仰以外にありえるだろうか。
キリスト教ヒューマニズムの精髄を力強く感じさせてくれる。
恋愛と革命で綴られる後半の物語はどこか陳腐で腑に落ちない。
娘コゼットと革命青年マリウスの逢瀬をスパイさせられる役の青年がこぼす、「自分は子供なんてもちたくありません。特に娘は。」という台詞に、首を大きく上下に振ってしまう、これまた陳腐な自分がいたりする。
総じてよくまとめられており、リアム・ニーソンやユマ・サーマンら俳優の演技も秀逸。
原作に名前負けしないだけの完成度の名作であることは間違いない。
9/10点
「デッド・フィッシュ」
映画「デッド・フィッシュ」鑑賞。
とあるアクシデントでプロのヒットマンと携帯電話が入れ替わってしまった若者が、おかしな暗殺組織の面々やイカレた借金取り立て人たちに絡まれまくってドタバタするという物語。
ナンセンスなストーリーは正直どうでもいいレベル。この映画の醍醐味は豪華キャストのノリノリの怪演。 変態ヒットマンはゲイリー・オールドマン、借金取り立て人はロバート・カーライル、他ビリー・ゼインなどなど見たことある顔ぶれが勢揃い。始終賑やかなカルト・ムービー。
このはしゃぎっぷりを楽しめるか否かで評価が二分される作品です。
8/10点
東大生まれの覚醒剤

ヴァル・キルマー主演の「ソルトン・シー」という映画があります。麻薬がらみのクライム・サスペンスなんですけど、この主人公が覚醒剤中毒。冒頭でいきなり覚醒剤の歴史を語り始めるので印象的だったのですが、そのなかで初めて知ったとおり、実は覚醒剤の生まれ故郷は他ならぬ日本なのです。
覚醒剤を開発したのは帝国大学(東京大学)の化学者、長井長義であり、1893年にエフェドリンから合成されました。エフェドリンは漢方薬のマオウに含有されており、葛根湯にも入っている興奮性の成分で、これを初めて単離したのも長井先生。
こうしてみると、覚醒剤は漢方に長じた日本の化学者だったからこそ発見できたということができるかもしれません。
話変わりまして、アメリカ製作のとある第二次大戦ドキュメンタリーを見ていたんですが、真珠湾攻撃の章において、大日本帝国の野望は麻薬による世界征服であった、などというナレーションが入ってビックリした記憶があります。
しかし実はこれも事実無根とは言い難いのです。
日本は戦後まで国家的に覚醒剤に使用を容認していたという、隠された歴史があります。
覚せい剤の特性は以前書いたとおり、「元気の前借り」であり、不眠不休で活動できるようになるというメリットがあります。これは為政者にとって、国民を労働マシーンにするのに好都合です。さらには理性を喪失させるという点では、国民を戦争マシーンにするのに好都合です。無論覚醒剤の供給を止めれば禁断症状が出てきて心身ともに荒廃してしまいます。そんな残酷なことは人権上許されないだろうと思われるでしょうが、過去の日本はそれを大々的にやっちゃったのでした。
特に戦時中は、夜間の歩哨や見張りに際しては「猫目錠」、神風特攻させようという時には「突撃錠」という覚醒剤の入った錠剤を飲ませていました。
覚醒剤の使用は兵隊だけでなく、非戦闘員にも奨励されました。生産力向上のためには手段を選ばないこの傾向は戦後もしばらく続き、覚せい剤取締法が制定されたのは1951年になってから。それまでは商品名ヒロポンとして生活用品と同じように流通しており、工場労働者などは眠気覚ましとしてこれを支給され昼夜を問わず馬車馬のように働かされたわけです。こんな話を聞くと、“古き良き時代”なんていうのも言えたもんじゃないなあと思います。
発明国が日本なこともあり日本のことばかり言いましたが、今や覚せい剤は世界の軍隊で使用されています。イラクにいるアメリカ軍にも覚せい剤のタブレットが支給されているそうです。また、02年アフガニスタンで演習中のアメリカ軍がカナダ軍に向けて誤爆しカナダ兵4人が死んだ事故でも、パイロットの弁護士は空軍から服用を勧められた覚せい剤(メタンフェタミン)様物質アンフェタミンを使用していたことを理由に弁護し、空軍もこの事実を認めました。
ソ連のような社会主義国では労働者に対しても支給されていたそうです。そのことを考えると北朝鮮が世界一の覚せい剤生産国であることとも関係がありそうです。
現在日本でここまで覚せい剤が社会問題となっていながら、覚せい剤の特性を知らしめず、臭いものに蓋式に麻薬で括って「ダメ、ゼッタイ」という行政の姿勢には疑問を感じます。
覚せい剤はヘロインのようにグデングデンになってしまうドラッグとは違い、一時的に行動力、集中力をブーストさせ作業効率を向上させるという社会的価値を感じさせる側面があります。でも最後にはボロボロになってしまいます。一方で行政では麻薬といえばヘロイン中毒のグデングデンなジャンキーを見せつけて、大麻、コカイン、ヘロイン、覚せい剤、LSD、MDMAすべて一緒くたにして「ダメ、ゼッタイ」という。こんなお粗末な麻薬対策PRでしかドラッグを知らない人たちが、たとえばピースフルな大麻使用者、楽しそうに踊るMDMA使用者、陽気にはしゃぐコカイン使用者、元気はつらつな覚せい剤使用者に出会おうものなら、「ダメ、ゼッタイ」が脳裏に浮かんでくる手がかりがないままに手を出してしまうのではないでしょうか。
本題から逸れてきたので今日はこのへんで。以上
「勝ち組・負け組」という虚言
最近猫も杓子も使いたがる表現がある。
「勝ち組」「負け組」というアレである。
自力でアイデンティティーを築けない、希薄な道徳観念の持ち主が好んで使う表現だ。
この言葉、非常に気持ちが悪い。それにとても頭が悪い。
まずなぜ「組」でなければならないのか。
何かのグループに帰属しているつもりなのだろうか。その割には双方において友愛互助の空気は感じられない。
詰まるところ、リアル/バーチャルを問わず、世間やネットやマスメディア、何かしら自分たちを定義してくれる権威に参与、これを形成・維持・強化したいという、主体性のなさの表れである。
集団の表意を偽装して、虎の威を借る狐よろしく他者の数や地位にあやかろうという詐欺的虚栄心の包み隠さない発露であり、あるいは個人の相対的部分的性質をもって集団の絶対的全体的性質に帰納させ、集団の相対的部分的性質をもって個人の絶対的全体的性質に演繹するを良しとする無知による盲目的妄信であり、匿名の悪意による包み隠さない暴力である。
すなわち、差別行為そのものである。
なぜ「勝ち負け」でなければならないのか。
勝ち負けは闘争が前提である。相対立する利益が存在することが前提である。
戦争でもスポーツでもそこは変わらない。願わくばルールがあり、人間的良心に適う道徳的規律の範疇において、相互の認知のもと、中立公正なる判定人を伴って行われるものである。
然るに昨今のそれはまさに無差別殺戮の様相である。
現代の勝ち負け論者にとって、人間というのは征服欲だけのつまらないケダモノらしい。彼らは戦われなかった戦いに一方的に勝ち負けを宣言し、その瞬間全人類が自分のでっち上げたつまらない悪趣味な二元論によって断罪されたかのように振る舞う。
何が彼らをしてこのような言動に至らしめるのか。教養のなさ、精神的未熟・堕落、自立的思考力の無さがあげられる。
かくして現代の勝ち負け論者にとって、生きることはとってもわかりやすくてお粗末なものとなりました。このような態度を自明であるかのように疑わない彼らは、極端に無責任であるか、精神的に貧困であるか、統合失調的であるかのどれかであろう。その中でも無責任であるのが大半だろう。彼らは大抵、自分たちに都合のいいことしか主張せず、都合の悪いことは深刻に受け止めようとしない。
「勝ち組負け組」論の思想的根幹である相対主義も問題である。
いや、相対主義がというよりも、相対化されたものを絶対的事実として扱ってしまうことに問題がある。
真に相対的に考えるならば、勝ちも負けも常に転変して定まらない。脳内のシナプスルートを一カ所切り替えるだけで勝ち負けは転変する。もちろん日常を生きる上で、そうそう考え方がころころ変わってしまうのは不便であるから我々はある程度社会公認の絶対的な価値観のなかで生きる。しかし日本人のように、ただでさえ島国の閉鎖的社会のなかで、幼い頃からお受験勉強・偏差値教育一色で育ってしまうと脳の柔軟性は失われてくる。おまけに大学に入っても大抵は部活・バイト・就職活動というルーチンで終わってしまう。そこでは考え方も答えも上から降ってくるものである。
勝ち負け論にこれだけ社会がなびくのも、個人が独自の世界観・人生観・人間観を築けない今のこの社会に原因がある。
大学全入時代と言われるまでに教育に溢れているはずの国民が世の中について考えて出てくる答えが“勝ち”か“負け”かなんて、あまりにもお粗末ではないか。
「病んだ国のNO.1ドラッグ」覚醒剤の真実
以下は前科ありの現役(?)ジャンキー、久保象氏による『ドラッグの教科書』(データハウス、2008/3/20)p.131-138より抜粋させていただきます。病んだ国のNO.1ドラッグ
“ 覚醒剤をやると、どうなるの?
オロナミンCの「元気溌剌!」とリポビタンDの「ファイト一発」が、単なる耳障りのいいキャッチコピーじゃなくて、実際に体験できる。パッキ−ンと目が冴え、疲れや眠気が一気に吹っ飛ぶ!気分は最高にアッパー、作用が切れるまで不眠不休で動けるようになる。交感神経をギンギンに興奮させるからだ。楽しいことをやれば、更に楽しく感じるし、落ち込んでいる時にやれば、たちどころにリカバリー。どころか、爽快に変身。現状は何も変わっていないはずなのに、さっきまでの憂鬱な気分がウソのように消え失せてしまう。
そう、人間は気分で生きている。気分が良ければ、なにをやっても楽しい。その反対はいわずもがな。だから、日々の暮らしに満足していない人々の間で、このドラッグは重宝されている。嫌な現実を忘れるために。
世界中を見渡しても、これほど覚醒剤が、蔓延している国はどこにもない!いいかえれば、覚醒剤で気分を高揚させないと、生きるのが辛くて仕方のない国民が世界一多いということだ。いったい誰がこんな世の中にしちまったんだ?乱用者の数は驚くなかれ、03年の警察庁発表で推定160万人。これは人口比で80人に1人の計算になる。(…略…)
(…略…)
こうした悲惨な社会状況に加えて、覚醒剤は暴力団の資金源ナンバーワン。僕らが暮らす街にもヤクザの幹部がちらほら住んでいて、高そうなスーツを着て、高級車を乗り回し、下手なアイドルよりかわいいコを連れている。(…略…)
政府が本気で覚醒剤撲滅を目指すなら、そんな「太くて短い」人生を謳歌しているヤクザたちとバトらなければならない。受験戦争に勝ち組キャリアになって、後々は民間や特殊法人に天下って私腹を肥やしたり、あわよくば族議員にのし上がることだけを人生の目標に生きてきた、お坊ちゃま育ちの官僚が刃向かえっこない。
それどころか、暴力団のフロント企業が政治家に献金したり、上の方でつながっているのはいうまでもない。永田町には、暴力団のダミーとして送り込まれた政治家も何人もいるだろう。官僚も政治家もヤクザも警察も、みんな裏で(特権的に)つるんでいる。持ちつ持たれつの関係。敵、味方に一応なっているけれど、結局は利権で食っている同じ穴のムジナだ。”
禁断の“ピンクな”木の実
“ 覚醒剤が人々を虜にする理由は、肉欲だけのエロチックなケモノに変身できるからだ。世界一蔓延している理由は、ずばりこれでしょう。
とにかく、覚醒剤をキメると理性もへったくれもなくなる。極度の興奮状態になり、快感が恥辱を凌駕。MAXに発情してしまう。(…略…)
経験者によれば、世の中にこんな気持ちのいいことはほかにないらしい。これが「史上最強の媚薬」といわれる所以。食べたら最後、禁断の木の実なのだ。カップルで仲良く逮捕されるケースが多いのはこのため。(…略…)
♀のほうが本能的なためハマりやすく、♀のシャブ中はほぼ全員が、この白い粉による快楽の奴隷だ。一方、♂はシャブが入るとなれるまでEDになる者も多く、そんなときはバイアグラが重宝する。(…略…)
一度インプットされると、得も言われぬその快楽は脳に記憶される。あまりにも気持ちがいいためシラフでのセックスでは二度と満足できなくなる人もいるようだ。 …略… 一時の快楽の代償は、シャブ地獄への片道切符となるのだ!”
やめられない悪魔のクスリ
“ 覚醒剤は白い無臭の結晶だ。氷砂糖に似ているが、舐めると苦い。使用方法は水に溶かして静脈注射したり、炙った煙を吸う。ほかに、スニッフィング(鼻孔吸入)や経口摂取、アナル注入、性器塗布などがある。
注射(ポンプ)なら即効、炙りやスニッフィングなら5〜10分で効果が現れ、2〜5時間程度続く。瞳孔が大きく開き、手足が冷たくなる。効き始めに、お腹がゆるくなる人も多い。
切れるとその反動は激しく、強烈なうつや過度の倦怠感、イライラなどバッドな症状に襲われる。頭痛や全身に渡る筋肉痛も辛い。その不快感から抜け出すため、また入れる。すると、また気持ちよくなっていく。このように、バキバキとヨレヨレを繰り返しながら、このクスリ無しでは生きられなくなっていく。
「元気の前借り」といわれるように、体力の消耗も激しい。食欲がなくなるので、栄養失調になる。特にカルシウムが不足するため、歯がもろくなる。まずは胃と歯をやられる人が多い。(…略…)
耐性ができるのも早く、やるごとに使用量もどんどん増えてしまう。(…略…)
ある統計によれば、一般的に常用を初めて3,4ヶ月で幻聴・幻覚が始まり、5年で生涯残り続ける後遺症が発生するようだ。その症状は精神病の統合失調症に似ていて、慢性の幻覚妄想状態や意欲低下などを引き起こし、現実と非現実の区別がつかなくなり、きちんとした日常生活が送れなくなってしまう。
(…略…)
酸いも甘いもわかっていたはずの、ドラッグ経験も豊富で頭の切れるこの道の先輩たちが、なんだかんだいっても結局は覚醒剤にノックアウトされ、平気で親しい者を裏切り、何人かは再起不能(自死&精神病)に陥ってしまった姿を目の当たりにすると、覚醒剤を上手にコントロールするのは難しい、なんて甘っちょろい表現ではなく、不可能だといわざるを得ない!反対にコントロールされてしまうのがオチだろう。
たった一度でもハマる人はハマる。カネとルートがあれば絶対にハマる。いま辛い人ほどハマる。(…略…)
覚醒剤による快楽中枢への刺激は、それだけの痕跡を脳に残す。再びやりたい衝撃と、それ以後の人生ずっと闘わなければならない。これは、キツイ!たとえやめられたとしても、一生苦労するだろう。絶対に知らなかった方が良かったってことになる。現実逃避や、ほんの好奇心で、手を出すようなシロモノではないのだ。日本よりドラッグに寛容な欧米でも、覚醒剤(クリスタル・メタンフェタミン)は相当問題ありのドラッグとして認識されており、法律云々というより当たり前の常識として、心と身体を壊すからやらない者が多い。
あらゆるドラッグの中で、覚醒剤の誘惑だけには決して乗ってはいけないと、僕は声を大にして忠告する。”
消防署見学
今日は一日学校のプログラムで消防署に行って参りました。一人でです。
目的は救急車に乗って同行するというものですが、全くお呼びがない日もあるそうです。
・救急車に同行する
今日は運良く…というか患者さんにとっては運悪く…出動が一回有りました。
自転車に乗った女の子が乗用車にはね飛ばされてました。
到着した時には仰向けにされて、周りに付近住民の人だかり。
少女は顔面擦過、膝に開放裂傷が目立った外傷で、その他体のあちこちに切り傷擦り傷がありましたが、幸い骨折や内臓損傷などはなく大丈夫そうでした。
「夢見てて…目が覚めたら地面に倒れてた…夢やと思った。」
救急車の中で泣きそうな声でそう言っていたのがとても可哀相でした。
夢を見たということは(外見上にない)頭部へのダメージも考えられると言うことで、最寄りの総合病院になるうちの大学病院まで搬送になりました。
・救命法の手ほどきを受ける
その後は救命士の方に救急の手ほどきを受けました。
心肺蘇生とAEDと喉頭鏡の使い方、および気管挿管を実践しました。(人形相手)
あと下顎挙上法による気道確保とバックバルブマスクによる人工呼吸。
心肺蘇生のガイドラインというのは結構ころころ変わるんですが、最近ではもうマウスツーマウスの人工呼吸は必須とされず、とにかく胸骨圧迫による心臓マッサージをしっかり持続させることに重点が置かれます。
心臓マッサージの位置も以前のように剣状突起から二横指上とか気にせずに、両乳首の中点あたりに中心が来るようにして、掌付け根に垂直に体重をかけながら胸骨を強く圧迫します。(4cm位押し下げるのを目標に)
心臓マッサージ30回につき2回人工呼吸をしてから改めてバイタルサインを10秒間観察し、なければ再び繰り返し、これを5セットするのが基本となります。しかし人工呼吸は専用のマスクや器具がなければ感染の危険もあり、また心臓マッサージだけでも胸腔内圧の変化により呼吸が成立しているとして、有効な心臓マッサージさえしていれば良いとするのが最新の見解です。
AEDは最近はすっかり電子化され、一般人の利用が法的に認められることを前提に作られているので、コンピューターと説明書の指示通りにすれば簡単にできます。心電図解析とR波との同期も自動化されており、文字通り猿でもできるシステムとなってます。
以前愛知万博で富山大学だったかの医学生がAEDで蘇生したといって賛美されていましたが、あんなのは誰でもできるし誰でもやっていいんだからね〜!ボールペンで気管切開したとか胸腔ドレナージしたとかなら別ですがね。はい、ひがみです。
喉頭鏡は鎌状に湾曲した特殊な道具で、舌を抑えながら喉頭蓋の根本まで至りこれを押し下げて、声門・気道を露出させます。このとき喉頭蓋そのものを圧迫してしまうとこれに豊富な迷走神経が刺激され心拍停止まで引き起こしてしまうのだから慎重を要します。
こうして露出させた声門を通して気管挿管をするわけですが、このときに声門を刺激してしまうと反射で閉じてしまい、気管切開以外にどうしようもなくなってしまうそうです。
救命はまさに真剣勝負です。
ちなみに今は食道閉鎖型の気道確保術もあり、これならば盲目的に挿管できるため確実性が高いとか。
ところで、日本の救急救命士って実はかなりできることが限られているんです。
資格をもった救命士が行える三つの特定行為があります。
それは、1,気管挿入 2,ライン(輸液路)の確保 3,静脈注射 なのですが、これら特定行為は心肺停止していないとできないというのです。たとえ明らかにアナフィラキシーで呼吸困難に陥っている人がいても、いっぺん心肺停止して死んでくれないとアドレナリン注射できないといいます。
これは日本の医療行政が世界的に遅れをとっている結果です。
海外のパラメディックはより高度の裁量ある特定行為を行えます。
さらに、救命士の待遇も悪いと言うほかありません。
一回出動しても何百円と言うではありませんか。
大体救急車がタダというのはほとんど日本ぐらいです。
そのうえ医療費削減を平気で進めようとしてるんですから、狂気の沙汰です。
ただでさえ高齢化社会が進み、救急車をタクシー代わりに呼ぶ輩が増え続けているこのご時世。これ以上医療費が圧迫されたら質の低下は免れません。
アメリカでは救急車を呼ぶと「クレジットカードをご用意の上お待ちください」と言われる社会です。医療費を削減するなら、日本の医療もこのぐらいプライベート・ビジネスに開放する覚悟をもつべきでしょう。
自民党はどうせ今後もだらだら医療費削減するんでしょうから、いっそ民主党に政権交代して医療費増額に見直してもらうほか有りません。
・この日本人を見よ
消防署内はそのまんま体育会系です。男性オンリーです。
そのなかに単独で放り込まれることに最初は不安ばかりを感じましたが、よく見ているとみなさん立派な方々です。おそらく僕より若い高卒で来られた団員も多かったです。昭和日本を支えられた初老のおとうさんもおりました。文字通り日本の社会を支える方々です。
中でも昭和の生き証人たる初老の分署長がいろいろと話してくれました。
以下分署長語録
「最近は首をつったり手首を切ったりというのが増えとるんや。わしから見たら別に貧乏でもない、豊かな人らなのにどうしてそういうことしよるんかの。最近はみんな何かあったら死んだらええ思うようになってしもうたんかの。」
「いろんな事故を見てきよったし、もうどんな死体見ても何も思わん。なれてしもた。
ひどいのは鉄道事故や。もうぐちゃぐちゃになってしまう。この前みたんは体が真っ二つや。明らかに死亡やけど、専門家が死亡認定するまでは死んどらんことなっとんやな。あれも自殺やったわ。」
「この前可哀相にと思うたんわな、クルマ二台が衝突したんや。フォルクス・ワーゲンと三菱のジープや。フォルクス・ワーゲンは横っ腹に突っ込まれてからに、接合部から真っ二つになって、乗ってた四人は森に吹き飛ばされよった。即死や。ジープの方は軽い骨折やった。やっぱ大きいクルマの方が強かったんやな。
四人を探すんが大変やった。けどまだ朝方やったから良かった。夜やったら人を置いていかんとあかんし、大変やったやろうな。若者四人、夜に遊んで帰る途中やったんやな。それでこれがまた、みんなジーンズはいとったんや。やから”男4名です”と言う人がおった。でもそうかな?と思って、胸を触ってみい言うて、そしたら”女です”ってわかったんや。 男3人、女1人やった。みんな若かった。可哀相やったな…。」
「ここに来る前は自衛官やってまして、18歳で入隊してずっと、日本中転々としていろんなもん見せてもらいました。三島由紀夫が自決した、あんときも現役でおったんや。そうや、市ヶ谷でな。あそこはエリートが集まっとったんや。盾の会っちゅうんがな、防衛庁の中にも入りこんどったんや。なんや偉い思想やったな。でもわたしはそんな難しいこと考えませんから。(笑)よく分かりませんでした。いろんな思想がありますね。
浅間山荘の時も、我々いつでも出動できるように待機してました。アメリカのカービン銃もってな。百発百中でした。でも人質がおるっていうので、警察官が命落としてもやりましたね。」
「航空自衛隊で整備士をしてました。緑内障で、パイロットにはなれなかったんです。
アメリカの飛行機がすごいって言いますけど、イギリスのハリアーがデモで来た時、これはすごいと思いました。空中でスッと止まるんですよ。本当にすごい。」
「最近は外国の製品ばかり売れてるけど、部品は今でも日本が一番。でも高い。
日本人の技術力は高い。でもお金がかかっちゃう。(笑)」
「昔は運動は何でもやった。柔道に居合道。そう、真剣も買ったんです。すぐ登録して。居合道で名古屋城の大会にも行ったんです。振り下ろして、止める時にこう握る手に力を入れる。あれが難しいんやな。大会の時、つい行き過ぎて、お城の地面に傷つけてしもた。(笑)」
「米軍の基地に行った時は感動しました。柱が大きい、部屋も広い、便所も大きいて、洗面所かと思いました。(笑)むこうはほんとにスケールが大きいです。」
以上は僕が記憶を簡潔に再構成したもので、実際の話の流れや語り口調まで再現してるわけではありません。
何でこんなこと書き出したかというと、感動したからです。
嗚呼このお方こそ愛すべき日本人。
謙虚で、しかし芯は自信に満ち、頭でっかちな思想を退けて今ここにいる自分の責務を果たし、定年退職してもいいのに敢えて社会の歯車として世の中に当然の様に献身する。昭和の生き証人として人生の辛苦、歴史のうねりを味わってなお、いい意味で12歳の少年のように誠実で、お茶目で、世を当然のものとして受け入れていらっしゃる。
消防署の方々、ほんとうにありがとうございました。
末永くご健勝お祈りします。
ルーブル美術館展-17世紀ヨーロッパ絵画- @京都市美術館
「ルーブル美術館展-17世紀ヨーロッパ絵画-」 @京都市美術館に行ってきました。時代はルネサンス、近代自然科学の黎明期、プロテスタントの出現でカトリックも対抗宗教改革で気合いを入れている時代です。

「天国の栄光」 by ミシェル・コルネイユ、
油彩、紙
天井画の様で一風変わっていただけでなく、桁違いの神々しさを感じ、大変印象に残りました。

「受胎告知 天使/聖母」 by カルロ・ドルチ Carlo Dolci
1953年頃、油彩、カンヴァス
この時代ではプロテスタントに対抗するため、カトリックは聖母崇敬を前面に押し出したそうです。
なので聖母を描いた絵が多かったですが、中でもこのカルロ・ドルチは聖母画に定評あり。ほかに「悲しみの聖母」が有名です。聖母マリアのシンボル・カラーは青。高価なラピス・ラズリを使用した絵の具が使用されます。
ミレーの『晩鐘』が描くもの

ミレーの『晩鐘』、英題angelus、という有名な絵があります。
夕焼けの畑の只中で、鍬を地に刺し置き、収穫したイモの籠を挟み、農民夫婦が静謐のなか厳かに頭を垂れて祈っている。
私は昔から、この絵は収穫に対して神に感謝の祈りをしているのだと思っていましたが、カトリックの勉強をしているとこれが実はそうではないことが分かりました。
この絵の背景には鐘楼のある天主堂(教会)が見えます。今あの鐘楼から夕べのお告げの鐘が鳴っているのです。この鐘がなるとカトリック信徒は聖母マリアの受胎を祝して祈ります。
その祈りの言葉は、
“主の御使いの告げありければ、マリアは聖霊によりて懐胎し給えり
我は主の使い女なり、仰せの如く我になれかし
しかして御言葉は人となり給い、我らのうちに住み給えり…”
などと言います。
この祈りの始まりである“主の御使い”、すなわち天使こそ、アンゼラスangelus=エンジェルであるわけです。なのでこの鐘の音はアンゼラスと呼ばれ、それこそがこの絵の元の題が意味するところなのです。
アンゼラスは『晩鐘』に限らず、朝昼晩の三回鳴ります。それを聞くと信徒は跪いて祈りますが、土曜の夜と日曜は立ってするそうです。とするとこの絵は土曜の『晩鐘』ということが分かります(?)。
いずれにしても、素朴な祈りの姿は美しいものです。
『アメリカのカトリック 人と霊性』(木鎌安雄著、聖母文庫)

『アメリカのカトリック 人と霊性』(木鎌安雄著、聖母文庫)は文字通りアメリカのカトリックの礎を築いた重要な人物のうち5人について簡潔にまとめた一冊。300ページに満たない小文庫本であるので情報には限りがあるものの、初めて知る人のガイダンスとしては最適です。
本書に紹介される人物は以下の5人、
ジョン・キャロル…アメリカ最初の大司教(上肖像画)
エリザベス・シートン…アメリカ最初の修道女会創立者
アイザック・トマス・ヘッカー…司祭、使徒聖パウロ宣教会創立者、月刊誌『カトリック世界』発刊
ドロシー・デイ…カトリック著述家にして社会運動家、新聞「カトリック労働者」発刊
トマス・マートン…アメリカの代表的修道僧、多くの宗教書を著す
アメリカはプロテスタントとフリーメイソンの国のため、建国よりカトリックに対して反感のある土壌でした。なので英カトリック入植地であるメリーランド出身のジョン・キャロル以外は皆プロテスタントあるいは無神論からカトリックへの回心、転籍者です。彼らが如何に周囲の偏見や敵意に打ち勝ってカトリック受洗に至ったのか、本書ではその転機、経緯、霊性が簡易にまとめられていて参考になります。
小文庫本でありながら、各人物についての引用文献がしっかり示されており、彼らを研究するためのちょっとした手引書としても有用な一冊です。
酒井紀子より押尾学の方が悪質な件
先日続いて起きた芸能人による麻薬スキャンダル。酒井紀子が自首してからは酒井バッシング一色で、押尾学事件が隠蔽されている感じがするが、また何か芸能界特有の事情(事務所からの圧力とか)で故意にされているのだろうか、それとも単に話題性の問題だろうか、いずれにしてもフェアではないと思います。
この押尾学という人、僕が言うのもなんですが、なかなか最低人間ではありませんか。
まずキャバ嬢とマンションに行っている時点で不倫。
MDMA通称エクスタシーはセックスドラッグとして知られ、ひどく堕落した性生活を送っていたのだろうことを伺わせます。
そして相手が泡を吹いて倒れると、この人は心臓マッサージをしたというが多分嘘で、犯罪者の嗅覚で一目散に逃走したのではないだろうか。大体救命措置にしても救急車を呼び専門家の指示を仰ぐという大前提があって初めて意味があるのであって、たとえ自力で救命を試みたとしても諦めて誰にも告げずに逃げたのでは、自らの保身のために相手の生命を捨てたのと同じです。
10時間も姿をくらましていたというが、おそらくマネージャーや事務所と即刻連絡を取り、関係者にうながされるままに薬物が体内から排泄されるまで待機していたのでしょう。おそらく事件発生時点で救急車を呼んでいれば助かった可能性は大きいでしょう。未必の故意ありです。過失致死罪も適用ありではないかと。
どうせ発覚することは分かっているのにわずかばかりの保身のために平気で(寸前まで寝ようと思っていた)女の命を捨てて逃げる、この押尾学なる男こそ、芸能人以前に人間として厳しくバッシングされるべきではないでしょうか。この人と比べれば酒井紀子の事件が可愛く見えるのは僕だけではないはずです。
ちなみにスキャンダルという言葉はキリスト教世界では“つまずき”を意味します。つまり、信仰を損なってしまう物事を意味します。芸能人のスキャンダルといった場合、ファンをはじめとする人々が信じていたイメージを損なってしまう物事、という捉え方ができるでしょう。つまり言いたいのは、どのぐらいスキャンダルか否かは、主体の客体に対する主観によるということです。
つまりですね、昨日窪塚洋介が自身の販促ライブで「のりピーがどうとか、押尾とか関係ねーもん。おれはそんなことしねーし」とか言った(※)のは僕的にはスキャンダルです。(笑)
注) 合成麻薬はダイレクトに寿命が縮むので手を出すのはやめましょう。
天然麻薬のたばこ、酒は害もある程度可逆的なので節度をもって楽しみましょう。(たばこは血管が傷むし酒は脳が委縮するし、しないにこしたことはありません。)大麻も天然ですが法律違反なのでやめときましょう。

↑(MDMAの錠剤)
「モンゴル」
浅野忠信主演の「モンゴル」を観賞。
ロシア人監督セルゲイ・ボドロフによる監督・製作、モンゴル人、中国人俳優たちからなる国際色豊かな本作はアカデミー賞外国語映画賞にもノミネートされました。
全編はモンゴル語と一部中国語で語られます。
歴史上の当事者たちが話していた原語に敬意を払う姿勢には好感がもてます。
作風はクラシカルでありながら、戦闘演出は今風であります。
全体的におとなしめで、その分衣装やセットなど文化的演出が入念に行われています。
物語は史上最も広大な帝国を築き上げたチンギス・ハーンの半生を描くものです。
しかし映画の中核となる彼の若い頃の半生は史料が残っておらず謎とされています。
この点についての本作の立場を、映画「モンゴル」公式HPから以下に拝借させていただきます。
“ 当時の歴史を記した「元朝秘史」によれば、チンギス・ハーンの人生には、空白の期間があるという。ボドロフは、「おそらく捕らえられ、牢に繋がれていたのだ」と考えるロシアの歴史学者レフ・グミリョーフの説を大胆に取り入れ、架空都市・タングート王国で長い間監禁されるテムジンを描いた。「これは物語上、とても重要だ」と彼は語る。「ロシアの19世紀の革命家やスターリン時代に長い年月を獄中で過ごした人々の何人かが、後に哲学者や偉大な人物となったように、テムジンが瞑想し深く考える月日を持たなければ、後のチンギス・ハーンは存在しなかったのではないか」と考えたからだ。
こうして、“人間の真実”を探求することで、“英雄”の若き日々が、生き生きと立ち上がっていった。 ”

それにしてもロシアの監督がアジア最強の支配者であるチンギス・ハーンとして選び出したのが浅野忠信というのは面白い。似たような二重瞼のいわゆるイケメン顔ばかりの日本人俳優市場において一重まぶたの彼は異彩を放ち個性派俳優であるが、普遍的感性による世界の目から見ればあの顔こそ強く魅力的なアジア人なのでしょう。僕もそう思います。妻役のモンゴル人女優Khulan Chuluunも一重まぶたで切れ長の目、扁平な顔だけど、そこにアジア人的な強さ美しさが感じられます。
対して同じ時期に劇場公開した日本映画(日本=モンゴル合作というが日本人俳優による完全な日本語作品なのでハッタリです)「蒼き狼 地果て海尽きるまで」では主演が反町隆史に菊池玲子と、完全な芸能人コスプレ学園祭と成り下がってます。僕がモンゴル人なら腹が立つでしょう。しかしこんな映画が日本ではTV会社ぐるみで制作されて大々的にPRされ、おかげでせっかく日本人主演でアカデミーノミネートの傑作「モンゴル」が隠されてしまうのだから困ったものです。
8/10点
「G.I.ジョー」に観る日本キムチ化現象の実際

映画「G.I.ジョー」観てきました。
ジェットコースター型でスリリングなアクション映像が楽しいです。登場人物もキャラ立ちしててカッコいい。
しかし最近流行りのゲーム感覚のアクションに辟易している諸氏には退屈極まりないかもしれません。私もいつか観たようなアクションシーンの最中、つい意識を失ってました。
個人的にひとつ気になったんですが、主要キャラの一人に忍者が出てきます。
この忍者、原作では日系なんですが、演じるのは韓国俳優イ・ビョンホンです。
それ自体は全く問題ない。韓国人は最近目を見張る勢いでハリウッドに進出していますし、英語をしゃべれず閉鎖的な業界に甘んじる日本人俳優(真田 広之さんを除く)が起用されないのも仕方がありません。
問題なのは、物語中彼の修行時代の回想が始まり、これまたファンタジックな東京の城(!)が映されます。少年時代の彼が出てきて一声を放ちます。てこれ、韓国語…。
実はイ・ビョンホンの強い要望により、この忍者は韓国人ということにされたそうです。
韓国は海外で定評のある日本の文化を悉く韓国起源であると言い張ると聞きますが、それはどうやら本当の様ですね。この映画を見た人の中には、忍者は韓国のものなんだと思ってしまう人もいるでしょう。他の映画(確か「トゥーム・レイダー」)では剣道が韓国のものとして映し出されてました。
こんな勢いで仕掛けてこられたら、国際的に主張するのが苦手な日本はまんまと出し抜かれて、いずれ「日本文化は韓国のもの」というのが世界の常識になってしまいかねませんね。
断わっておきますが、私に韓国人を差別する意図はまったくございません。
韓国と日本の文化力が逆転していく潮流の、当然の帰結かなあとただ諦観しておるばかりです。
7/10点
「マリア」 The Nativity Story

この映画「マリア」は、原題「The Nativity Story」が示すとおり、キリスト降誕伝承の映画です。
ローカルな信者向け作品は数あれど、この作品は特にクオリティが高い。
まず映像の質が高く、それだけ細部にこだわって作られています。
考古学的考証も入念に重ねられており、まさに西暦元年のユダヤ地方の文化や生活が見事に再現されています。マリアとヨセフが行くユダヤの国の雄大な大自然はそれだけで目を見張るスケール感があり、大人も子供も楽しめるものとなっています。
演じる俳優も人種的特徴にこだわって構成されており、聖家族なるマリアとヨセフも褐色の肌のアジア系俳優がキャスティングされています。
キリスト教は実に西洋と東洋の中間である中東アジアの中で生まれ出たものという事実を、この映画は鮮やかに思い起こさせてくれます。
8/10点
偽預言者は誰だ! −飛鳥昭雄氏の終末論に一言
・飛鳥昭雄氏の終末論に一言最近飛鳥昭雄なる人の文章を拝借させていただいているのですが、この人は古くはUFOや月空洞説や魔術などいわゆる不思議世界系のライターとして日本の第一人者的な人で、いわゆる”とんでも”話研究家なんですが、近年にモルモン教徒になられたようで、以降はお得意のカッバーラや日本の神道など様々な分野、ジャンルから相互に関連させて聖書およびキリスト信仰を解き明かしていくという興味深いスタンスをとっており、最近愛読しているわけです。
しかしここで断わっておきますが、自分は飛鳥信者では全くありません。
彼のキリスト論はいつも終末論に重点がおかれており、そこにまず違和感を覚えます。
終末論自体は自分も興味があるし、実際氏の説はとてもユニークで面白いのですが、ひとつ大きく容認しかねるところがあります。
それは彼の容赦ないカトリック攻撃です。(なんだか前も同じようなことを言ったような…)
彼はその終末論において、世界の終わりには”正しいキリスト教信者”(これを彼は”原始キリスト教会の信徒”とも呼ぶが、具体的にそれがどの宗派であるのか詳らかでない)だけでなく、イスラム教・ユダヤ教、ヒンズー教など様々な宗教を信じ、まじめに生きてきた人々が救われ復活する、無神論者でも善人は救われる、としています。
がしかし、しかし!、飛鳥氏いわく誤った信仰である三位一体を信じ、神より法王を崇拝し、マリア崇敬をするカトリック信者は地獄に落ちると断言します。全くナンセンスな話です。法王を教祖として崇拝しているカトリック信者など皆無だし、マリア崇敬については以前話したとおりです。そもそもキリスト教徒以外のあらゆる宗教を信じる善人は救われるとしときながら、同じキリスト教徒でしかも世界で最も歴史あり信者数も最大のカトリックだけは悪魔の手先であり、同じく神に反する進化論者や無神論者と同類で滅ぼされると、はっきり何度も断定します。その根拠としてヨハネの黙示録にある獣の数字666や偽預言者は法王を指していると言います。
一万歩譲って法王がサタンに取って代わられたとしても、一般のカトリック信徒の大半にとって法王はあくまで象徴であり、法王の言動によって自信の信仰が揺るがされるということはあり得ないでしょう。法王はあくまで、“神の僕たちの僕”であるという予防線が張られています。
また彼は、聖書の末尾に位置するヨハネの黙示録の最後に「これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加える。また、この預言の書の言葉から何かを取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。」という文があることを指して、後世に出てくるもう一つの聖書を排するためのバチカンの陰謀だなどと批判します。別の個所ではこの文はヨハネの黙示録の予言としての重大性を意味しているとしておきながら、どうしてこのような被害妄想が出てくるのか、首をかしげざるをえません。
そもそも既存の聖書以外に聖典を認めないのはプロテスタントの方がむしろ厳格であり、正統的キリスト教の基本中の基本なのですが、なぜカトリックだけが指名されて糾弾されるのか理解できません。キリスト教的背景を前面に押し出しながら聖書以外に独自の経典を持ち出すのは、原理講論を掲げる統一教会のように、カルトであると相場が決まっています。
飛鳥氏が入信しているモルモン教(正式名称は末日聖徒イエス・キリスト教会)はその最たるもので、モルモン経という全くオリジナルの聖典を擁しています。これは古代アメリカ大陸に渡ったユダヤ人の預言を記した金板を、教祖ジョセフ・スミス・ジュニアが偶然掘り起こして、自作の翻訳機で訳したものなのだそうですが、言葉は悪いですがこれはどう考えても自作じ(略) またその教義も三位三体という正統キリスト教信仰としては一般に認められていないもので、1830年の創始以来、一夫多妻制を実施しようとしたりアメリカ政府と戦争したりしながら、それでも教団を拡大させユタ州を牛耳ってしまうと一般のアメリカ人もこれをカルトとして扱ってばかりもおれず、アメリカでは本国生まれの準既成宗教のような扱いをうけています。しかしキリスト教はキリスト教でも、インディアンがユダヤ人の末裔であるとするなど所謂”とんでも”系本命のモルモン教を”真のキリスト教”として選ぶとは、さすが我らが飛鳥先生、ある意味期待を裏切りません。(言っておきますが決して揶揄しているのではなく、とても論の立つ方だからこそ”とんでも”をものともせず切りこんでいかれるのでしょうし、それこそ飛鳥先生の魅力というものです。)
要するに彼は結局、聖書以外に聖典をもち三位三体の教義のモルモン教こそが”真のキリスト教”である、と言いたいことは明白なのですが、そうならそうと言ってくれればいいのにハッキリさせず、カトリックをこき下ろすことでしか表現できないというのは、何かやましい処でもあるのでしょうか。断わっておきますが、別にモルモン教であったとしても恥ずかしがることは何もないと自分は思います。コヴィー博士とか尊敬してます。ただ飛鳥氏のカトリック理解はいくら何でもひどすぎます。
※飛鳥氏の終末論は主に『言霊でしか解けない聖書』(飛鳥昭雄著、超知ライブラリー)を参照
・フリーメイソンとカトリック

飛鳥氏はフリーメイソンを好意的に捉えているようですが、その影響も大きいかもしれません。
フリーメイソンはフランス革命やアメリカ建国に中心的な役割を演じた秘密結社で、イギリス王室やヨーロッパ革命家、アメリカ大統領の内初代を含む過半数など、歴史を動かした錚々たる顔ぶれをメンバーに抱き、今なお世界の支配階級の多くがメンバーであることから様々な陰謀説の主役として耳にしたことがある人も多いはず。
このフリーメイソンもまた昔からカトリックの不倶戴天の敵であり、その活動内容は千年続いたキリスト教カトリックの形作ってきたあらゆる体制の破壊と、その後釜に据える自分たちの手による新世界秩序の構築を究極の目的としています。フランス革命ではカトリック教会を崩壊寸前まで追いやりましたし、アメリカ建国によって新しい世界秩序の建設にも成功したことは歴史をみる限り明らかです。
一説にはロシアの共産革命もフリーメイソンの関わったものと言います。フランス革命とロシア共産革命はどちらも、一部のブルジョワ・中産階級が大衆を煽動して無神論的体制による専制支配を敷いたという点で酷似しています。どちらの革命においても、キリスト教会が破壊され聖職者および信徒が虐殺されました。
フリーメイソンに入会するには信仰があることが条件とされます。キリスト教でなくとも如何なる宗教であってもよいとされます。その一方でカトリックには昔から敵意をむき出しにしてきました。なんだか飛鳥説に似ています。信仰を条件とする理由は、フリーメイソン自体が究極的には理神論に依り立つ宗教であるため、最終的な移行のキャパシティをみているものと考えられます。フリーメイソンはフランス革命後カトリックを追い出したノートルダム大聖堂で理性の女神を祀る儀式を行いました。そんなことをさせるフリーメイソンという組織は、本当は何を信じ何を考え何を目的としているのでしょうか。
フリーメイソンは内部に厳格な階級体制をしいており、下位のメンバーにはその奥義や活動の枢要が知らされることは決してありません。秘密を漏らそうとする者は命をも奪われました。また世界中に設置されているロッジはネットワークでつながっていながらもその性質はそれぞれ異なっていることから、外部の者はもとよりメンバーですら末端の者や表向きのロッジの者はその全貌を知るよしもありません。
フリーメイソンが本当に自分たちが主張するような、自由と博愛と友愛の団体であるのなら、なぜかくも光を恐れるのか。かつてローマ法王が投げかけたこの問いに、未だ誰も誠実に応えようとしないようです。
・偽預言者はどっち?
話が大きく逸れましたが、こうも世の中カトリックが集中的に誹謗中傷され貶められるのを見ていると、その背後に何か公にできない目的を持って糸を引いている存在がいるように思えて背筋の寒くなるようなものを覚えることがあります。
飛鳥説ではローマ法王率いるカトリック教会こそ偽預言者でそれとは別に真の預言者なり救世主がいると言いますが、果たして僕にはその逆のように思えてならない。昨今堰をきったように流行する反カトリックの映画や小説や異説書の数々こそ、カトリックひいてはキリスト教そのものの信用を失墜させる意図をもった偽預言者の準備段階のように思えてならない。
本当の”世界の7不思議”
ある日学校のクラスで、現在の世界の7不思議をみんなで考えることになりました。
いくつか意見の違いはあったけど、最も票を得たものは以下の7つでした。
1、エジプトの大ピラミッド
2、インドのタージマハル
3、アメリカのグランドキャニオン
4、パナマ運河
5、アメリカのエンパイアステートビル
6、バチカンの聖ペトロ大聖堂
7、中国の万里の長城
票を集めているとき、先生は一人まだ紙を提出していないことに気付きました。
先生は、何か分からないことがあるのかとその生徒に尋ねました。
女の子は言いました。
「はい、先生。とってもいっぱい思いついて、どれにするか決められません。」
先生は言いました。
「何を思いついたか言ってごらん。みんなで考えましょう。」
女の子はすこし恥ずかしがって、読みました。
「世界の7不思議は…
1、目が見えること
2、音が聞けること
3、触れること
4、味わえること
5、感じられること
6、笑えること
7、愛せること 」
部屋は、ピンの落ちる音さえ聞こえるほど、静まり返りました。
私たちが普段、単純で普通で当然と思っていることほど、不思議ですばらしいものはありません。
ささやかな注意: 命にとって一番大切なものは、人の手によって作られたり買われたりすることはできません。
「宗教は弱い人間が入る」という虚言
今回は以下「飛鳥昭雄ミステリー大全II」(飛鳥昭雄著、工学社)p169-174から、自分もまったく同意見であり大変溜飲の下がる思いだったので、そのまま抜粋させてもらいます。飛鳥先生ありがとう!・無宗教が常識という錯覚!!
今回はわざと極端な物言いをしているので、その点だけは最初から差し引いて読んでいただきたい。なぜなら、対象とする意見が極論だからだ。
日本人はよく「宗教は弱い人間が入る」と言う。
日本人なら誰でも一度ぐらいは、どこかでそんな言葉を聞いたことがあるはずである。そう言う言葉を吐く人々は、本当は心からそう信じているのだろうか。
戦前戦中派の日本人は、特にその傾向が強いように思える。それは現人神の天皇陛下を抱く神道思想教育がトラウマとなり、アメリカ軍に対して神風が吹かなかったことや、神の国が鬼畜米英に踏み躙られたことから、そう言わせたのだろうと推測できる。
自分たちが軍に騙されたことの反省でもある。
問題は、その親たちの言葉を聞いた世代も、同じように考える傾向があることだ。
教育の場も、戦前教育に神経質になるあまり、日教組の左翼的考えに同調して宗教を麻薬、あるいは信じたら大変な目にあうと、直接間接を問わず教えてきた。
その暗黙的キャッチフレーズが、自分たちを鼓舞するかのような「宗教は弱い者が入る」だったのではないだろうか。
教育とは恐ろしい。時代が変わってもどこかにそれがインプットされている。
オウム真理教のクーデター事件が起きた時も、「カルトは馬鹿が入る」「宗教など求めるからカルトに騙される」等々が囁かれた。
つまり、言いたいことは、「宗教は弱い者が入る」であり、その元は中国共産党が唱えた「宗教は麻薬だ!」である。
もし本当にそう思っている日本人がいるなら、欧米に赴いた際にでも、日曜日に街のどこにでもある教会のどれかを選び、同じ言葉を胸を張って言ってはどうだろう。
どうしても日曜日が無理なら、ウィークエンドでもいい、街の中心街に出向き、教会の福祉協会に出入りする大勢の人々に向けて、同じセリフを言ってはどうだ。
万が一、仮に喧嘩になっても、無宗教の日本人の方が、神を信じる欧米人よりも精神的にも体力的にも強いハズだから、何の心配もないはずである。もう一度言うが、筆者は極論に対してわざと極論で対応している。そのほうがいかに馬鹿馬鹿しい意見かが浮き彫りになるからだ。
もし日本人が欧米でそれを言うのが恥ずかしいなら、インドに行っても同じセリフを通訳を使ってでも言ってみたらどうだろう。パキスタンでもいいのではないか。
「無神論」の日本人の方が強い理屈なので、心配は不要のはずである。
あるいはイラク、イラン、アフガニスタン、サウジアラビアでもいい、本当に心から自分が常識と信じる「無神論」「無宗教」の最強さを標榜するのであれば、海外でも国内と同じセリフが吐けるはずである。
それができないというのであれば、単なる国内向けの強がりであり、内弁慶の典型ではないだろうか。
すると、そういう多くはこう言うに違いない。
「そういう問題ではない…」
では、自分たちが唱える”宗教は弱い者が入る”の言葉の真意とは何なのだろう。
「別に世界に向けて言うには及ばない」
怖いのだろうか。
「世界とは仲良くするものであり、押しつけることではない。」
大変けっこうな自己弁護である。
世界に対して言う勇気はないが、国内でならいくらでも言える…なるほど、同じことを外国人も思うだろう。
そしてこう言い返されたらどう返事をするのだろうか。
「そういう貴方の国は今どうなっているのですか?」
毎年3万人を超える自殺者の数。10万人を超える登校拒否児童。130万人もの引きこもりの存在。検挙率の最低を更新し続ける日本の警察。貯金ゼロ(本当はマイナス)が激増する家庭経済…等々。
いったい、無宗教が強さの表れと信じている人間のどこが強いのか教えてほしい。
もし、海外で血気盛んな人が出てきて、こう言うかもしれない。
「それほど無神論の人間が強いなら、今この場で戦え。」
本当に、自分の信念に自信があるならやってみるべきだ。まして男なら後を見せるような下劣な真似はできないはずだ。
しかし、ほとんどの者は外国人に叩きのめされるのではないだろうか。
仮に喧嘩でなくてもいい、レスリング、ボクシング、何でもいい。一般人同士で外国人とぶつかってみるべきである。
しかし、ほとんどの人間は、スポーツでも外国人に敗北するのではないだろうか。ほとんどの日本人が、体力増進よりも頭でっかち優先教育の中で育ってきたからだ。事実、日本人の体力は戦前よりも落ちている。
しかし、多くの日本人はこう言うかもしれない。
「日本は仏教国である」
嘘である。本当の仏教国は、若者は仏教に帰依して托鉢を行わねばならない。それが仏教国の一つの特徴である。自分が仏教徒と信じている日本人は芥子粒(けしつぶ)もいないのが現実だろう。 ほとんどの日本人が寺と関わるのは葬式ぐらいでしかない。
「神道国である」
それも嘘である。神社に赴くのは「七五三」か「初詣」ぐらいで、後は正月に飾る「鏡餅」ぐらいでしかない。神社への御布施もせいぜい賽銭箱に投げ込む百円玉がいいところだ。だいたい、ほとんどの日本人は『古事記』『日本書紀』など読んだこともないはずである。
後は入試や恋愛の真っ最中に、絵馬や頼み事を書く神頼みぐらいだろう。すべてとは言わないが、神輿を担ぐのも祭りを行うのも、神社側ではない限り地域の活性化や行事の参加が慣習化している結果である。いったいいくつの家に神棚が奉ってあるだろうか。
これでは神仏への信仰にならない。ある意味、宗教とは自分の人生のすべてである。
いったい、日本人の多くが間接的に思い込んでいる「宗教は弱い者が入る」という自信は、どこからくるのだろうか。
良い悪いは関係なく、日本人は島国に住んでいる。つまり、狭い日本の常識だけの中で生きているのである。だから、日本人が思う以上に世界の常識が見えていない。
世界では、「中国」と「北朝鮮」と「日本」以外、無宗教、無神論のほうが非常識である。その中で2カ国は無神論の社会主義国で、自由主義圏では日本人だけが無神論、無宗教を常識として信じて生きている。
だから、森・元首相の”神の国発言”にも、あれほどのアレルギー反応を示すことになる。本来、アレルギーは病気である。それが分かっていない。
「宗教は弱い者が入る」と中国で言えば、共産党の幹部たちが「宗教は麻薬だ」と合掌連呼し、拍手してくれるかもしれない。
北朝鮮でも、「神は金正日様だけ、他の宗教は不要」と歓喜の声を上げながら、一緒に喜んでくれるかもしれない。
日本は、無神論、無宗教に染まった日教組と、左翼思想の文部省教育の中、教育現場で子供たちを官僚思想教育の中に閉じ込めている。日本の子供たちは、今も無神論を常識と思い込ませるマインドコントロール下に置かれている。だから宗教に免疫が無くなり、オウム真理教などが出現すると、宗教とカルトの違いも分からず、純粋な者ほど簡単に引っ掛かってしまうのである。つまり宗教に対して、大人ではないということである。
「宗教は弱い者が入る」…それが正しいなら、なぜ日本は世界最高の宗教大国であるアメリカのポチに成り下がっているのだろうか?
無神論に染まった子供は神を知らないので恐れることもない。だから自分が世界の中心であり、もっとも偉く正しいことになる。人を殺すのも自転車を盗むのもすべてその延長線上にある。
警察にさえ見つからなければ何をしてもかまわない人間に成長するのだ。それが今の日本の現状なのである。
茶道はキリシタン文化だった!?

今や日本の代表的な文化である茶道を大成した千利休がクリスチャンだったという説は実はかなり広く支持されています。
彼とキリシタン信仰の接点ですが、まず彼の妻お稲は武家出身で、茶道をたしなむ夫利休を軽蔑して反りが合わなかったそうですが、そんななか彼は人妻である”おりき”という女性に惹かれていたそうです。そのおりきさんこそキリシタンでした。また彼の他の門下生にもキリシタンがいたようです。なにしろ彼の生きた戦国時代の方が現代日本よりクリスチャンが多かったのですから信憑性のある話です。
利休自身が実際に洗礼を受けていたのかどうか、確かに物的証拠はありません。それも当然で、彼はキリシタン弾圧の張本人である豊臣秀吉に茶道を教え、深く親交があったのですから、たとえ信者であったとしても周到に証拠を残さずに気を配ったでしょう。しかし結局はキリシタンであることがバレてしまい、あの歴史的に謎の切腹を命じられることとなったようです。
利休がキリシタンであったことをうかがわせる事実に、彼の大成した茶道がカトリック(=当時のキリシタン)の聖餐式を参考にしたとしか思えないほど似ていることが挙げられます。
たとえば…
・呑み口を拭く袱紗さばきや茶器を回す動作は、カトリックのミサで神父さんが葡萄酒の器を扱う伝統的動作にそっくりです。
・茶室に入る際、支配者も身分の卑しい者も分け隔てなく躙口(にじりぐち)に伏して入り、茶室の中は貴ばれるべき空間とされる。これも教会を聖とする宗教的な意義を思わせ、その神聖な空間において=神の前で皆が平等であるという暗示であるかのようです。新約聖書マタイ7章「狭き門から入れ」の一節を象徴するようにも感じられます。マタイの福音書は当時も邦訳されたものがあったので、これを字義通りに再現したというわけです。
・儀式的にいただく「茶と菓子」は、キリストの血である「ワイン」とキリストの肉である「パン」をいただくカトリックのミサを彷彿とさせます。
・「侘び錆び」は清貧思想そのものであり、新約聖書ルカ12章「命のために何を食べようか、体のために何を着ようかなどと心配する必要はない。命は食べ物にまさり、体は衣服にまさるものである。(…)ゆりの花を見よ。それは紡ぎも織りもしない。だが私は言う、ソロモン(注、伝説的大神殿)さえその栄華のきわみにも、ゆりの一つほどにも装わなかった。」に通じる美意識を感じさせる。
以上の奇妙な符合と彼の大成した茶道の革新性を鑑みて、利休が洗礼を受けたキリシタンではなかったとしても、キリシタンの教えや儀式に通じており、それを茶道に織りこんだ可能性はあると思われます。このからくりを知った秀吉は、自らが弾圧した信仰の儀式にまんまと参加させられていたようなもので、理由を伏して問答無用の切腹を命じたのも納得できます。
利休=キリシタン説を切り捨てる論者が必ず持ち出すものに、切腹=自殺であり、キリシタンにとって自殺=罪であるから、切腹をした利休はキリシタンのわけがない。という三段論法があります。
利休がなんであるかは別としてこの説は大間違いです。
まずキリシタンにとって自殺は罪であるという説は使い方が間違っています。それはあくまで神に頂いた命を勝手に自分でいらないものと決め付ける心の働きが伴うことが条件であり、信仰を守り通すために選ぶ死は罪ではなく(信仰を捨てたふりをして生き延びるのも罪ではありません)、他人の命のため自らの命を投げ出す行為はむしろ高く評価されます。
次に、切腹が自殺であるという説も大間違い。
切腹を好きでやった人間は極めて稀でしょう。大抵は利休のようにお上に命令されるものであり、あるいは世間の空気や社会制度が強要するものであり、死刑宣告に他なりません。切腹しなければどの道ひっ捕らえられて拷問なり斬首なりされて、しかもお家おとりつぶしで家族や家来まで巻き添えにされましたから、「潔く死のうか死ぬまいか」などという選択権など元よりありません。抵抗すれば家族や家来まで必死になってかかってきて引きずり出されるまでです。
さらに言うと、切腹は形式的にも自殺にあたりません。自分で腹を切って潔く死ぬというのは医学的に至難の業で、下手をすれば何分もハラワタをえぐりながらのたうちまわることになります。腹が開き腸が裂かれるため血と腹水と汚物が混ざって漏れ出て、辺りは悪臭に包まれます。なので実際は介錯人がいて、人によっては腹に刃(あるいは扇子)が入るか入らないかという程度に軽く引いたところで一気に首を斬り落としてしまいます。それでも介錯人の技量によっては上手くいかないこともままあって、最近では三島由紀夫のように肩に外されたりして何度かやり直すこともありました。つまり、切腹はその実限りなく斬首刑に近いものですので、自殺の罪には到底当てはまりません。この程度は少しキリスト教の勉強をすれば理解できるものです。
話は逸れますが、切腹というものにも日本人の性格を如実にあらわしていると思います。これは結局、死刑さえも誰も最終的な責任を負わずに済むシステムではないでしょうか。命令するのはお上であるが、実際に「腹を切った」のは本人であるということにしてしまって、たとえ不当なものであっても一応みんな納得ずくの、みんな共犯のような形態をとってしまうわけです。「忠臣蔵」がこれだけ今に至るまで日本人に人気があるのも、実際に多くの不当な切腹が命じられ、その責任を誰も負おうとしない体制に対するうっ憤が募っていたことを如実に示しています。当時の幕府はこれを吉良上野介だけが悪人であるような物語に仕立てて民衆に与え、そうした不満のガス抜きとして利用しました。
いずれにしても、千利休がキリシタンの精神をうまく吸収し茶道という日本の一大アートとして昇華させたものである可能性は否定できるものではありません。
参照: 「聖書と日本人」 http://www.geocities.com/heartland/Lane/7662/nihon/nihon00.htm
インターネットは「Inter+Net = 埋葬の網」=霊の地獄
以下「飛鳥昭雄ミステリー大全」(飛鳥昭雄著、工学社)P147-149より抜粋ネット世界は肉体に束縛されないため、移動するのは人間の「心」、つまり「精神」となる。「思考」と言ってもいいが、「霊」という言葉にも置き換えられる。そこで、肉体はほとんど影響を与えない。そういう環境では人間の本性が露出する。
それは、ドライバーが、日頃は大人しくても一人で運転すると豹変して怒鳴り散らす光景と似ている。あるいは、職場や学校で大人しい人が、一人でいると本当の姿を見せるのと似ている。つまり人の本性である霊が、肉体の枠にとらわれずに露出する世界が、インターネットという空間となる。
…
責任が伴わないネット空間は、本性が露出する「霊」が捕えられる世界である。つまり、「霊の地獄」で、「Inter+Net」となる。
嫉妬深くてねたみ深い人間は、ネットの中でその性癖を増長させ、憎しみに溢れた人間は憎しみを加速させ、粘着性の強い人間はさらに粘着度を増し加え、異常な性格の人間はその異常性をさらに増長させて、それぞれの本性を加速させていく。
それこそ閉じられた貝(ケリッポト)であり、本性を露出した霊を埋葬する網となる。こうして、最後はサタンに見つけられて、次々と捕えられていく。
世界が滅びる前に、サタンは最大の刈り取り作業を行うというが、その最大の舞台がインターネットという補虫網かもしれない。
逆に、神も霊の刈り取りを加速させるとされ、良い霊性をもつ者はインターネットの中でも、良い部分を加速させることになる。
だから、電脳世界を構築するのは「1+0」で、「1」(存在)と「0」(無)の「光と闇」になる。我々の気づかないうちに、心霊の世界はインターネットへと舞台を移しているのかもしれない。
『天使と悪魔の「真実」』(ビデオメーカー)
『天使と悪魔の「真実」』(ビデオメーカー)
映画「天使と悪魔」の原作の方の分析ドキュメンタリーです。
各方面の専門家、学者がその内容の真偽を解き明かしていきます。
映画を見ただけだと映画の言うことを全部信じたまんまになってしまいがちなので、こういったもので補正する必要があると改めて思いました。
たとえば…
・作中でバチカン破壊を企む陰謀組織の重要メンバーであるとされた彫刻家ベルニーニは、彼について現在残される多くの文書や伝えられる言行から見ても、状況証拠から考えても、非常に熱心なカトリック信者であり、またカトリック信者であることの恩恵を最大限に享受していた。そんなベルニーニが反カトリックの陰謀に加担することは万に一つも有り得ず、ましてや自分の作品に暗号を残すなどありえない。「天使と悪魔」作中で最もお粗末な話の一つ。(しかし素人は騙される)
・根本的な理解が歪曲されているのだから、ベルニーニの作品に関して主人公に語らせる美術解説も当然軽薄な戯言にすぎないと言わざるを得ない。
・ガリレオやブルーノなどの異端審問といった特別な事例を除き、作中で指摘されるようにバチカンが科学者狩りをした事実はない。大体「宗教対科学」などという概念は現代人の発想にすぎず、当時はあくまで「一部の科学者が信仰から離反していくのを止めなければならない」といった問題意識である。
・ガリレオは当初から神学的科学者たる信念を貫いており、バチカンを吹き飛ばす陰謀組織をつくる動機は無い
・作中のイルミナティの反転文字(アンビグラム)はその当時存在せず、すべて作者ダン・ブラウンのお友達の創作。そもそも英語なのがおかしい!
・イルミナティといった科学者の秘密結社がバチカンと抗争するまでに大規模に膨れ上がった事実はなく、実在したものもドイツ語圏が中心であった
・反物質は20世紀初期からその存在が確認されており、そのことでいちいちテンパる聖職者などいない
・反物質はその運搬方法が未だなく、ましてや映画のようにコンパクトに持ち歩くのは不可能
などなど
また、専門家の口から聞くトリビアな知識も興味深い
たとえば…
・ビッグバンを最初に構想・研究したのはカトリックの修道士であった宇宙学者ジョルジュ・ルメートル
・過去に教皇の地位を巡る争いは熾烈で、教皇の暗殺や教皇による暗殺も度々あった。メディチ家の人間が教皇となり、上位聖職者の地位を親族で独占したこともあった。
・システィナ礼拝堂天井にあるミケランジェロの「天地創造」にはメッセージが隠されていたと一部ではささやかれる。以下を見ていただきたい。

絵画の中で神を象徴する白髪の男性と天使たちを貝殻のように包むマント?はさながら脳の様です。これはミケランジェロが、自分が解剖を知る者であることを示したかったのかもしれませんし、脳は神の大いなる業であると言いたかったのかもしれません。更にうがった見方をすると、彼は「神は人間の脳が創り出した」ものであるという皮肉を込めたのだという説もできます。
いずれにしてもこういう話は彼がそういった思想に傾倒していたという物証も状況証拠もない以上本人に聞くほかなく、勝手に解釈して決めつけるのは他者の名誉を不当に傷つけることになるのでやめましょう。ダン・ブラウンさんもこのことをよろしく理解していただきたいものです。
「天使と悪魔」と「ダ・ヴィンチ・コード」。ダン・ブラウンの作品は、日本の(通称)知識人や(知ったかぶりの)タレントたちからは”タブーを破り真実を暴きだす高級知的ミステリー”であるかのように大絶賛されてますが、世界の本当の知識人たちからは冗談扱いの、あくまでフィクションにすぎません。これを真に受けて向こうの人(特にクリスチャン)にネタをふったりすると知的レベルを疑われますので気をつけましょう。(実際にそうしてひどく相手に呆れられた人を知ってます。)
※とはいっても、壮大な史跡や美術品の織りなす小宇宙を渡り歩く知的興奮を作り出すワザにかけて、ダン・ブラウン氏がとても長けていることは認めざるをえないでしょう。フィクションとしての面白さは他に類がありません。実際聖職者や専門家からも、幅広い観客をより重要な議論に引き込むおとりとして、好意的に評価されているようです。
問題は彼の著作の冒頭の注記にはいつも、引用される歴史や地理や美術に関する情報はすべて「事実」であると書かれていることです。これがダン・ブラウンの最も悪質で異常なところです。小説を事実と称して憚らないのは異常なことです。たとえば数千年後に彼の著作が掘り起こされたとして、このたった一行の注記が真実の追究に及ぼす悪影響がどれほどのものになるのか。物書きとしてのモラルを厳しく疑わざるをえません。
「本当は恐ろしい江戸時代」(八幡和郎著)に思う、『日本人』という偶像
「本当は恐ろしい江戸時代」(八幡和郎著)
江戸時代は北朝鮮そっくりだった!
テレビの時代劇などであたかも日本民族のユートピアのように描かれる江戸時代。
でもその現実に目をむけると…
・武士は働かず賄賂が横行
・無礼と見なされれば問答無用の切り捨て御免
・お上に睨まれればとりあえず切腹
・残酷な刑罰ばかりで死体は晒しもの
・地方では餓死者続出
・教育水準も医療水準も劣悪
・平均寿命は20歳代前後
・間引きや姥捨て、次男以下の結婚禁止で人口は停滞
・女性差別・部落差別・階級差別は当たり前
・旅行など身体の自由はなし
・政治は適当で地方は概ね無法地帯
・参勤交代という無駄を強いることで社会全体を疲弊させるばかり
・将軍は顔で選んだ側室に生まれたバカ殿ばかり
・キリシタン弾圧のみならず、檀家制度で事実上宗教活動を封印
・鎖国による慢性的物資不足で土地も産業も社会すべてが荒廃、残るは禿げ山ばかりの退廃ぶり
鎖国で世界から取り残され、今の北朝鮮並みに歪で停滞した抑圧された社会を形成・維持・強化してしまったのが江戸時代の真の姿ではないかという著者の主張には目から鱗。
世の国粋主義者が言う、「鎖国で植民地化をまぬがれた。江戸の人たちは賢明だった。」などという主張は冷静に世界史を眺めればまったく逆であることがわかる。帝国主義的植民地化が盛んになったのは19世紀、世界の最先端の流れについてきていない後進国が次々飲みこまれていった。日本が生き残れたのはまさにその時明治維新で奇跡的な近代化を成し遂げたからこそ。逆に言えばそんな奇跡が必要なまでに、鎖国下の日本は知的にも体力的にも後退していたという他ない。
そもそも当時の日本人は世界について何のビジョンもなく、目先の国内の政治的駆け引きや(北朝鮮的)傲慢さにかまけて外国人排斥やキリシタン弾圧や貿易の禁止、外国船打ち払い令などを打ち出し、エスカレートしていった先にいつの間にか「鎖国」していたというのが実際のようだ。鎖国という概念自体、お粗末なことに、元禄三年(1690年)に来日したオランダ人医師ケンペルがその著書『日本誌』で(貿易独占で利益を得るオランダ人であるが故に)肯定的に書いた表現を一世紀以上後の享和元年(1801年)に長崎のオランダ通詞志築忠雄が訳して著書『鎖国論』に用いたのが始まりだというから、その意義は大本からして後付けである。
「キリスト教が植民地化の先兵であったのでキリシタン弾圧も正解だった。」というのも大間違い。南米が一気に植民地化されたのは彼らが金属の武器もインフラも持っておらず、上陸した欧米人を神と崇めるまでに文明の格差があったからに他ならない。むしろ一緒に上陸したカトリック神父たちは原住民を教育し、同じ人間として扱うよう本国に働きかけて差別撤廃に務めた。歴史に”もし”は禁物であるが、あえて”もしキリスト教が公正に受け入れられていれば”と考えるならばそれは確実に西洋との交流を促進し、東洋の明るい灯火としてポルトガル・スペインを筆頭とする西洋諸国に好意と敬意をもって認知されただろうし、当時より最先端の西洋の知識と技術を吸収することでかつて日本社会に根付いていた(あるいは今も継続される)諸々の野蛮さや停滞を克服し、今では考えられないような繁栄を可能にしたかもしれない。
日本民族のユートピアのように描かれる江戸時代劇を見ては鎖国センチメンタリズムに浸りたい気持ちはわかるが、当時の世界情勢をどう斜めに見ても、やはり鎖国は大きな過ちであり損失であったという他ないと思う。
また本書ではいわゆる”武士道”にも言及していて、これも巷に氾濫する徹底的に理想化され美化された武士像に違和感を感じていた当方として大変溜飲の下がる思いだった。
すなわち、新渡戸稲造の著書「武士道」に始まる一連の崇高な武士のイメージは、クリスチャン(クエーカー教徒)である新渡戸がキリスト教的精神に根差した西洋の騎士道になぞらえて(日本人に対するイメージを少しでもよくしたいという愛国的情熱も手伝って)でっち上げてしまったファンタジーに他ならない。
現実の江戸幕末の武士という人種は、高慢で残忍で狡猾で見栄っ張り、お上に対してはお角が立たないようにといつもビクビクしている現状維持、事なかれ主義の集団だったというのが本当のところではないだろうか。彼らは決して主体的な信念や道徳観など持ち得なかった、組織の歯車ではなかったか。そうであればこそ、彼らの子孫たる現代の日本人の性状を理解できやしないか。
新渡戸や現代の国粋的な人たちが思い描くような崇高で信念に忠実な武士たちであったなら、近代の日本も現代の日本も到底説明できないだろう。無論個人としてそういう人がいたかもしれないことは全く否定できるところではない。しかしそれを大和魂などと並べ立てて日本民族の原形であり、回帰すべき、あるべき姿であるなどという魅力的な偶像は、実は実体あるものでも自明のものでも何でもなく、武士が廃されて久しい後世に興国の意図をもって拵えられたファンタジーであるということに、いい加減目覚めるべきだろう。日本人としてありのままのアイデンティティーを捉えなおすためにこそ。
コテコテ大阪弁訳「聖書」(ナニワ太郎訳・編) 大阪弁で感想言うわ
コテコテ大阪弁訳「聖書」読んだわ。
今度は一体何読みさらしとんねん思わはるかもしれけど、読んでそのまんま、タコ焼度数120パーセントの手作り大阪弁訳聖書でおま。
聖書っちゅうても新約のなかでも一番標準的なマタイはんによる福音だけでまんねんけどな。
中身はナニワ太郎はんのコメントやら解説やらがちらほら入っとる他はなんもいろてへん、まるまるの「マタイはんによる福音」でっせ。
けったいな本やなあ思とったんやけど、読み始めよったらものごっつうおもろいんや。
聖書ゆうたら堅苦しゅーたり厳めしゅーたりしよるさかい、なかなか関西人マインドにすーっと入ってこんところがある思てたんやけど、大阪弁にしたったらこんだけ変わるもんや関心しよるわ。
ほんに聖書ゆうたらなんや理不尽やな思う話やら、えらい凄んできよるわ思う話やらぎょーさんあるで。イエスはんかてえらいキツ〜つっこんできよるとこあるで。それも大阪弁にしたったらごっつ耳に馴染みよるわ。つっこみと脅しと大阪弁は三位一体やさかいな。(冗談や。)
ほんま大阪弁最高やわ。世界共通語にしたったらええわ。
興味あったら読んでみなはれ。








