The Journey : Somewhere Down the Road - 200909

LASIK・近視矯正手術について考える



 東京都中央区にあった銀座眼科で、LASIK(レーシック)手術後に67人の患者が感染性角膜炎や結膜炎を発症した。銀座眼科は両目の手術が9万5,000円という破格の値段で有名な医院であったが、開院以来手術器具の滅菌器の点検をしていなかったり、診察時も消毒が不徹底であったりなど、医療者としてのモラルが欠けていたのが事故の原因と考えられている。
 角膜は無血管組織であるから感染に弱い一面がある。普段はリゾチームやIgAなどを含む涙液が油脂とムチンによって挟まれ角結膜表面に保持されるtear filmによって免疫が保たれているが、LASIKでは角膜上皮をこのtear filmごとフラップにしてめくりあげるため、感染対策には特別に注意を期さなければならない。

 今回は術後感染という明らかな医療ミスが公になったが、LASIKにまつわる問題にとってこれは氷山の一角ではないかという気がする。10月1日号の週刊文春では、「世界No.1症例数」やCMなどで名を上げる品川近視クリニックが手術機器の違法使用を行っていた実態や「手術を増やせ、診察は減らせ」という金儲け主義の裏に合併症や術後の不具合に苦しむ利用者の件が特集されている。
 LASIKにまつわる問題には、この術式の性質が大いに関わってくる。LASIKおよびその類似術式は合併症や高次収差など未だ多くの不確定要素を抱えている。
 確かに機械の高性能化によって、術者の能力を問わず、少なくとも一時的な視力の向上に関しては安定した成績を確保できている。しかしここで注意しなければならないのは、視力≠視え方の質であるということだろう。視力は二点識別能力で測られる。一般的にはCの字型のランドルト環が使われるが、このCの字がどれだけ暗かったり霞んでいたりぼやけていたりしても、線と線の間が識別できればその視力があると判定される。LASIKが保障するのは実にこの二点識別能力=視力だけであるということに注意しなければならない。

 先ほどの週刊文春から、被害者の話を抜粋させていただこう。田中洋子さん(仮名・三十代)は「人生が変わるよ」と友人に勧められて品クリでLASIK手術を受けたが、現在はそのことを深く後悔しこう語るという。
 「手術を受けたが翌日から地獄でした…。鏡で自分の顔が見えない。近くに焦点が合わない。視界には白い靄がかかっている。歩いてもフラフラするし、パソコンの画面を見ると気持ちが悪くなるので仕事も休みがちになってしまった。品クリには何回も「目がおかしい」と言いに通院したが、「あなたは2.0の視力が出ている。四十倍の視力になったのですから、慣れるまで様子を見てください」と言われるだけ。」
 この話を聞くと、明らかに高次収差の増大による視力障害が現れていることがわかる。高次収差とは光を波として考えたときに観察される不正乱視成分であり、網膜像コントラストの低下、コントラスト感度の低下をきたす。これは加齢による水晶体透明度の低下で自然に生じてくるものであるが、それが角膜レベルで人工的に、予測不可能な形で発生してしまうのが、LASIKをはじめとする角膜矯正手術の怖いところである。

corneaeye  cornea

 LASIK(Laser in situ keratomileusis)が具体的にどういう手術であるか簡単に説明してみよう。
 角膜corneaは最外表にある眼球成分であり、網膜を脳神経と考えるならば、まさに脳の窓である。
 角膜は5層から成り立っており、外から角膜上皮corneal epithelium、ボウマン膜Bowman membrane、角膜実質corneal stroma、デスメ膜Descemet membrane、角膜内皮corneal endotheliumとなる。このうち再生能力のあるのは、輪部に幹細胞をもつ角膜上皮ぐらいで、他はデシメ膜に少々ある程度と考えられている。
 角膜実質は膠原繊維、ムコ多糖、角膜実質細胞からなる最も厚い層であり、LASIKなどではここを削ることで屈折矯正する。ここで実質の主要な構成成分である膠原繊維に着目してもらいたい。白目になる強膜scleraも膠原繊維でできている。二つの違いは繊維の配列であり、角膜実質が透明である理由はその配列が奇跡的なまでに規則正しいからに他ならない。(逆に強膜は配列が粗いため光を乱反射して白く見え、眼球内に暗室を形成する。)そこに人工的に手を入れる場合、まずこの奇跡的な配列を壊すという点で、次に創傷治癒過程で個人差がでてくるという点で、ミクロな透明度の低下は避けられない。
 以上の理由から、LASIKをはじめとする現在の技術による角膜矯正手術では、自覚症状の有無に関わらず、高次収差の増大による全体的な視え方の質の低下は免れないものと考えられる。その程度や形態、予後は予測不可能である。このリスクを承知して今すぐに視力だけでも向上させたいと考える人、すなわち視力が生活に直結するスポーツ選手など以外に、矯正手術が気軽に推奨されることはあってはならないと、個人的に考える。メガネやコンタクト・レンズで矯正ができていて、ただ不便だからという理由だけでLASIKなどを考えている人には、悪いことは言わない、まだよしといた方がいいと考える。特に手術ありきで話を進めようとする商業的医療機関とは極力関わらないほうがいいだろう。


p.s.
 近年、フラップ作成に伴う合併症や高次収差を軽減する目的で、角膜上皮を一時的に除去してから実質にレーザー照射するphotorefractive keratectomy(PRK)という旧式の手法が再び着目されており、アルコールを用いたLASEK(Lasersubepithelial keratomileusis)、エピケラトームを用いるEpi-LASIKなどが行われるようになっている。また高次収差を含めて屈折異常を測定し手術するWavefront-guided LASIKのようなテーラーメイド型術式も模索されている。
 また角膜が最も移植の簡単な臓器であるという特徴を生かして、将来的には再生医療の発達により完成品の再生角膜を移植することで屈折矯正するという術式が普及するのではないかと考える。
 手術を考えている人はこうした対策についてよく考え、最新の技術にうまく対応している医師、術後の経過観察を丁寧にしてくれる病院を選ぶべきだろう。
 


「静けさの祈り」




 神よ、私に変えられないことを
  静けさをもって受け入れられるように、
  恵みを与えてください。
 私に変えられることを
  変える勇気を与えてください。
 そしてこの二つを
  識別する知恵を与えてください。
 一日一日を大切に生き、一刻一刻を満喫し、
 困難たりとも平和への道を信じて受容し、
 自分の思いのままではなく、
  あなたがなさったそのように、
  この罪深き世をあるがままに受けとめて、
 御こころに私自身をお任せすれば、
 きっとあなたが
  すべてのことを良くしてくださり、
 この世では、応分に幸せであり、
 あの世では、とこしえにあなたと共に
  至高の幸せであることを信じます。アーメン
 
 






 神学者ラインホルド・ニーバーの長文の祈りの序文であるこの「静けさの祈り」は、アメリカのアルコール依存症患者の会(AA)の中心的スピリチュアリティとしても有名です。

空ビール瓶のクレート





 今日ジョギングをしていると、近所の結婚式場の裏口から、なかで食器洗いをしている従業員の姿と、外に置かれた空ビール瓶のクレートが見えた。ほのかに漂う、飲み干したビール瓶の匂い。法学部時代にホテルのアルバイトをしていたころを思い出した。
 上智大学にいたころ、すぐ隣にあるニューオータニで配膳のアルバイトをしていた。自給1350円で結構な条件だった。立食会、パーティーや結婚披露宴など各種イベントを扱い、会場のセッティングからリネンの回収、出来立てほやほやのディッシュの運搬とテーブルまでの配膳、空食器集め、コース料理のテーブル請けまでやって、後片付けもする。とてもやりがいのある仕事だった。大御所のホテルだけあって各地から多種多様な客層がくるわけで、そんなお客さんたちを観察するのがとても楽しかった。時は小泉政権、歴史的な自民党圧勝のときには自民党の御歴々の記念パーティーもあって、わたしはあの扇千景さんがスピーチをしている前で空き皿を回収していたりした。いい思い出である。
 そして空ビール瓶を回収所まで運ぶのは、一イベントの終わり、一日の労働の終わりであり、その匂いにわたしは、ささやかな達成感と解放感を嗅ぎ取っていた。

 ホテル・ニューオータニはわたしが小さいころから家族とよく東京で利用していたホテルだった。従業員のモンキーコートを着てロビーを横切ったりすると、不思議な気持ちがした。かつて何の責任も背負わずぶらぶらしてサービスを受けていた馴染みの場所で、今はその舞台裏を駆けずり回り使役され、サービスを与える側となっている自分がいる。おもしろい。そして切ない。
 空ビール瓶の匂いを通してホテル働きの日々が、その日々の記憶を通して自分という存在の絶対的な小ささ、その実感が思い出される。

 人はテレビやコンピューターのスクリーンの前では自分が神になったような錯覚を覚える…とか言ったセリフが、何かの映画であった。一番いけないのは、自分が神のように見下ろせる世界しか知ろうとしないこと、感じようとしないことなんだな。
 世界にはいろんな顔がある。
 同じ場所にいても、同じものを見ていても、聞いていても、匂いっていても…。
 自分という存在は目の前の世界のほんの一部しか見てなくて、理解してなくて、そして自身も世界のほんの一部でしかないんだな。
 空ビール瓶の匂いと、肌寒い夕闇と、ちょっぴり寂しげな宴会後の裏口が、そんなことを思い出させてくれた。

 願わくば、空の薬瓶の匂いと患者さんが眠りについた寂しげな病院の廊下に、改めて労働の喜びと自分の小ささを味わえる日々が早く訪れんことを。
 



"Love, Patience & Time" by Eric Benet

 
  _____


love patience & time
(Eric Benet/Demonte Posey)

 砂漠で従軍中に脚を失った僕の友人グレッグは
 ぼうっと座って酒を飲みながら
 もう出来ないことに思いを巡らす日々を送っていた 

 しばらく笑うこともなかったグレッグだったけど
 元気を取り戻しつつあると聞いた
 彼はマラソンで昨年に続き優勝したんだ 

 人生の中で乗り越えなければならない嵐もある
 夜道で迷った時 希望こそは君を助けてくれるかがり火
 頑張りさえすれば その戦いに勝つことはできるだろう

 CHORUS:
 愛と忍耐と時間
 そのうちきっとうまくいくだろう
 愛と忍耐と時間
 その力はきみと僕の心の中に強くあるもの 

 パパに愛されることのなかったかわいい女の子がいた
 どうして男がみんな
 自分を除け者にするのか分からなかった

 その心が凍り 夢描いてきた愛が消える前に
 パパのしたことを許してあげよう
 そうしたら彼女も気づくかもしれない
 そう 僕たちは人生でいろいろな問題を抱えていて
 人のせいにするけれど
 No その悪循環の中 自分を失わないでほしい
 そんなことをしていては駄目だよ
 唯一できるのは 過去を忘れること

CHORUS X 2 

 僕たちは 世の中が信じ込ませようとするような
 そんな軽い存在ではないんだよ
 自分の中に存在する神さまほど 偉大なものはない
 愛と光を忘れないで
 そうしたらすべてきっとうまくいくだろう 

 みんな拳銃を手にしろと 多くの指導者は言った
 反対側の人々の意思を変えるために
 殺さなければならないと
 流血と恐怖により 世界を一つにできる
 そう断言する人もいるけれど
 愛と忍耐と時間さえあればうまくいくだろう
 僕はそう信じている





 珠玉のクリスチャン・ソウル・シンガー、エリック・ベネのチアフルで感動的な一曲。
 永田由美子さんの対訳がとてもよかったのでほとんどそのまま引用させてもらいました。ごめんなさい。

 英語歌詞:

I believe in the power inside of my heart
God is the source from whom we're never apart
No challenge too great and no cause too small
This infinite love is inside of us all

[Verse 1:]
My buddy, Greg lost his leg serving time in the desert
Sitting drinking, thinking of things he couldn't do no more
Took a while for Greg to smile, but I heard he's doing better
He just won a marathon, second year in a row

Oh, there's a storm that you're gone have to ride in your life
Hope is the beacon that saves when you're lost in your life
Just hold on and you'll go with the tide

[Chorus:]
Love, patience, and time
And it won't take long, till it's gonna be alright
Love, patience, and time
That power is strong in your heart and mine

Oh, na, na, na, na, na, na
Oh, na, na, na, na, na, na
Oh, na, na, na, na, na, na
Oh, na, na, na, na, na, na

[Verse 2:]
I knew a girl, a pretty girl, but her daddy never loved her
She wondered why every guy left her out in the cold
What Daddy did she must forgive, before her heart grows colder
And all the love she's dreaming of, maybe then she will know

Yeah, we've got stories and people to blame for our lives
No, don't get lost in that circle
Don't you know that's a lie, the only way is to leave the past behind

[Chorus: x2]
Love, patience, and time
And it won't be long, and it's gonna be alright
Love, patience, and time
That power is strong in your heart and mine

[Bridge:]
There's so much more inside you and me
That the world needs to still believe
Nothing's too great for this God and me
Keep in mind love and life
Everything is gonna be alright

[Verse 3:]
Grab a gun, everyone, said the leader of many
We've got to kill to change the will of the other side
Some people swear that blood and fear will bring the world together
I believe that all we need love, patience, and time.

[Chorus:]
Love, patience, and time
And it won't take long, and it's gonna be alright
Love, patience, and time
That power is strong in your heart and mine


静かに苦しむ − 『キリストにならう』

cross



 誰があなたの味方につき、誰があなたに反対するかをあまり重視してはならない。むしろあなたのおこなうすべてのことに、神が共にあるように注意しなさい。正しい良心を保ちなさい。そうすれば神はあなたを守ってくださるであろう。神に守られている人には、どんな悪も害を及ぼすことができない。もしあなたが、だまって苦しむことを学ぶならば、必ず神の助けを受けるであろう。神はあなたを助けるにあたって、最適な時期と方法を知っておられる。あなたは神により頼まなければならない。人間を助け、人間を恥辱のなかから解き放たれるのが、神のなさり方である。他人が私たちの欠点を見て、それを非難するなら、わたしたちが謙遜を保つ上で大いに役に立つ。

 人が自分の欠点のためにへりくだれば、たやすく他人の怒りをなだめ、他人を満足させることができる。神は謙遜な人を保護し、解放し、愛し、慰める。謙遜な人を保護し、豊かに恵みを与え、その謙遜のあとに永遠の光栄にあげてくださる。神は謙遜な人にその神秘をあらわし、優しくその人を招き、引き寄せてくださる。謙遜な人は、辛い試練の時にも平和のなかにある。なぜならばその人は、この世ではなく神に生きているからである。自分は誰よりも劣っていると確信しない限り、徳において何らかの進歩をしたと思ってはならない。






 以上、バルバロ訳(2007)『キリストにならう』pp117-118,ドン・ボスコ社 より引用。
 「第二の福音書」とまで賞される、中世の作者不詳の修得書です。毎ページが心からうろこです。




現代社会というカルト




 日本ではとかく、宗教というとカルト的な危うさを連想される。
 宗教とカルトの違いは何か。それは確かに微妙なものがある。
 日本の現行法では宗教とカルトの別はない。(欧米ではある)
 宗教というのは結局みんな、目には見えないものを奉じる、妄想的で反社会的な行為であり、異常な精神状態に他ならない、というのが常識人の大体の本音ではないかと思う。それは過去から現在まで起きた数々の宗教による数々の言動や事件を見れば明らかだ、と説明されるだろう。
 宗教とは知性、理性において未発達の人間のために作り出され、騙されやすい他人を操り、労せずして自らの優越性を他者に対して正当化する薄汚い手段である、と考える人は多いし、わたしはこの考え方を否定しない。しかしわたしの場合、この批判は“いわゆる宗教”にとどまらない。現代社会にも、自らを宗教と呼ばない事実上の宗教、多くのカルトが跋扈している。会社、ボランティア、マスメディア、サブ・カルチャー、あらゆるところに。

 たとえば体育会系の部活などはカルトを定義するあらゆる要素を含んでいる。閉鎖的な集団行動、有無を言わせぬ上下関係、肉体的・精神的な犠牲や懲罰を当然のように課し、これを当然のように受け入れる精神状態、伝統と称する不合理な苦行や一気飲みなどの変性意識を伴う儀式的性格、そして目標を成し遂げたときに共有される排他的な集団的恍惚感、そんな活動の日常的繰り返しとメンバー間の閉鎖的人間関係により強固に形成されてゆく帰属心、依存心。
 あるいはマスメディア。特定の歌手やアイドルたちを神々のごとく崇拝するファンたち。特定の文学や漫画・アニメや映画の世界に熱狂し、これを神話のごとく真剣に受け止め研究し、そのなかに人生の課題やその答えを求めてしまう人々。“流行”を追い求め、企業やメディア、権威の提示するあらゆるもの、人生観、人間観、ライフスタイル、道徳や価値観から星占いや血液型占いまでを、疑うことなく受け入れる人々(および疑いを感じながらも最終的に追従する人々)。それらを受け入れようとしない人たちを“流行おくれ”と蔑むことを当たり前のように考える、主体性のない無数の現代人たち。彼らはみな、自分たちがいかにその考えや行動を、他人の作り上げたものによって操作誘導されているかについて無自覚であるという点で、彼らの批判し蔑む古代や中世の人々となんら変わることはない。
 現代社会はその成し遂げたはずの知的、理性的進歩を差し置いて、極度のパラノイアにあると言う外ない。




『クアトロ・ラガッツィ〈上〉―天正少年使節と世界帝国』




 若桑みどり著『クアトロ・ラガッツィ〈上〉―天正少年使節と世界帝国』 (集英社文庫) (文庫) 読みました。
 大変読み応えがあります。一ページ一ページが、目からうろこでした。

 16世紀末期、戦国日本で急速に求心力を強めたキリシタン信仰。
 1579年に日本を訪れたイエズス会巡察使ヴァリニャーノは急速に拡大しつつある日本の教会、信者たちを目の当たりにし、またキリシタン大名や信長との謁見などを通して、それまでの非西洋文明とは別次元の、日本人の優れた知性、理性、気高さを目の当たりにし、キリスト教が日本に根付いたあかつきには西洋と比肩しうる偉大な教会、偉大な国家が誕生するだろうことを確信しました。そして日本に近代的な学校となるコレジオ、セミナリオを創設しました。
 ヴァリニャーノは世界の目を日本に開かせ、日本の目を世界に開かせるため、これらの学校の初穂となる四人の少年を彼と共にヨーロッパに連れて行くことを決意。当時最も栄えていたスペインやローマのバチカンへ、日本人として始めて訪れ、方々でキリシタンの国王や貴族に賞賛をもって厚遇されました。
 天正少年使節は、日本史上においても、またキリスト教史上においても極めて重要な意味を持ち得た事件でした。日本人が西洋と、キリスト教を架け橋として、尊敬をもって対等な文明として認知されようとしていました。しかし歴史はそれを許さず、結果的にはキリシタンに対するジェノサイドという最悪の形をもって陰惨に幕を閉じました。
 本書は今一度、あのとき日本に、日本人に何が起きようとしていたのかを見つめ、問いただす大著です。それもイタリア在住の西洋美術研究者の著者が、既存の権威に束縛されない知的、客観的かつグローバルな視点で構築していくもので、非常に筋が通っていて読みやすい。
 日本史の権威というと反キリスト教感情の強い、むしろ親仏教、親神道の御仁が多く、とかく矮小化されやすい戦国キリシタンの歴史ですが、著者は女性的感性と持ち前の国際的感覚でその意義を新たに問い直し、優れた洞察で諸説を比較検討しつつ語り直します。ちなみにこの著者自身はクリスチャンではないので、逆の客観性も確保されています。

 今回読み終えた上巻では使節の前提となる日本布教の歴史が紐解かれていきます。戦国の世に訪れて、神の救い、清廉純潔の美徳、弱者・貧者の救済という、それまでの日本にはなかった精神のあり方を説いた宣教師たち、そしてその新たな救済の法に真理を見出し人生をかけた幾多もの日本人キリシタン、キリシタン大名たちの姿が生き生きと描き出されます。
 そして来る迫害の土台となる、封建領主的で攻撃的な仏教陣営の存在、既存の権威体制を神道を利用することで維持する朝廷の存在、彼らの反キリスト教活動の熾烈さ陰湿さにも言及されており、この時代にこそ今も日本(特に坊主、仏教徒、神道関係者)に根付く反キリスト教的思想・言論の根源なり因縁を求めることができるのではないかと感じました。

 キリスト教は所詮舶来の宗教で、日本人にはむかない。わたしもずっとどこかでそんな思いを抱いてきました。
 しかし本書を読み、貴賎を問わず、男女を問わず、いかに多くの日本人たちが、時に禅宗の坊主ですらが、真摯な思いでキリスト教に近づき、真理を問い、自らの判断と責任においてキリシタンとなっていったか、そしてキリシタンとして死んでいったかを知るとき、そんな疑いは吹き飛んでしまいます。
 思えば現代日本人が考える古きよき武士道を定義した「武士道」を著した新渡戸稲造が武家出身のクリスチャン、まさしくキリシタン武士であったことも、神への忠義を旨とするキリスト教精神がいかに誠実を尊ぶ有徳の武士たちの精神に親和性が高かったかを暗示するようです。

 本書を読んで得た感想をすべて書き出せば本書と同じぐらいの分量になってしまいそうなので省略します。
 クリスチャンである人にも、そうでない人にも、キリスト教が好きな人にも、嫌いな人にも、日本人がそれと出会って何を思い、何をなしたかを知ることは大いに意義のあることと思います。
 わたしはこの本をすべての日本人に推奨します。


「ブラインドネス」「バビロンA.D.」「パニッシャー : ウォー・ゾーン」

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 「ブラインドネス」鑑賞
 以下あらすじをYAHOO映画より転載。
 “シティ・オブ・ゴッド』のフェルナンド・メイレレスが、ノーベル文学賞受賞作家ジョゼ・サラマーゴの小説を映画化した心理パニック・サスペンス。視界が真っ白になる伝染病がまん延する状況下で、人間の本性や社会の恐怖をあぶり出していく。出演は『ハンニバル』のジュリアン・ムーアをはじめ、日本からは伊勢谷友介と木村佳乃が参加するなど、国際色豊かなキャストが実現。サスペンスフルな展開と深遠なテーマで見せる注目の衝撃作。”

 感想は…映画館で観なくてよかった…。
 これだけの豪華キャストにしては、脚本も画作りもチープ。全体的に大変冗長に感じました。
 スペクタクルなパンデミック・パニック系を期待して観るにはまったくおすすめできません。
 目で見えるものと心で見えるもの…なにやらキリスト教的なモチーフをシンボリックに描いてみたかったのでしょうか。言ってしまえばカルト・ムービーです。

 失明といえば、現在眼科の講義をうけているので医学的な原因究明を期待していたんですが、残念ながらそういうのもまったくなくてがっかりでした。(T_T)
 感染する失明、しかし眼球には炎症反応もなく構造も正常、しかも視界は暗になるのでなく、まっ白くなる。考えられるとしたら中枢神経障害をきたすものになるのでしょうけどねえ…。
 とにかく現実性というものは度外視された映画です。

 5/10点






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 「バビロンA.D.」鑑賞。
 以下あらすじをAMAZONより転載。
“戦争やテロによって秩序が崩壊した近未来の地球。天涯孤独の傭兵トーロップが最後の仕事としてマフィアのボスから引き受けたのは、モンゴルの人里離れた修道院に身を潜める謎の女をニューヨークまで運ぶというミッションだった。想定外の危機に見舞われながらも、10,000キロの旅を続ける中で次第に明らかになる彼女の出生の秘密、そこに渦巻く地球の未来を揺るがす邪悪な陰謀。そして、ついにニューヨークに辿り着いたトーロップが迫られた究極の決断、“彼女を引き渡すべきか、それとも……”。かつて仕事に私情を挟んだことのないトーロップは、初めて死を覚悟して壮絶な闘いに身を投じていく。”

 これまた映画館で観なくてよかったと神に感謝したくなる一作。
 世界観は決して悪くはないのだが、脚本がダメというか、そもそも脚本ちゃんと作ってから製作を始めたのか、何か製作途中でトラブルでもあったのだろうかと疑ってしまうほど、ストーリーの破綻ぶりがひどい。
 一貫性のないその場しのぎのアイデアやイメージの羅列だけで、その実てんで脈絡のない様は、ホアキン主演の迷作「アンビリーバブル」を髣髴とさせる。
 あと下手に宗教を揶揄するようなオチは中学生臭い幼稚さを感じさせる。
 まとまったビジョンのないまま、金とビン・ディーゼルに頼って作っちゃいましたみたいな映画です。
 しかも最後は唐突な尻切れトンボで何の解決もない。
 ただ映像的にはなかなかいい近未来感が出ているので、プロモ感覚でDVDでチラ見する程度ならそれなりにありかも?

 4/10点





punisher


 「パニッシャー : ウォー・ゾーン」鑑賞。
 以下あらすじをAMAZONより転載。
 “たった一人で悪に制裁を加える孤高のヒーロー“パニッシャー”ことフランク・キャッスル。
ある犯罪組織のパーティを奇襲したパニッシャーによって見るも無残な顔にされた組織一の邪悪な男ビリー、その名も“ジグソウ”は、N.Y.中の武装ギャングを掻き集め、宿敵パニッシャーに怒涛の復讐を仕掛けて来る!”

 アメコミ原作のヒーローものといえばそうなのだけど、超人的な特殊能力とかはなく、マフィアの抗争に巻き込まれて妻子を失ったショックでプッツンしてしまった元特殊部隊員が日々重武装で犯罪者を惨殺するという、ダークでコアな内容です。
 何がすごいって、残酷な暴力表現が半端ないです。
 間違ってもお子様と一緒に観る映画ではありませんので、まずこの点注意。

 この主人公フランク・キャッスルはヒーローに珍しく信心深い人で、殺しの合間に足しげく教会通いするという、個人的にツボな設定が気に入りました。
 それ以外は、過激な暴力描写にしろダークでシリアスなヒーローにしろ、今の時代にはむしろ食傷気味な要素しか残らず、新鮮味には乏しいと感じました。

 7/10点



性産業と肉欲の罪 其の二



以下 Jason Evert (2007) 『PURE MANHOOD』 pp.21-24. CATHOLIC ANSWERS  より訳出引用。





 アラスカのエスキモーが彼の縄張りの中にオオカミの出現を認めたなら、彼は自分の家畜と子供たちを守らなければならない。しかしその賢明な狩人は、オオカミと直接対決するよりむしろ獣の食欲を利用する。彼は群れの中の一番小さい山羊を屠ると、その血をナイフの刃に垂らし塗り込める。そして北極の極寒の中にさらし凍らせる。ナイフに一層の血のコートをまとわせると、さらに血を注ぎ凍らせる。この行程は刃が厚い血の塊にすっかり覆われるまで繰り返される。
 夜の訪れまでに彼はキャンプの外に出て行って、そのナイフの刃が雪の上に突き出るように、ハンドルを地に埋める。オオカミは遠くの血の匂いも嗅ぎつけるので、そのナイフの凍った血を嗅ぎつけてなめ始めるのに長くはかからない。血の味は獣を興奮させ、オオカミはより激しくナイフをなめ始める。
 長くはかからず、刃の一部が露出され、オオカミの舌は切り裂かれる。しかし凍った血によって麻痺した舌の感覚は、痛みに気付くことがない。さらに多くの血が刃からなめとられると、温かいオオカミの血に替えられていった。自らの新鮮な血の味に狂喜すると、オオカミはそれまでに増して猛烈になめ始め、気を失うまで何度も舌を切り刻まれる。数時間のうちに、そのオオカミは出血多量で死ぬだろう。

 この罠は性産業の誘惑に似ている。人はそこで結果のない満足を得るだろう。そして渇望から逃れられたように感じる…しばらくの間は。しかし気付かないうちに傷を負っている。これはすべての罪について言えることなのだが、それらはあらゆる利益について気前よく約束し、実際には何も与えてくれない。
 性産業について言うと、最悪の影響は後々の人生になって、現実に女性を愛そうというときに現われてくる。性産業を利用する人々についての調査が明らかにするのは、彼らが自身のパートナーの愛情や、外見、性的な事柄について満足を得にくいということだ。ある夫は性産業の幻想に満足することを当然の権利とすら考える。彼らは自身の妻に満足できないのは彼女たちの責任であると感じる。

 ある高校生が私に「もし人生で最初に見る女性の体が妻のものであったなら、結婚ほどエキサイティングなものはないだろうな。」と言ったが、その通りである。
 私たちの心は神に与えられた無垢なキャンバスのようなもので、その上に我々は望ましい女性像を書き込んでいく。私は高校に入るよりも前から、グラビア雑誌やアダルトビデオによって女性の体についての期待を形成し始めた。卒業するころには、私の歪んだ女性に対する視点はごく普通のことであると思っていた。私は彼女たちを、車のパーツをカタログで閲覧するように眺めていた。私は彼女たちがいかに自分の肉欲を刺激するかで評価していた。美しい女性の姿は自動的に欲深い考えを惹起した。
 そうしたイメージを見ることには数秒もかからないが、忘れるには何年もかかることを、その時の私は知る由もなかった。私の目が性的なイメージの数々に移ろいゆくとき、それらがどれほど私の精神に深い影響をもたらすか、知る由もなかった。男性の脳の快楽中枢は正中視索前域核medial preoptic nucleusであり、そこは容易に調教される。男性が性的快楽を経験したとき、彼は自らの脳にその時見ているものやしていることを性的喜びと関連付けるように教える。性産業においては、男性の心は性的喜びを無数の禁じられた幻想と関連付けるように教え込まれる。
 果たしてそのようにして何年も生きてきた男性が突然ギアをシフトして健全で聖なる結婚生活を迎えることができるだろうか。もし男性が自らの肉欲にNOと拒否することを学ばないなら、本当の愛を迎えようとするとき、彼の肉欲がそれを破壊するだろう。

 脳は再調教できるが、そのプロセスは何年もかかる。だから今始めなさい。性産業の商品を捨て、まだすることがある。前教皇ヨハネ・パウロ二世が言ったように、神は「女性の尊厳をすべての男性の義務と定めた。」性産業に携わる女性たちに欲情するかわりに、本当の意味で愛し大切にしなさい。その方法の一つが、彼女たちを堕落させる性産業に投資し支援することを止めることです。
 本当の男らしさとは愛する者の善のために自らを否定し犠牲にすることであり、性産業はその意味で男を去勢するものです。それは女性から奪うことだけを教えます。しかしそうしたものを我々の人生から取り除き、すべての女性の尊厳のために戦うなら、我々は自らをむなしくし、女性が真に必要とする「神の男」となり、もはや彼女たちを貪ることはしなくなります。聖ホセマリア・エスクリヴァが言ったように、「男らしさのための聖戦crusade、男は獣たるべしとする者どもの蛮行に対抗しこれを無力化する純粋さが必要とされている。そしてその聖戦crusadeは君の行いにかかっている。」



ENCLAVE RADIO








ここで霊的な引用を。

仕事をこなすのは、なぜやらなかったのかを説明するより簡単だ。 







21グラム





 われわれは何度生きて、何度死ぬのだろう。
 われわれはみな、死ぬ瞬間に21グラム失うという人がいる。
 みな、同様に。
 21グラムのなかに何が納まっているというのだろう。

 その重みの中に、何が失われるのだろうか。
 われわれは、その21グラムをいつ失うのだろうか。
 その重みと共に、何が往くのだろうか。
 その重みの中に、何が得られるのだろうか。
 
 21グラム。
 5セント玉5つの重さ。
 ハチドリの重さ。
 チョコレートバー一個の重さ。
 21グラムは、何の重さだったのだろうか。










Can things be better?


「物事は、よくなるのだろうか。」

そう神に、運命に問うときが、人生には二通りある。

ひとつは、人生の門出、新しい生活の始まり、タブララサの心境で、
期待と不安の均衡した、弾むような胸中において発せられる。

もうひとつは、絶望、失望、悲嘆の果てに、人生の谷の底で、
それ以上落ちないという意味においてブルーな落着きを取り戻し、
諦めと淡い謙虚さをもって発せられる。

「物事は、よくなるのだろうか。」












神の子としての純潔


以下 JASON EVERT(2008)『THEOLOGY OF HIS BODY』pp9. Ascension Press より訳出引用。


「 17歳の青年があるとき私にこう訊ねました。“愛していない女性と寝るのはいけないと分かるんだけど、もし彼女のことを本当に愛していたら?ほら、今僕が付き合っている子、彼女のために死んでもいい。本気だよ。もし誰かが彼女の頭に銃を向けたら、代わりに僕を撃てと言うよ。そのぐらい愛しているんだ。”

 私は答えた。“分かった。そうしなさい。”

 彼は困り果てたように私を見た。“え?”

 私は説明した。“彼女のために死になさい。そう、君がヒロイックに女性の命を救うシナリオを想像をするのは楽しいだろう。神がそのような気高い欲求を君の心に授けたことには、何か意味があるのだろう。しかし、現実に向き合ってみよう。そんなことは起こりっこない。君のガールフレンドが何か組織的犯罪に関係でもしてない限り、彼女が今日銃で狙われることはないだろう。
 しかし、君が彼女を守るために立ち向かわなければならない人物はいる。それは君自身だ。
 もし本当に彼女のために死にたいなら、君の肉欲を滅ぼしなさい。
 もし本当に彼女を守りたいなら、彼女の魂を守りなさい。
 言い換えるなら、もし誰かが君のガールフレンドを撃ったとしても、彼女が神に会う準備が出来ているようにしなさい。君は彼女の永遠の命を守ったかね。あるいはもしかして、彼女の魂より彼女の肉体に興味があるのかな?”」

Theology of His Body/Theology of Her Body: Discovering the Strength & Mission of Masculinity/Discovering the Beauty and Mystery of Femininity


性産業と肉欲の罪



以下 JASON EVERT(2008)『THEOLOGY OF HIS BODY』pp11,12. Ascension Press より訳出引用。


「 以前、ある男性がわたしに、”ジェシカ”(仮名)という若い女性のために祈ってほしいとメイルしてきました。彼女は売春、そしておそらくポルノにも関わっていた。そして麻薬による脳卒中のため倒れました。彼女は昏睡に陥ったのち死んだ。父もわからぬ6歳の娘を残して。
 彼女の家族の友人はわたしに長いメイルを送ってきました。多くの男性がアダルトサイト上の女性に欲情しながら、そのモデルたちが生きているか死んでいるかも気にかけないという事実を嘆きながら。死んだ女性に欲情するということのおぞましさに、誰しも欲望の虚しさを思い知らされるだろう。彼は続ける。“彼女たちの演技を楽しむのではなく、…祈ってあげてください。”

 ジェシカの悲劇的な人生を知るとき、彼女が悪い選択を行ってきたことは明白です。しかしながら、重大な問題が浮上します。一体、彼女の人生に(本当の)男性はいたのだろうか。前教皇ヨハネ・パウロ二世は、「人の命の尊厳とバランスは、歴史上のすべての瞬間、世界中のすべての場所で、男性が女性に対して、女性が男性に対してどのようにあるかということにかかっている」と言いました。
 ジェシカは男性たちに対して何者であったのでしょうか。そして男性たちは彼女に対して何者であったのでしょうか。」



Theology of His Body/Theology of Her Body: Discovering the Strength & Mission of Masculinity/Discovering the Beauty and Mystery of Femininity



メルセデス・ベンツ 礼賛


papamobile


 ただいまベンツに乗っております。
 というか乗らせていただいてます。
 しかし自分で車が買えるようになったら、やっぱりベンツを選ぶでしょう。
 ベンツはいい車です。
 ローマ教皇専用車“パパ・モビール”も歴代ベンツでございます。

 「善か無か」の哲学で質実剛健を絵に描いたような設計。
 ゆえに中途半端な華美や豪華さ、新奇さを追い求めない、質素でスパルタンなデザイン。
 自動車というものの歴史を一から作り上げてきた確かな伝統。
 エアバッグや3点式シートベルトなど、いまやあらゆる自動車の標準となっている安全装置を一から構想し開発してきた先駆性とリーダーシップ。
 ベンツのすばらしさは揺ぎ無いものであります。

 しかしベンツに対してヤ○ザとか成金とか、古い偏見を持っている人がまだちらほらいるようです。
 まあ確かに高価なものです。しかし、上に述べたようなベンツの価値を素直に認めるなら、決して高い買い物ではありません。
 別にスワロフスキーが散りばめてあったり、ハンドルが純金製で高いわけではありません。外観もインテリアも、はっきりいって質素です。しかし一度走り出せば、その感触の確かさ、どんな場面でも必要十分の機能性、耐久性、安全性といったものに、ただただ安心感を感じずにいられません。こうした乗用車としての基本を徹底するためにこそ、ベンツは資源を投資しているのであり、それは贅沢というより信頼性の担保であると思います。
 ベンツは決して見栄っ張りのための車ではありません。見栄っ張りのための車は他にいくらでもあります。ベンツは、移動の道具としての質実剛健さと安全性のためには出費を惜しまない庶民の、堅実な選択になりえるものです。

 車の本質は移動の道具です。それ以上でも以下でもありません。
 その上で、ベンツは歴史と伝統ある由緒正しい道具であり、値段に見合った信頼性と安全性を提供します。多少無理して買っても、決して損な買い物ではないと思います。

 ベンツは自らの優秀性を自覚しているからか、PRにあまり力をいれません。
 対照的に、近年ブランド価値を飛躍的に向上させたアウディなどは映画、CM、オート雑誌に非常に積極的に投資しています。
 ゆえにベンツは悪く言われ放題というのが昨今の状況のように見えます。まあそれでも安定して売れるのだから、余裕の静観を決め込んでいるのでしょうか。
 ただ、このベンツの寡黙さのために世間では古い偏ったイメージが幅を利かせ、さらに競合ブランドのPRのたたき台とされていたりと、ベンツユーザーにとっては少々肩身の狭いこともあります。
 ということで今回ここに草の根PR。ベンツ愛用者の独り言でした。


自殺の本態

pray


 「こんなはずではなかった。」
 驚きとやりきれなさと涙と共に、そう叫ばずにはいられないことが、人生には幾多も起きる。
 世界のすべてから突き放されたように、呆然と立ち尽くす。
 そのとき、それまでの人生で味わった喜びも楽しみも安息も成功も、すべてが絶望の落とし穴への盲目で無益で愚かな道程であったかのように思われる。心は冷え、孤独に打ちひしがれる。

 「死にたい。」
 なぜ人は痛みを覚え、苦しみを感じるのか。それは、命が損なわれるものだからだ。死にたくないからこそ、人は痛み、苦しむ。痛み、苦しみを感じるからこそ、人は死の危険を察知し、そこから脱することができる。
 しかしその痛みや苦しみがあまりにも激しければ、そしてそこからの逃げ場が最早ないと観念したとき、人は自ら死を選ぶ。かくして人を死から遠ざけるための苦痛というシステムが、人を死に導くという倒錯が生じる。

 「死のう。」
 心が痛み、苦しむあまり、肉体の死をえらぶ。それは一つの自然現象だ。
 しかしまず問わなければならない。その心の痛み苦しみは自然であるのかを。
 多くの自殺願望を伴う精神的苦痛の根拠となっている、「あんな風な人、これができない人、こんなものや地位や能力を所有しない人は、無価値で死ぬべきだ」、という心理は、自然には生まれてこない。すべては人間関係や社会やメディアを通じて他人から直接的・間接的に受けたマインドコントロールであり、洗脳の結果だ。
 人の心に植えつけられた他者の人格的所産こそが、精神的苦痛を生む。
 精神的苦痛による自殺は、他者や社会による間接的他殺と同義である。
 死にたいと思ったとき、本当にすべきなのは、心の中に侵入して巣食う、そうした他者や社会を、心の中で死なせることなのだ。それがあなたの心のどれほどの領域を占めているかはこの際関係がない。自殺させようとする心に、守るべき価値はもうないのだから。


 “よみがえり”
 時に、他者に、社会に対して死ななければ、人は本当の命を生きることができない。
 肉体に原発しない苦痛によって人が死にたいと願うとき、それは人間関係や社会に吹き込まれた悪い心が死ななければならないことについての、比喩的な欲求であることに注意しなければならない。
 人間や人間のつくったものよりも偉大で寛大で悠久なるものに心を委ねるとき、人は悪い心の死を経て、新たな命を得ることができる。

 キリスト教で自殺が罪と定められることは正しい。「殺すなかれ」は自分に対しても当然適用される。それだけでなく、神のつくりし命を勝手に諦めることは、信仰の放棄に意義的に近い。
 逆に言えば、信仰に拠り立てば、自殺など考える必要はなくなる。信仰は、かくして人を人から自由にする。



「ダウト 〜あるカトリック学校で」

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 「ダウト 〜あるカトリック学校で」鑑賞。
 以下アマゾンから紹介文を引用。

 “シスター・アロイシス(メリル・ストリープ)は、誰もが恐れる厳格な聖ニコラス・スクールの校長。彼女は進歩的で生徒たちに人気のあるフリン神父(フィリップ・シーモア・ホフマン)を心の奥で嫌悪していた。ある日、シスター・アロイシスは、フリン神父がひとりの男子生徒に特別な興味を示しているという噂と、それを裏付ける彼の行動を耳にする。目撃者も証拠もなく、あるのはただ“疑惑”だけ―。しかしシスター・アロイシスは自分の抱く疑念を確信へと変え、フリン神父を追いつめる・・・。”

 舞台劇からの映画化となる作品です。
 内容は、はっきり言って見かけほどの深さはないと感じました。作者自身、もともと強烈な主張や哲学があって書いたものではないようです。
 なので良くも悪くも、神学的なテーマや宗教論的プロットとは無関係な内容となっています。
 かといってつまらない内容かというとそういうわけでもなく、観る者にテーマを抽出し考える材料を与えることについて類稀な巧みさがあります。

 見所はなんといってもメリル・ストリープとフィリップ・シーモア・ホフマンの迫真の駆け引き。2人の間に挟まれる純真無垢なシスター・ジェイムズ役のエイミー・アダムスも、とてもよく役を演じていておもしろい。
 またカトリック学校という舞台の日常がリアルに描かれていて、聖歌やミサ、厳かなインテリアなど、カトリック的な雰囲気がとても懐かしく、心地よく感じました。


 9/10点



「主よ、わが手を握りたまえ」 〜Jisas Yu Holem Hand Blong Mi



 「シン・レッド・ライン」という映画があります。
 わたしにとって生涯ベスト映画10に必ず入るだろう作品です。
 戦争、様々な生い立ちや立場や思想をもった人たちが、殺し合いの日々の辻褄を合わせようと苦悩する姿。そんな人間の愚かしい営みに関せずあり続ける、メラネシアの美しい自然。そして戦争を生む文明の対極として描かれる、原住民たちの素朴な生活と信仰。それを象徴するような、無邪気で朗らかな聖詠歌が、とても印象に残ります。
 その一つが下のJisas Yu Holem Hand Blong Miです。意味は、「主よ、わが手を握りたまえ」。まるでラテン語が日本語なまりした隠れキリシタンたちの“おらしょ”のような、ピジン・イングリッシュという現地語なまりの英語で詠われます。



Jisas Yu Holem Hand Blong Mi






ゆっくり、成人声バージョン Jisas Yu Holem Hand Blong Mi (Slower Version)





 ちなみにこの「シン・レッド・ライン」主演のジム・カヴィーゼルは自身敬虔なカトリック・クリスチャンで、メル・ギブソン監督の「パッション」でイエス・キリストを演じています。






Baba Yetu! 〜“主の祈り”の歌





オリジナル歌詞(スワヒリ語)

CHORUS
Baba yetu, yetu uliye
Mbinguni yetu, yetu, amina!
Baba yetu, yetu, uliye
Jina lako litukuzwe.
(x2)

Utupe leo chakula chetu
Tunachohitaji utusamehe
Makosa yetu, hey!
Kama nasi tunavyowasamehe
Waliotukosea usitutie
Katika majaribu, lakini
Utuokoe, na yule, milelea milele!

CHORUS

Ufalme wako ufike utakalo
Lifanyike duniani kama mbinguni. (Amina)

CHORUS

Utupe leo chakula chetu
Tunachohitaji utusamehe
Makosa yetu, hey!
Kama nasi tunavyowasamehe
Waliotukosea usitutie
Katika majaribu, lakini
Utuokoe, na yule, simama mwehu

Baba yetu, yetu, uliye
Jina lako litukuzwe.
(x2)





英語訳

CHORUS
Our Father, Jesus, who art
in Heaven. Amen!
Our Father, Jesus
Hallowed be thy name.
(x2)

Give us this day our daily bread,
Forgive us of
our trespasses
As we forgive others
Who tresspass against us
Lead us not into temptation, but
deliver us from Evil, and you are forever and ever!

CHORUS

Your kingdom come, your will be done
On Earth as it is in Heaven. (Amen)

CHORUS

Give us this day our daily bread,
Forgive us of
our trespasses
As we forgive others
Who tresspass against us
Lead us not into temptation, but
deliver us from Evil, and you wake the dead (?)

Our Father, Jesus who art...
Hallowed be thy name.
(x2)





 "Baba yetu"はChristoper Tin氏作曲で、「シヴィライゼーション4」という世界文明の歴史を俯瞰するゲームのテーマ曲として用いられました。この歌は英語訳を見てのとおり、聖書でイエス自らが指導された「主の祈り」となっております。



  主の祈り

“天にまします我らの父よ。

  願わくは御名をあがめさせたまえ。
  御国を来たらせたまえ。
  みこころの天になるごとく、
  地にもなさせたまえ。

  我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
  我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、
  我らの罪をも赦したまえ。
  我らを試みに会わせず、
  悪より救いいだしたまえ。

  アーメン!”



 この曲を含めた、Christopher Tin氏による多国籍言語の元気な聖歌を収録したデビューアルバム"Callin All Dawns"が現在氏の公式ホームページで予約販売されています。よろしければどうぞ。ちなみにわたしは注文済みです。
 http://www.christophertin.com/news.html
 
 ちなみにYoutubeより拝借したこのビデオではライオンキングの映像が使われていますが、イエス・キリストは、クリスチャン作家C.S.ルイスによる「ナルニア国物語」のアスランのように、百獣の王ライオンにたとえられることがあります。



「神は愛です」


 今日町を歩いていると、前に母娘がいた。
 まだ2〜3歳の小さな女の子は、突然立ち止まり、先を行く母は振り向いておいでおいでした。
 女の子は、待ってましたとばかりに、満面の笑みで無邪気な歓喜の声をあげ、そして全身で喜びを発散させるようにダバダバと走りよって行った。
 愛とはかくなるものなりと、わたしは感動した。

 もしかしたらあの母は実は罪深い人だったかもしれない。はたから見たら信用ならない人だったかもしれない。でもそんなことはあの時、あの瞬間、女の子にとっては何の意味もなさない疑いなのだ。
 生まれた時からそこにいて、見守ってくれる、ただ一人の、かけがえのない存在、母であること、それは絶対的で無条件な愛の対象なのだ。
 女の子は立ち止まり、母が振り向いてくれるのを待った。そのとき、母との間でreligionが起こった。(religionは日本語で宗教と訳されるが、ラテン語の直訳は「再び結びつく」ことを意味する。)そこには、絶対の安心と喜びがあった。
 
 「神は愛です」
 ヨハネ・パウロ2世前教皇の一言が思い出される。
 Religionとは、かの女の子の如く無邪気で純粋で境界のない愛に永遠なる実在を見出し、絶対的な安心と喜びの中に憩わせていただく、神の賜物に他ならないのでしょう。



なんぢら人を裁くな、裁かれざらん為なり。



“ なんぢら人を裁くな、裁かれざらん為なり。己がさばく審判(さばき)にて己もさばかれ、己がはかる量(はかり)にて己も量られるべし。” マタイ7章1,2


 …というイエス・キリストの言葉があるんですが、短くも深〜い言葉だなあといつも感心します。
 人間、生きていくうえで様々な評価にさらされ、様々な審判を迫られる。あれがいいと言えば、これは悪くなる。この人はすごいと言えば、あの人は大したことないことになる。この人が好きだ、尊敬する、末永く生きてほしい、と己のはかりで裁きを下せば、その同じはかりで他の人のことを、好きではない、軽蔑する、早く死んでほしい、と意識的にも無意識的にも裁きを下すことになろう。そしてその同じはかりで、やがて自身にも裁きを下すことになる。 
 心理学的にも、人間は他人も自分と同じように思い考えると錯覚しやすいところがある。
 他者に対して悪意や嘲笑の念をもつ人間は、他者も自分に悪意や嘲笑の念を抱いていると感じる。そうして実態のない疑いや恐怖に怯えることになる。
 だから、愚かで残酷で自分勝手な裁きは、してはならない。やがて自分を苦しめることになる。
 自分の考えや立場が“正しい”と奢ってはいけない。他者の“正しさ”に裁かれざらん為なり。

 かくして、無条件の愛を信じるとき、初めて人は救われる。
 イエス・キリストの教えは、なんと賢明なるかな。





“ なんぢら人を裁くな、裁かれざらん為なり。己がさばく審判(さばき)にて己もさばかれ、己がはかる量(はかり)にて己も量られるべし。” マタイ7章1,2

“ われわれはしばしば人を批評して、ある人を善い人と呼び、ある人を悪い人と呼び、またある人を愚かな人と呼び、ある人を賢い人と呼ぶ。でも本当はそう呼んではいけない。人間は川のように絶えず流れている。今日と明日では、もう同じ人間ではない。愚かだった者が賢くなったり、悪人が善人になったり、またその反対だったりする。だから人間を裁くわけにはゆかない。裁いたとたん、もうその人は変わっているのだ。” −トルストイ


“ もしも君が常に真実を語り、虚偽を拒否し、疑わしいものだけを疑い、善と益のみを願うほどに幸福な人間であるならば、君は悪人にも愚者にも腹を立てることはないであろう。
 「あいつらは泥棒じゃないか!詐欺師じゃないか!」と君は言う。しかし泥棒とか詐欺師とかは、いったいなんであろう?迷いに陥った人間ではないか。そんな人間は憐れむべきであって、怒るべきではないのだ。もしできるならその人に、現在のような生き方をしていてはその人自身のために善くないことを悟らせてやるがいい。そうすれば彼は悪を行うのをやめるであろう。もし彼がまだそのことを悟らないならば、彼が愚劣な生き方をし続けるのを怪しむに足りない。
 「だけどそんな連中を罰してはいけないだろうか。」と君は言う。そんなことはいけない。むしろ、この人は世の中で一番大事なことで迷いに陥っている、肉体的には盲目でなくとも、精神的には盲目なのだと、そんなふうに言うがよい。そんなふうに自分に向かって言うが早いか、たちどころに君は自分が彼に対して残酷であったことを悟るであろう。もしもある人が目を患って視力を失ったならば、君はそのために、その人を罰しなくてはならないとは言わないであろう。だのになぜ君は目よりも大事な、人間としての最大の幸福ーすなわち賢く生きる術を失った人を罰したがるのか?そのような人たちを怒るべきではなく、むしろ憐れむべきなのだ。
 そのような人々を憐れみ、彼らの迷誤を怒らないように努力するがよい。君自身がいかにしばしば迷誤に陥り罪を犯したかを思い出して、君の心に憎悪や残酷な気持ちが巣くっていることに対して、君自身を責めるがよい。” −エピクテトス


文読む月日〈上〉 (ちくま文庫)

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